溜まりに溜まった自宅の書庫を整理することになった。まずは大きめのものからということで、以前に実家にあったものを引き取ってきた百科事典に目が行った。1966年出版の「世界原色百科事典(小学館)」全8巻である。捨てるのには忍びないというので引き取ってきたが、以来一度も手にしたことがないものだ。捨てる決意をして古本チェーン店に問い合わせたが、値段はつかないという。仕方なしに、資源ごみとして処分することになった。

  • 筆者の実家から引き取った「世界原色百科事典」

    筆者の実家から引き取った「世界原色百科事典」。結局は資源ごみとして処分することに… (著者撮影)

1. 昭和の家の応接間にあった百科事典

私が生まれた昭和30年から40年にかけて百科事典ブームというのがあった。高度成長を遂げて豊かになった日本の一般家庭にもある程度の金銭的な余裕が出てきて、百科事典を揃えて応接間の書庫に陳列するというのが流行した。私の実家にも応接間というのがあり、そこには「日本文学全集」とともに、上述した「世界原色百科事典(1966年発行版)」がガラス張りの書棚に収められていた。その佇まいは子供心にもいかにも重々しくて、やはり当時のステータスシンボルとなっていたのだと思う。人間の叡智をできるだけ広い分野で蒐集し、それを分野別あるいは50音順などの「検索」しやすい形にまとめた百科事典の歴史はかなり古い。情報の分類方法、執筆者の属性等により、その使用目的もまちまちであるが、私が幼少期に手にしたこの百科事典は、当時としてはかなり贅沢なカラー写真を満載して、古代の美術から、生命科学や医学関連の図解が満載で、子供の好奇心を満たすのには十分すぎる情報量だった。50音順に全8巻にまとめた大掛かりな書物で、一冊1800円という値段は、当時としてはかなり高価なものであったのだと思う。典型的なサラリーマン家庭にとって、百科事典はステータスシンボルとなったので、一時期訪問販売競争が激化して社会問題になったという話もある。

捨てる前に少しはページをめくってみようと手にする。何しろそのタイトルにつけられた「世界」、「原色」というのがいい。ズシリと重い事典のページをめくってみるが、やはり情報の古さは明らかである。すでに確定した古代文明に関する記述や写真には違和感はないが、電子分野では真空管などの記述はやっとのことで掲載されているが、当然のことながら「集積回路」や「CPU」などの記述はなく、「人工知能」は「人工頭脳」という見出しとともに「電子管やその他の装置とともに構成された情報処理/計算や自動制御を行う機械の総称」という説明とともに「実用的な装置としては高射砲の弾道計算、航空機の航路解析など、第二次大戦下の軍の要望に応えて1945年にアメリカで完成された電子計算機エニアックが最初のもの」という紹介があった。

  • 原子力潜水艦と原子力発電を解説したページ

    原子力潜水艦と原子力発電を解説したページ (著者撮影)

ぱらぱらと他のページもめくってみたが、現在ではやはり情報源としての価値は限りなくゼロに近く、やたらにかさばる全8巻は資源ごみ行きが決定された。

2. 検索の意味を根本から覆す可能性を持つChatGPTの出現

「原色世界百科事典」から約50年経った現在、とかく現代人は検索に忙しい。我々はいつごろから四六時中検索をするようになったのか? 今や我々は何か知りたいものがあれば「検索」をして、最適な情報が瞬時に入手可能な時代に生きている。しかしその利便性ゆえに、検索エンジンを搭載したスマートフォン(スマホ)なしには生活ができないくらいに依存するようになった。しかも、その利便性と引き換えに、高度な個人情報を含む膨大な量の情報をホスト側に毎日せっせと提供している。世界中の利用者からひっきりなしに情報を蒐集するホスト側は、その巨大なデータベースを基に、対話型のインタフェースを持ったAIが提供されるところまできた。

ChatGPTを採用した検索エンジン「Bing」を搭載した「Microsoft Edge」をMicrosoftが一般ユーザーに公開すると、あっという間に検索エンジンをベースに巨大企業となったGoogleのビジネスを脅かす存在と言われるようになった。OpenAIが開発したChatGPTの最大の出資者となったのが、かつて総合大百科「エンカルタ」をCD-ROM/DVD-ROMで販売していたMicrosoftであったというのが興味深い。当然予想された事だが、Microsoftは世界中で使われているOfficeパッケージにChatGPTを実装することも発表した。これで、現在ではすでに文房具化したWordやExcelなどのアプリケーションの利便性は飛躍的に向上するだろう。

ChatGPTはその発表後、瞬く間に広がったが、当初は興味本位の個人ユーザーがほとんどだった。それがChatGPTの発表を受けて2か月も経たないうちに企業各社から実に各種各様のAIサービスが開始されるようになった。それらのサービスは各社の特色を活かしたフロントエンドのユーザーインタフェースを持ってはいるが、裏側ではChatGPTが力仕事をしている場合がほとんどだ。こうしたサービスは実証試験から商品化までの期間が極端に短く、口述記録の書き起こし、長文書類の要約、弁護士相談など多種多様な身近なアプリケーションが提供され、実際の仕事環境にどんどん取り入れられている。ChatGPTの利用範囲は、こうした身近なアプリケーションに限らない。専門の科学者が永年の研究で多くのパラメータを扱いながら辛抱強く解析してきたタンパク質の3次元構造解析などの難問や、多くのプログラマが何時間もかけて書くプログラムの多くの部分を実にスピーディにこなす。それぞれの分野で生産性を飛躍的に上げるツールが次々と商品化されている。

2022年11月に彗星のようにデビューしたChatGPT。AIサービスのクラウドビジネスはそのChatGPTを活用を決めたMicrosoftの総取りのような印象を受けるが、これはAI元年の単なるスタートでしかない。

人間の言語に近い高級言語モデルを備えた生成AIは日々蓄えるデータベースと、GPUをはじめとするAIアクセラレータ(半導体)の性能向上で処理能力がぐんぐん向上する。AIは物忘れをしないし、新たな情報が提供されれば古い情報が瞬時に上書きされアップデートされる、学習データが大規模になればなるほど精度が増すので絶え間ない強化学習で常に勉強する。

巨大ITプラットフォーマー各社はこの競争状態にあって、独自開発の生成AIサービスを本来のリリース時期を早めて提供を始めている印象がある。こうした状況を受けてすでに「AI脅威論」、「AI倫理の必要論」、「法整備の必要論」など百家争鳴の状態になっている。イタリアをはじめとして、個人情報の扱い方に厳格な立場をとるEUは早速AIの急速な普及に対し身構える反応を示している。ChatGPTの発表から3か月も経たない現在、OpenAIの創立に関わったTeslaのCEO、Elon Muskをはじめ、これまでAI開発を推進してきた人々からかなり真剣な警戒論が出てきている。

百科事典は人間の生活を変えることはなかったが、高級言語モデルを駆使した生成AIは我々の生活スタイルを根本から変える可能性がある、それもかなりのスピードで。