宇宙航空研究開発機構(JAXA)によるH3ロケットの初打ち上げは、固体ロケットブースタが着火しないという問題が発生し、発射直前になって中止された。その後の記者会見からは関係者の落胆がひしひしと感じられた。宇宙開発の困難さが伺い知れたが、今後も挑戦は継続される。
H3ロケットとは関係なく、最近全く偶然ながら読んだ本で興味深かったものをご紹介する。今を時めく売れっ子作家、池井戸潤が2011年に直木賞作家となった代表作「下町ロケット」である。この作品は映像化もされ、かなり話題になったので、タイトルを耳にした方も多いと思う。池井戸潤というと、これもテレビドラマで話題となった「半沢直樹シリーズ」で多くの視聴者を魅了したように、どちらかというと銀行を相手にした金融分野の小説のイメージが強いが、「下町ロケット」は宇宙ロケット用の水素エンジン技術を巡ってのストーリーで、私が興味を持ったきっかけはそこにある。文庫本でも出ているので是非手に取っていただくことをお勧めする。映像化されたものを観るのも手っ取り早いが、400ページを超える長編小説ながら、あっという間に読めてしまう面白さである。東京大田区に工場を構える中小企業“佃(つくだ)製作所”が銀行や大企業を相手に幾多の困難を乗り越えながら奮闘する。
ネタばれなしのあらすじ
ネタばれで本を読む興味を失わないようにざっとあらすじをご紹介すると、宇宙科学開発機構の研究員であった佃航平は国産ロケット用大型水素エンジン「セイレーン」の開発担当者であったが、発射実験が失敗し研究員としてのキャリアを諦める。
宇宙科学開発機構を退職した佃は、父親の死去に伴って大田区に工場を構える従業員200人足らずの中小企業“佃製作所”の社長として家業を継ぐことになる。
小型エンジンの精密部分を得意とする佃製作所は佃の采配のもとに順調に成長するが、既存の大口顧客から「キーデバイスの内製化」を理由にある日突然注文をキャンセルされる。それに追い打ちをかけるように、大手競合から特許侵害で訴えられ、銀行も融資から手を引く姿勢を見せ窮地に立たされる。法廷闘争に臨む佃だが、ある敏腕弁護士の発案による逆提訴でこれを乗り越える。特許侵害訴訟を見事に乗り越えた佃だが、今度は国産ロケットを開発する巨大企業、帝国重工が佃製作所が所有する高性能エンジンバルブ技術に触手を伸ばす。佃自身の開発による水素エンジンの特殊バルブをめぐって弱小企業と巨大企業の駆け引きが始まる。
AMDとIntelの熾烈な競争の歴史と多くが重なる壮大なストーリー
私は宇宙開発についてはずぶの素人だし、ロケット用の水素エンジンのバルブなどについては全くわからないが、このストーリー全体は技術をめぐる両社の競争で、丁々発止のやり取りはかつて私が経験したAMDとIntelの熾烈な競争の歴史と多くが重なり、相当の興奮をもって一気に読み終えてしまった。AMDとIntel、そして下町ロケットからは下記の共通点が見いだされ、非常に印象的だ。
- 全体は中小企業対巨大企業の戦いの構図:現在ではAMDを中小企業と言う人はいないと思うが、私がAMDに勤務した時代はIntelは8倍のサイズの巨大企業で、AMDは何度も窮地に立たされた。
- 特許をめぐる法廷闘争が面白い:AMDはIntelから特許、商標、著作権など多岐にわたる大小10件以上の訴訟を仕掛けられたが、最後にはAMDがIntelを相手どった独禁法違反の逆提訴で和解しすべてが終息した経緯がある。しかし決着までの道のりは長かった。Am80287・コプロセッサーの販売に際しては、マイクロコードの著作権をめぐりIntelが仕掛けた陪審員裁判の第一審判決で販売停止に追い込まれ、私は客先対応に追われた(その後逆転勝訴となった)。逆にAMDがIntelを相手取った独禁法違反の提訴では、私自身が原告側の証人の1人として、米国で行われた“Deposition”(法廷外で行われる口頭尋問)の対象となった事もあった。「ハラハラドキドキ」の連続だったが、そこには日米の敏腕弁護士の活躍があった。
- 佃航平をはじめとして個性豊かな登場人物が興味深い:私はAMDの創業者ジェリー・サンダースをはじめとするAMDの面々、そしてAMDを贔屓にしてくれたカスタマーを含む多くの個性的な人々から多くを学んだ。いくら技術中心の世界とは言え、ビジネスは最終的には人間同士の営みである。個性がぶつかる現場にこそ醍醐味がある。
- 窮地に立たされた時が力の発揮どころ:窮地にある時ほど味方のありがたみを感じるものだ。AMDはK5の失敗で大きなピンチを迎えたが、営業VPの紹介によって実現したNexGen社の買収でK6を成功させ息を吹き返した。また、果てしなく続いたIntelによるAMDへの数々の訴訟では、同じ目にあっている他社からの協力もあった。
絶対的な窮地をチャンスに変える「絶対にあきらめない信念」
下町の中小企業を舞台にした「下町ロケット」がこれほどまでに共感を産んだ理由は、佃製作所の社長である佃航平と彼を取り巻く社員たちの個々の魅力であろう。
小さい会社ながら自社の技術に絶対の自信を持つエンジニア、度重なる財務危機にもめげず何とか金策に知恵を絞る経理部、外的影響により佃製作所への信頼が揺らぐ顧客をつなぎとめる営業部、といったそれぞれの部門の登場人物が確固たる矜持をもって数々の難関に立ち向かう姿が生き生きと描かれている。月並みな言い方ではあるが「絶対にあきらめない信念」に勝る強さはない。
作者の池井戸潤は銀行員出身であるが、ロケット用の水素エンジンバルブというとんでもなく技術的な主題を中心に据えて(関連業界の方々にとっては、突っ込みどころ満載だと思うが)、一気読みの小説に仕上げる手腕は当代の売れっ子作家の代表作として一読の価値ありだと言わざるを得ない。
後続のシリーズが発表されていて、2作目は先端医療に挑戦する佃製作所の物語であるが、そのうち半導体業界も扱われるのだろうと楽しみにしている。