ちょっと前に半導体サプライチェーンの自国強化を目指して、中国政府が高々と掲げた「中国製造2025」が暗礁に乗り上げている印象がある。
世界最大の半導体市場を抱える中国にとって、半導体の地産地消は国家経済安全保障上の中核部分となっているが、米国政府の半導体輸出規制により「2025年までに需要の70%を国内で製造」という目標達成は不可能である公算が強い。そんな状況で最近国内外で報道された中国系企業のスパイ活動容疑に絡んだ台湾政府による強制調査のニュースが目を引いた。
台湾政府が仕掛ける「スパイ・キャッチャー」
台湾当局は台湾に展開する中国系企業約100社に対し、中核技術の不正入手の容疑で強制調査を行うことを決定した。すでに27社が調査され8社が起訴されたという。台湾当局が開始した俗称「スパイ・キャッチャー」には下記の背景がある。
- 米中の技術覇権争いの核心部分の1つとなっている半導体技術分野は、米国企業からの中国企業に対する半導体・製造装置などの輸出規制が効力を発揮して、ファーウェイを代表とする中国のハイテク企業に方向の転換を迫る結果となっている。この規制は米国籍企業のみならず、TSMCを代表とする台湾企業にも適用され、中国にとって製品の輸入によってこれらの最先端技術を取得することはより困難となっている。
- こうした状態が続く中、中国半導体企業は香港企業を装ったエージェントを通して、台湾の半導体技術者の強引なリクルート活動を活発化している。TSMCなどのファンドリー企業や、ファブレス半導体設計企業の優秀なエンジニアに対し通常の2-3倍の報酬をもちかけ、彼らが持つ技術を取り込もうとさかんなアプローチをかけている。
- この中国側の強引なやり方を経済安全保障にかかわる攻撃だと認識した台湾政府が国家安全法の改正に乗り出し、該当するケースには懲役・罰金を含む刑事罰をかける動きに転じた。
半導体技術は設計図・ロジック図・マイクロコードなど、具体的な形で媒体に残されたもの以外にも、基本アーキテクチャーなど技術者の頭の中に格納されているものも多く、これらの技術蓄積の防衛を目的に総合的に網をかけるというのはかなり困難な事であるが、台湾政府が敢えて規制に乗り出した背景には、過去にもこうした形で頭脳流出が繰り返されている半導体業界の歴史がある。かつて、世界の技術をリードした日本半導体企業の凋落時に、日本企業から優秀な技術者が好待遇で韓国企業に移籍した例は私の周りでもよく目にした光景である。優秀な技術者にとって、斬新な自身のアイディアを具現化することは大きな夢であるが、高額な報酬を提示されて職場を変えることはよくあることだ。
ハイテク業界のスパイ事件の歴史
ハイテク業界のスパイ事件と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、1982年の「IBM産業スパイ事件」であろう。IBMのメインフレーム・コンピューター全盛の時代、日立や三菱はIBM互換機の製造でIBMの市場を侵食していた。
この状況に業を煮やしたIBMは、新製品に組み込む基本ソフトの一部をファームウェア化して、互換機を振り切る作戦に出た。ところが、日立は米国の協力会社からその情報の一部を入手し、全情報を買い取りたいと申し出た。この情報を察知したIBM側は技術流出を恐れ、結果的にFBIが乗り出し「おとり捜査」が展開され、日立・三菱の計6人の従業員が逮捕されたという事件である。この事件は最終的に和解が成立したが、コンピューター業界を経験し始めた私にとって「おとり捜査」などという物々しい言葉を耳したときは大変に驚きであった印象を持っている。まさにスパイ映画のような展開で、その後実際にシリコンバレーを舞台としたスパイ映画が製作されたこともある。
私がAMD勤務中にもシリコンバレーではこの種の事件が時々発生していて、地元紙に派手な捕り物の顛末が掲載されていた事もある。詳細は覚えていないが、私が日本から出張した際に利用した便の中に中国国籍のエンジニアが数人搭乗していて、サンノゼ空港に到着した瞬間に到着ゲートで待ち構えていた捜査官にお縄になったところに遭遇して大変に驚いた事もある。
複雑化する知財の問題
今から30年以上前になるが、AMDはIntelからx86ライセンス契約を一方的に破棄され、公開情報のみを頼りにリバースエンジニアリングで完全互換チップAm386を設計した。その時の公開情報とは、Intelの80386のデータシートと、80386チップ自体であった。AMDは数十万枚に上る80386回路の拡大写真を目視で解析し、ロジック設計をまっさらな状態からやり直した。そのプロジェクトにかかわるエンジニアは親類縁者にわたるまで、Intelの縁故者を排除した設計グループで成っていて、Intelの技術情報を一切使用しない独自設計の互換チップを完成させた。
しかし、Am386のトランジスタ総数は27万5000個であった。何十億個という膨大なトランジスタを集積する今日のマイクロプロセッサーの時代からは考えられない事であるが、ほんの30年前に実際に私が目にした事実である。
特許や著作権で知財の多くが保護される今日でも、優秀なエンジニアたちによって考案される新たなインタフェースやアーキテクチャーが日夜生み出されている。半導体それ自体が国家戦略の基礎を築く現代では、優秀な半導体エンジニアの獲得が重要な要件となってきているが、知財防衛の前線は非常に複雑になってきている。