2019年レッドブル・エアレース第1戦、アブダビ大会。室屋義秀選手が2017年最終戦以来1年ぶりの優勝で快進撃の口火を切ったこの大会は、筆者にとっても記念となる大きなイベントだった。エアレース会場で、その飛行を体験することができたのだ。選ばれたレッドブル・エアレースパイロットだけが駆ける空を垣間見た、貴重な経験をご紹介しよう。
まるで精密機械、左右交互の急旋回
「次はシケインへ行くよ。左から右、そして左だ」
シケインとは、レッドブル・エアレースでは一列に並んだパイロンを左右に縫うように飛び抜けるコースのことだ。体験飛行は何もない海の上で行われるので、シケイン通過を模して左右交互にターンする飛行をしてくれた。ほんの1秒あるかどうかの間隔で、機体を瞬時に90度近く傾けては止め、逆方向へ傾けては止め、という操作をヴィーニュ選手はこともなげにする。筆者の足の間の操縦桿は後席の操縦桿とワイヤーで繋がっているため、ヴィーニュ選手が操作したのと同じように動いて膝の内側に当たる。それほど激しい操縦だ。
筆者はPCのフライトシミュレーターでこれを試したことがあるが、まるでうまくいった試しがない。瞬時に機体を傾け、狙った傾きでピタリと止めることができないのだ。しかしエアレースでは「できる」のは当たり前で、「最良のタイミングと操作量」で最速の飛行を競う。針の穴を通すようなエアレースと比べれば、何もない空での「シケインごっこ」など、ヴィーニュ選手にとっては全くのお遊びだろう。
外から見ていると機体を左右に180度回転させるのが激しい動きに思えるが、乗っていると「ただ回るだけ」で大きな力は感じない。実際に大きな力を感じるのは、傾けた状態でぐいっと機首を引き起こす操作の時だ。そのたびに瞬間的に肋骨が押し下げられ、重い荷物を背負ったように背骨が圧縮されるのを感じる。シケインはただ左右に傾けているのではなく、短い急旋回の連続だということがよくわかる。
ちなみに、最初のループ(第2回の最後の部分)から「シケインごっこ」終了までの時間はわずか1分。とはいえ、レッドブル・エアレースのコースは全体で1分弱だから、この体験の何倍もの密度で、精密なフライトをしていることになる。呼吸する間もないのではないか、と思うほどだ。
「次はVTMをやってみよう」
VTM、「バーチカル・ターン・マニューバー」はレッドブル・エアレースで最も華やかなアクロバット飛行だ。宙返りと同じように垂直上昇し、反転して背面飛行になるところまでは宙返りと同じ。そこで機体を横へ傾けて正しい向き(頭が上になる向き)にして急降下する。もっとも、筆者はレッドブル・エアレースのレポート記事ではわかりやすいように、VTMのことも「宙返り」と書いてしまっているのだが、厳密には違うものだ。
これまでの飛行で、筆者は充分に耐えられると判断したのだろう。水平飛行から垂直上昇へ移る瞬間、肋骨と背骨にくるGがぐっと感じられる。ゆっくりと呼吸して耐えるが、強いGは長くは続かない。宙返りなら頂点を過ぎても回り続けるが、VTMは頂点で横転するので、ここで一瞬無重力になるようだ。アーチを描いて飛ぶボールのように、ふわりと浮かびながら景色が横に180度回転し、エメラルドグリーンの海面へ落下していくと機首を引き起こして水平飛行に戻る。見ていても素晴らしいVTMは、乗っているともっと素晴らしい!
「How many rolls do you want to do?」(何回ロールして欲しい?)
ヴィーニュ選手に聞かれた言葉が、記録動画からははっきり聞き取れるのだが、飛行中の筆者にはうまく聞き取れなかった。エンジン音もあり、またここまでの飛行体験で最高にハイになっている筆者は、もともと低いヒアリング能力が幼児以下になっている。
「は、はうめに…?」と聞き返すと、ビーニュ選手は機体を2回、連続で横転させた。もう言葉が通じているのかいないのかわからないような状況だが、筆者は大笑いで「ベリーグッド!」と言い、ヴィーニュ選手も笑う。完全に、大人に「高い高い」をされて大笑いする幼児に戻った心境だ。
これ以上ないほど楽しい体験をしている筆者に、さらにヴィーニュ選手がダメ押しの声を掛ける。
「右側にメディアゲートが見えるかい?」
先程見えた1組のエアゲートがそこにある。
「Full force full speed!」(エンジン全開、全速力だ!)
