世界が注目した米大統領選挙は終了したが、暫くの間現職のトランプ大統領と民主党候補のバイデン氏双方が勝利宣言をするという奇妙な状態のままであった。

先週末になって票の数え直しをしたジョージア州などの全50州の勝敗がやっと判明し、バイデン候補が全米538人の選挙人のうち306人を獲得して勝利したと各メディアが伝えた。

通常では現職大統領から次期大統領へ権限移譲のための「敗北宣言」があって政府が移行へのプロセスを迅速に進める事になるが、トランプ大統領は選挙に不正があったという主張をし、いまだに「敗北宣言」を行っていない。この宙ぶらりんの政治空白期間にもコロナの感染は急速に広がっており、外交も停止状態になっている。世界最大の覇権国であるアメリカ合衆国の政治空白状態は世界に大きな不安感を与えている。

トランプ大統領側は「選挙での不正」を盾に訴訟準備を進めているというが、いまだに不正の証拠らしいものは一切提示されていない。私は約10年以上前にAMDがIntelを相手どって起こした独禁法違反行為についての訴訟に関わった経験もあって、トランプ陣営にはどんな訴訟戦略があるのだろうかと非常に興味を持って見守っていた。

訴訟戦略がはっきりしないトランプ陣営

4年に一度の国を挙げての大統領選挙の結果について、現職の大統領が「選挙の実施について不正があった」と訴訟を起こすのであるからこれは一大事である。ことによっては選挙結果が覆る可能性があるからだ。これまでの報道を見て私が感じている大きな疑問は以下の2点である。

  • 誰を相手取った、何を勝ち取るための訴訟なのか?
  • 訴訟を起こすに足る不正の証拠はあるのか?

これに対して、トランプ氏自身も含めたトランプ陣営からは「不正があった選挙なので結果を受け入れることはできない」の一点張りの主張で真相がまったく分からない。

トランプ陣営は大規模な弁護団を組織しているというが、その代表であるジュリアーニ氏(もとニューヨーク市長で現在はトランプ氏の顧問弁護士となっている)が選挙後まもなく短いプレス発表をしたが、その発表でジュリアーニ氏は「これから精力的に証拠集めに入る」と言ったきりで訴訟に関する詳細を語ることはなかった。かたや大統領府の前では「選挙無効」を訴えるトランプサポーターと「バイデン勝利」を叫ぶバイデンサポーターがにらみ合う状況である。

訴訟準備が進むにつれ、トランプ弁護団の一部の弁護士たちが離反しているという報道もあるくらいで、どうも形勢はトランプ氏に有利には見えない。私が何より衝撃を受けたのは今回の訴訟の責任者であるジュリアーニ氏が公開の場で「証拠集めを開始する」と言って、トランプ陣営には現時点では確たる証拠がないことを最初から認めてしまったことだ。訴訟件数が図抜けて多い訴訟大国米国では異様な光景である。もしかするとトランプ氏の真の目的は訴訟に勝つことではないのではないかと訝ってしまう。

万全の準備の後、満を持して訴状を公開したAMD

AMDとIntelの確執には長い歴史があるが、私は勤務した24年間で大小10件以上にわたる訴訟を経験した。その中でも独禁法違反についてのこの訴訟は極めて大規模なものだった。概要を言ってしまえば「K7によるAMDの躍進を止めようとIntelが独占的地位の濫用を行い、AMDを妨害する目的で多くの法律違反の行為をした」というものである。結果的に、この訴訟は公判が始まる直前にAMDとIntelが和解して終了した。この和解によってIntelはAMDに対し1250憶ドルの和解金を支払った。この結果を見ればこの訴訟ではIntelが負けを認めたことは明らかである。

  • K7コア

    AMD躍進の立役者Athlonに搭載されたK7コア(カートリッジ内部写真)

企業規模で5倍以上の巨大企業Intel相手の訴訟に臨むAMDは、あらゆる事態を想定して確実に相手を追い込むための明確な訴訟戦略を持ち、確固とした証拠集めを時間をかけて行った。このプロセスには地道で綿密な調査、それと粘り強い関係者との交渉が要求される。私はその過程に直接関係していたので、かなりストレスの高い経験であったが大変な勉強になった。AMDが巨大企業Intelを相手に起こしたこの大掛かりな訴訟の戦略は下記のとおりである。

  • 訴訟に先立って、可能な限り客観的な証拠をできるだけ多く集める。証言には個人名は勿論のこと、その発言・イベントが何時どのような状況で起こったかを詳細にわたって記録する。
  • 証言はAMD側だけでは充分ではなく、より客観性を持たせるためにAMD/Intelの顧客からの証言が必須となる。Intelの圧倒的な市場支配力の影響下にある顧客はAMDのために証言することによってIntelからビジネス的に不利な扱いを受けることを大いに嫌うので、実名での証言の合意を得るためには粘り強い交渉が要求される。
  • AMDのIntelへの訴訟準備と並行して、各国の独禁当局との協力を積極的に進める。これはIntelの競争阻害の商行為が、単なる競合企業間の問題ではなく市場全体、ひいては消費者の利益に直結する問題であるということを明らかにするために絶対に必要な条件である。

長きにわたる周到な準備の過程では、実際の訴訟の正当性を裏付ける重要なイベントが発生した。日本でこのプロジェクトに参加していた私にとって、最も大きなイベントはIntelの競争阻害行為についてかねてより懸念を持っていた日本の公正取引委員会が世界に先駆けてIntelへの強制調査に踏み切り、それによって収集した膨大な証拠に基づいて行った「排除勧告」である。これは客観的にみて「Intelが大きく法を逸脱した競争阻害行為を行い消費者の利益を害した」という事実を当局が認定したという大きなものであった。その後まもなく同種の判断は欧州と韓国の当局からも下された。

  • 公正取引委員会

    筆者がいまだに所有しているIntelに対する公取の排除勧告を一面トップで報じる全国紙

3年間におよぶ周到な準備を経て、AMDは2007年に満を持してIntelを相手に「独禁法違反の行為により逸失された利益の回収を求める民事訴訟」の提訴に踏み切った。しかしこの提訴の根幹をなす考え方は、あくまでも「Intelの独占的地位の乱用によって自由競争が阻害され、結果的に消費者の利益が阻害された」という大きな命題であった。

  • 訴状

    AMDが2007年にWebサイトで公開した50ページにわたる訴状のイメージ

2007年にAMDが起こした民事訴訟の50ページにわたる訴状はWebサイトで公開された。しかし、結局この訴訟は公判が開始される前にIntelとAMDが和解をしたので生々しい事実は法廷では明らかにされずに終結をみた。和解の内容は多額な和解金とともに「Intelは今後一切の競争阻害行為を行わないこと」という約束が明記された。

さて米大統領選であるが、選挙はすでに終わってしまい、結果も明らかに出たが先行きには不透明感が漂う。いろいろな報道を見てみるとトランプ陣営は複数の州で多岐分野にわたる訴訟を進めており、その真の目的は選挙結果をはっきりさせないまま自身の影響力を維持する方策として訴訟を利用している印象がある。つまりトランプ陣営にとっては訴訟を起こしそれを長引かせること自体が訴訟戦略であるらしい。その拠り所となっているのが全米を真っ二つに割ったような7000万票を超えたトランプ氏の得票結果で、これは厳然たる民意だ。しかし私が懸念するのは世界最大の覇権国米国の政治不在の問題である。米国内にとどまらず、世界の諸事情はコロナ禍を始めとして待ったなしの喫緊の課題を突き付けている。これらの諸問題の解決の先送りは米国内の問題をはるかに超えた大きな影響がある。