私は毎日夕方5時くらいになると帰宅する前に一杯飲み屋に立ち寄る。店にあまりこだわりはないが、チェーン店よりも独立系の一軒飲み屋が圧倒的に好きである。一人で行くことが多いのでカウンター越しに厨房が見える席に陣取り、忙しく店員が動き回る様子を見ながらざわざわとした雰囲気の中で飲むのが非常に楽しい。リラックスした環境で次のコラムの発想を得るためにも飲み屋は私にとっては欠かせない場所なのである。飲み屋の話でコラムのネタを考えることには多少後ろめたさを感じるが、最近堅い話が多かったのでちょっとした「箸休め」という事でご容赦願いたい。

厨房での料理はあくまでシリアル処理

店員がオーダーを受けて厨房が料理を出すまでのテンポの良いプロセスを見るのが非常に面白い。よく観察していると気が付くのは注文を受けてから料理が出てくるまでのシーケンスがあくまでもシリアル処理であるという点である。「料理の都合でオーダーは前後することがあります」などとは書いてあっても、ほとんどの場合はFIFO(First In First Out)の要領で、入ってきたオーダー通りに順次さばいてゆく。

現代のクラウド/HPCコンピューティングの最前線ではスタンダードCPUのクラスター接続に加えてGPUや独自開発のAIチップなどを並列計算用に使用する例が多くなったが、基本的に人間の仕事のプロセスは全てシリアルである(少なくとも私はそうである)。飲み屋は人間が運営しているのでプロセス処理としては、たとえ一部がデジタル化によってパラレル処理になっても、人間が介在する部分の基本はシリアル処理に基づくアルゴリズムになっている。

通常、一軒飲み屋のようなこじんまりとした店舗でのオーダーは、ホール係の店員が受け取りそれを厨房に伝えて料理が始まるものだが、客に向かって料理をしながら世間話もする厨房の料理人たちには突然、ホール係の介在なしにカウンター越しの客からオーダーを受けるインタラプトが発生する場合もある。かなり優先度の高いブランチ命令である。こうした複雑なシーケンスを厨房の料理人たちは当たり前のように簡単にさばいてゆく。実に素晴らしいオペレーションで、見ているだけでわくわくする。私がふらりと入るのは大抵5時くらいの開店直後であるので客もまばらであるが、6時近くになると仕事帰りのサラリーマンたちがどかどかと入ってくる。この瞬間は非常にエキサイティングである。料理人も含め飲み屋の全てのスタッフたちの動作クロックは急激にスピードを上げる。それでもあくまでシリアルのプロセスにのっとってどんどん料理が出てゆく。

  • FIFO

    私がオーダーした"煮込み"はFIFOの要領で順番通り料理される (編集部作成)

ある日のとある焼き鳥屋で流れていたテレビのニュースを見ていたら、「ロボット焼き鳥屋」の話が出てきた。店長以外は全てロボットで、ずらりと並んだ接客ロボットと厨房ロボットたちの連携で最高の効率化を目指すという。多分に物珍しさで客が来るのだろうが、最近のホテルなどでも接客用ロボットの採用はどんどん進んでいるようだ。それを一緒に見ていた料理人が「俺もいつかロボットにとって替わられるんだろうなあ」と言ったら、客の1人が、「その時は客もロボットだったりして」などとブラックなジョークを飛ばしていた。

  • 焼き鳥屋

    濛々とした煙に誘われて吸い込まれるように入ってしまう焼き鳥屋

常連客の重要性とマーケティング

早い時間に店に入るとなじみの顔が常にある。はやっている店には必ずと言っていいほど常連客がいる。これらの常連客は店に対して非常にロイヤリティーが高い重要な顧客である。

AmazonやGoogleなどの巨大プラットフォーマーが顧客の囲い込みに多くのリソースを掛けて躍起になっているように、常連客は売り上げの基本部分を支える最重要顧客でビジネスのサステナビリティ―に必須のものである。

Amazonは米国などでは生鮮食品の小売市場にも進出し成功しているらしいが、日本の飲み屋はAmazonが取り込む最後のビジネスとなるのではないか。というのも、これらの常連客が求めているのは新しい方式による利便性のようなものではないからである。彼らはその店の味、値段、接客、雰囲気の安定性を評価して来るので、結局はその店で飲むという"経験"の総体値に対して対価を払っていることになる。

しかしその経験に顧客が少しでも違和感を感じるようなイベントが起こると客の一部は静かに去って行ってしまうことがある。よくテレビの番組などで紹介されて突然"行列のできる店"となった店が、しばらくするとすたれてしまう例が多いのはこうした常連客の微妙な心理を明確に表している。

  • 一杯飲み屋

    低価格な手作り料理で客をもてなす一杯飲み屋は庶民の憩いの場である

在庫リスクの最小化に見る"はやる店"とx86 CPUビジネスの共通点

ある商品が売り切れになることを「ヤマ」という。黒板(または白板)に「今日のおすすめ」などと載っているのがその日一番売りたい商品である。

これは仕入れ品と関係がある。限定数量仕入れた材料を使用して出す料理で真新しさをアピールするのは、いくら常連客が安定感をもとめて来るといっても常に必要な企業努力である。

その他の定番メニューは売れ残ってしまうリスクを考えて工夫されている。同じ材料から複数種類の料理を出すことができる利点をうまく活用している店は成功している。例えば同じ素材の豆腐を使って"冷ややっこ"もできれば"温豆腐"、"揚げ出し豆腐"も作れる。

AMDやIntelが展開するx86 CPUは非常に割のいいビジネスである。というのも基本のマイクロアーキテクチャーは共通でも、コア数、キャッシュサイズ、I/Oの数・帯域、クロックスピード、消費電力などの加減でローエンドからハイエンドのデスクトップ/ノートブックパソコン、ワークステーション/サーバーまで基本的に同じアーキテクチャーでサポートできるからである。

優れた基本アーキテクチャーと最先端プロセス技術がこれらを可能とする決定要件であるが、成功している飲み屋はこれらの要件をうまく満たしていると言える。素材(基本アーキテクチャー)と味付け(プロセス技術)がうまく融合して高い商品価値を実現している。こうした要件を満たした店には客が次々と入り在庫の回転率も高くなり、在庫リスクを最小化しながら新鮮な材料を常に仕入れられる。まさに「正のサイクル」に入った店はいつもにぎわっている。

当たり前な話であるが、いくら呼び込みをやってもまずい店には客は来ない。しかも客は価格に非常に敏感である。ちょっとした不可解な値上げが固定客を失う大きな要因となる時もある。

私は新しい店に行く時に瓶ビールをまず注文する。というのも瓶ビールは市場価格がある程度固定されていて、その店の瓶ビールの値段と一品料理の値段の比較からその店のポリシーを読み取ることがある程度可能であるからだ。客が注文する飲み物・料理は全て利益率が大きく違っていて、これらの組み合わせでその店の利益率は大きく影響する。とんでもなく安い酎ハイなどを出す店は料理も安い材料を使っている場合がある。これらの破格値の酎ハイにはどのようなレベルの焼酎が使用されているかが不明で、こうした店では料理にも同じ傾向がみられる場合が多い。店のポリシーが"低価格"であることは明らかで、量を飲みたい若者にターゲットを絞った店からは私は早々に退散することにしている。

沢山ある選択肢の中から自分好みの飲み屋を選べる環境があることは非常に幸せなことである。