それまでの体験飛行は基本的に、高度1000フィート以上の高い空域(とはいえ普通の飛行機にとっては充分低いのだが)で行われていたのだが、エアゲート通過だけはそうはいかない。
レッドブル・エアレースを象徴する赤と白のエアゲートは高さが25mもある巨大なもので、下から見上げると威圧感すらあるが、空から見ると芝生に生えたタンポポのように小さい。ヴィーニュ選手は上空からエアゲートに狙いを定め、まっすぐ降下するコースに入れる。加速しながら一度だけわずかに横へ傾け微調整するのに気付いたが、それでもまだエアゲートは、腕を伸ばして「チョキ」をしたときの指ぐらいの大きさでしかない。次の瞬間、エアゲートは先端の赤い部分以外が視界の下へ消え、左右に分かれて後ろへすっ飛んでいく。反転上昇した機体は右へ90度傾き、急旋回でメディアボックスの中央へ戻る。ほんの一瞬の出来事だ。
レッドブル・エアレースではわずか1分の間に10以上のパイロンやゲートを通過する。通過の間隔は平均でも約4秒、シケインでは1秒程度の間隔でパイロンを通過する。それも今回の体験のように「遠くからまっすぐ降下」ではなく、激しい急旋回の先にパイロンが立っているのだ。なんという神業だろう!
レッドブル・エアレースのGフライト・エクスペリエンスでしか体験し得ない瞬間を反すうして感動している筆者に、ヴィーニュ選手はこともなげに聞く。
「もう一度やる?」 「Yes!」
今度ははっきりと会話が成立した。レッドブル・エアレースでしか体験できないエアゲート通過を、2回もできたら大満足だ。
レースエアポートへの帰路、ついに乗り物酔いが
長く感じた体験飛行だったが、あとで動画を確認すると、ここまでわずか4分半だ。そろそろ戻らなければならない。
「最後にもう一度なにかやるかい?」
筆者が所望したのはVTMだ。アブダビの青い空とエメラルドグリーンの海、そして隣に見えるレッドブル・エアレースの会場。筆者はこの景色を、一生忘れることはないだろう。
夢のような時間が終わり、飛行機は空港への道を戻り始める。すると左に、すれ違っていく1機の飛行機が見えた。体験搭乗と入れ違いに始まる、チャレンジャークラス本戦へ向かう機体だ。これがただの観光フライトではなく、レッドブル・エアレースなのだということを思い出させる。
そんな中、かすかに吐き気を感じ始めた。激しい機動をしていたときには平気だったのに、みぞおちに冷たい感覚が上がってくる。こういうときは注意力を景色に向けるのが良策だ。壁も窓枠もない、エクストラ300から眺めるアブダビの景色を堪能している間に、アル・バティーン空港の滑走路が近付いてくる。レッドブル・エアレースの格納庫の手前に、UAE空軍のアクロバットチーム「アル・フルサン」の機体が並んでいるのを見ながら、するりと機体が滑走路に着地した。
「パーフェクトだったよ!素晴らしい景色を楽しめたかい? 君のジョーク(ネクタイのことだろう)も最高だったね」
途中でギブアップせず、全てのアクロバットを体験した筆者にバティスト選手が祝福の言葉をくれた。
「実際には最大何Gを掛けたんだい?」 「5.9Gだよ」
制限の6Gギリギリまで体験させてくれたわけだ。
格納庫エリアへ戻ると、Gフライト・エクスペリエンス特設コーナーはチャレンジャークラス本戦の控室になって、既に飛んだ選手が中継のモニターを見守る様子を生中継のテレビカメラが撮っている。更衣室は奥なのでどうしようかと思っていると、選手が「どうぞどうぞ」と奥へ誘ってくれた。選手が1人ずつ飛行してタイムを競うのがレッドブル・エアレース。全力を尽くした飛行を終えたパイロットたちは、和気あいあいとした雰囲気でライバルの飛行を見守っていた。
フライトスーツを脱いで楽になっても、筆者の「酔い」は収まらなかった。体験飛行時間がちょうど昼過ぎに遅れたこともあり、トイレで吐こうとしても何も出ないのはかえってつらかった。座って休もうとすると、止まっているのにゆらゆらと揺れている感じがしてかえって気持ちが悪かった。
余談だが、以前に室屋選手の操縦で飛行を体験した際は、エアレースではなくエアショーのアクロ課目を中心とした飛行内容で、最大Gは3G程度だった。ことのき筆者は、着陸後に出された焼肉弁当を軽く平らげる程度に元気だった。それと比べると今回の筆者の疲労度はかなり酷い。6Gの旋回とエアレースならではの激しい飛行は、エアショーよりはるかにきついものだったと言えるだろう。
体験飛行の2倍のG!本戦を制したのは室屋選手
一休みしてエアレース会場へ戻ると、これからマスタークラスの競技が始まるところ。いつもの取材なら必死にカメラを構えるのだが、今回はさすがにギブアップして、いちファンとして観戦した。ついさっき体験した神業のような飛行と同じことが目の前で繰り広げられている…いや、同じではない。レッドブル・エアレースのルールでは11G以上の飛行でペナルティとなるため、10.9Gまでは許容される。筆者の体験飛行の2倍近いGで、エアゲートすれすれを飛んで、0.001秒単位の真剣勝負を繰り広げているのだ。
今までとはひとつ違う感慨を抱きながら観戦する筆者の前で、室屋選手は自らも「会心の勝利」と語る素晴らしいフライトで優勝を果たし、メディアエリアでは各国のメディアが日本メディアに「おめでとう!」と声を掛け、握手を求めてくれた。これ以上素晴らしい経験がまたとあるだろうか! 2019年のアブダビ大会は、筆者にとって生涯忘れることのできない、最高のレッドブル・エアレースになったのだった。