AMDのOBたちが集うWebサイトがあって、そこではかつてのAMDの友人たちがいまだに最近の業界での出来事について"ああだこうだ"と意見を交わしている。
私にとっては格好のニュースソースであるが、最近の情報の中にかつてFPGAの大手であったActel社のCEOを22年務めたジョン・イースト氏のWebinar記事「私が見たシリコンバレー」(Silicon Valley As I saw It)が紹介されていたので覗いてみた。このWebinarは誰でもアクセスできるサイトに掲載されているのでご興味があればクリックしてみて暇をつぶすのもよいだろう。ジョン・イーストの簡単な経歴は次の通りだ。
- 1968-1977:Fairchild Semiconductor (Design Engineer)
- 1979-1988:AMD(Senior VP, Logic Product Group)
- 1988-2010: Actel (CEO)
UCバークレー校でMBAを取得して、シリコンバレーに飛び込んで、最後はCEOを22年も務めるという絵にかいたような典型的なシリコンバレー成功者の経歴である。私はAMD時代にイーストとは何度もあったことがあるが、非常に気さくな人物である。
シリコンバレーの歴史話はいつ聞いても面白いが、イーストのような高い地位にいた人が実際に会ったレジェンドたちとの逸話が非常に面白い。イーストはFPGA(Field Programmable Gate Array)という言葉を最初に使ったのはXilinxでもなく、Alteraでもない自らがCEOを務めたActel社だと言う。Actel社はその後Microsemi社に買収されたが、そのMicrosemi社もMicrochip Technology 社に飲み込まれたのでそのブランドは現在は残っていない。イースト自身は最前線から引退しているものの、今でもシリコンバレーに居ていくつかの会社の顧問などをやっている。
変わり者ショックレーと、ショックレー研究所から飛び出した8人の裏切り者
イーストの半導体での職歴はFaircild社から始まる。Fairchild社の母体は、トランジスタの発明で1956年にノーベル物理学賞を他の2人の科学者とともに受賞したウィリアム・ショックレーが設立したシリコンバレーで初の半導体専業会社ショックレ―研究所までさかのぼる。
イーストの言によるとショックレーは天才的な科学者ではあったけれど、かなりの変わり者であったらしい。会社の経営にはまったくセンスがなく、会社としては形を成さなくなっていた後期には「優生学」に目覚めて、自身を含む他の天才たちの精子を集めた「精子バンク」を設立し、アメリカを天才であふれる国にするという大きな野望を持っていた。そんなショックレ―の奇行に嫌気がさした8人のトップエンジニアが飛び出してFairchild社ができた。
Fairchild社はその後にIntel、AMD、National Semiconductor、LSI Logicなどの名門を輩出するが、Intelを創業した人々の中には半導体業界のレジェンド3人が含まれる。プレーナー技術で世界最初の集積回路を開発したロバート・ノイス、「ムーアの法則」であまりにも有名なゴードン・ムーア、その後Intelを飛躍的に成長させたアンディー・グローブである。イーストはまったく個性の異なるこの3人には格別の尊敬を持っていて多くを語っているが、グローブについては「生涯あった中で最も難しい人物」の1人に挙げている。
イーストが交流したレジェンドたちの逸話
イーストはシリコンバレーにおける長い経験からたくさんのレジェンドたちと交流したが、その中で「最も難しい人物は?」という質問に答えてIntelのグローブとAppleのスティーブ・ジョブズの2人を挙げている。
逸話はたくさんあるが、シリコンバレーきっての強面経営者として知られるグローブは、「偏執的ににタフな人」として私もAMD時代には大変に苦しめられた。
AMDを卒業してActelのCEOとなったイーストが、IntelのCEOグローブに会った時のこんな逸話がある。ファブレスのActelは最先端プロセスを所有する会社との協業を模索して、Intelのグローブを訪ねた。CEO同士の重要な話なのに、グローブはイーストを会社の従業員食堂の隅の席に誘うと、イーストが話を始めるのを遮って「いったいAMDは何を考えているのだ」とAMDとIntelのx86をめぐる訴訟を含む熾烈な競争に大変にいらいらしている感じだったという。
イーストがやっと「ActelのファウンドリーとしてIntelのラインを貸してもらえないか」と要件を切り出すと、グローブは即座に「君には2つの選択肢がある。1つ目はCEOの私が優秀な部下達にこの話を伝えて、鋭意検討させる。結果が出るまでには数か月かかるかもしれない。ちなみに彼らが出す返答は"NO"だ。もう1つの選択はこの場で私が即座に"NO"と言うことだ。さて、どちらがいい?」と答えたと言う。イーストはその後、TSMCなどのファウンドリー会社の快進撃を許してしまった大きな原因の1つはIntelのような先端プロセスを抱える大手半導体会社がファウンドリーモデルの可能性を過小評価したからだと言っている。
もう1人の「難しい人物」はAppleのスティーブ・ジョブズである。イーストはジョブズとは何回か会っているが、一対一で会うとジョブズは相手の目をじっと見てその奥にある資質を瞬時に理解してしまう。いくら優秀なエリートのイーストであっても、ジョブズのような天才に見つめられるとさすがに居心地が悪くなったという。ジョブズは稀有の天才の孤独を感じさせる特別な人物だったと表現している。
「半導体の男だったらファブを持て」、ジェリー・サンダースの名言の裏話
イーストはAMDで10年近くを過ごした。AMDを卒業してActel社のCEOとなったイーストはAMDのジェリー・サンダースに多くを学んだと、最も尊敬する人の1人に挙げている。
そのサンダースの思い出話の中で「半導体の男だったらファブを持て」という名言についての逸話を語っている。この名言が生まれた背景には、当時のシリコンバレーのローカル紙The Mercury Newsの有名記者のバレリー・ライスとCypress社のCEOであったT/J・ロジャーズへのインタビュー記事があるという。
インタビューの中で、Chips&Technologies社などのシリコンバレーの大手を顧客と獲得して頭角を現す台湾のTSMCと、そのファウンドリーモデルについてコメントを求められたT/Jは、「半導体製造は回路設計と製造プロセス両技術の結果だから、ファブは自分で持っていないとダメだろう」というようなことを言った。
元来ファブエンジニアとしての経歴を持つT/Jにとっては当然の反応であった。しかし、女性記者のバレリーは「それって、要するに"半導体の男だったらファブを持て"ということですよね」、と返してその話が翌日の紙上に大きく取り上げられたらしい。その直後、たまたま業界のシンポジウムにゲストスピーカーとして招かれていたAMDのサンダースは自身のプレゼンでこの言葉を引用した、というのもサンダースの後に控えてた発表者がTSMCの代表だったからだ。こんな背景があったとは私は初めて知ったが、サンダース自身に確認していないので真相はわからない。
半導体エンジニアの夢の聖地シリコンバレー
Fairchild社でTTLロジックを設計していたイーストによれば、最初のTTLゲートの消費電力は50ミリワットもあったという。もし微細加工による消費電力の低減がなくトランジスタの増加とともに消費電力がそのまま上昇していたならば、現在のマルチコアCPUを実装するスマートフォンの駆動には原子力発電所の一基分の電力が必要になっていただろうと試算する。
イーストはエンジニアらしく色々な例え話を披露するが、半導体業界がこれまで世に送り出したトランジスタの総数は13に10の21乗を掛けた数であるという。日本語の巨大数の単位で言えば130垓ということになる。まさに想像を超える話である。
大きな野望を持つエンジニアたちの想像力が切磋琢磨の現場で現実となるシリコンバレーには、今でも熱い情熱が渦巻いている。