軍事の世界に「既存民生品(COTS : Commercial Off-The-Shelf)」という言葉がある。その名の通り、既製品の民生品を活用してしまえということで、特にコンピュータや通信機器の分野で、民生品の活用事例がどんどん増えている。
と思ったら、これはなにも軍事の世界に限った話ではなくて、鉄道業界でも、お金と時間をかけて専用の機器を開発・製造させる代りに、既存の民生品を活用している事例はいろいろあるのだった。
この業界でも民生品の活用はいろいろ
古いところでは、1986年に当時の国鉄が、経営状態が厳しいローカル線の安全対策と合理化を両立させる手段として、特殊自動閉塞装置を導入した際の話がある。
鉄道用の信号機器はさすがに既存民生品というわけに行かないものの、それと併せて駅に設置する運行状況表示装置として、市販のパーソナルコンピュータを使用していた。当時の写真を見ると、使用している機種はPC-9801VM(懐かしい!)である。
画面には、駅の構内配線図と列車の在線表示を行っており、列車ごとに列車番号を表示しているので、どの列車がどこの駅にいるかは一目で分かる。基本的には表示デバイスとしての利用だから、誤操作防止のためにキーボードには透明プラスチックのカバーをかぶせている。そして、操作に使用する一部のキーのところだけ、カバーに穴を空けてキーを押せるようにしていた。
新幹線の総合指令所で行っているように、壁に配線図と列車番号表示装置を組み込んだパネルを設置するのが基本的なやり方ではあるが、路線ごとに配線は異なるから、いちいちカスタマイズしたものを作らなければならない。それでは費用がかかって大変だが、市販のパーソナルコンピュータを活用できれば安上がりである。
今でも特殊自動閉塞を使用している路線はたくさんあるが、まさかこの時代にもなってPC-9801VMということはないだろうから、ハードウェアは置き換わっている可能性が高いと思われる。機会があれば調べてみたいところだ。
ハードは専用品でもOSは既製品
また、ハードウェアは専用品でも、その中身が市販のパーソナルコンピュータと同じで、使用しているソフトウェアのうちオペレーティングシステムも市販品、というのもよくある話だ。
といっても、別に馬鹿にするような類の話ではない。得られる結果が同じで、市販のオペレーティングシステムを使用することに何の不利もないのであれば、開発環境が整っている上にモノがすでに存在する、市販品の汎用オペレーティングシステムを活用することは、十分に筋が通っている。問題があるとすれば、製品寿命が比較的短いことぐらいだろうか。
実際、某社の電車が設置している車内液晶表示装置はWindows 2000ベースだった。普段、情報表示を行っているときの画面を見る限りではこういうことは分からないが、何かトラブルが発生すると、背後で動作しているオペレーティングシステムの画面が見えてしまうことがある。たまたまそういう場面に出くわすと、「正体見たり」といってニヤリとしてしまうわけだ。
かつて、某線某駅の発車案内表示装置に、Windows NTを使用していた事例もある。これも普段は分からないのだが、たまたま終電後にWindows NTのシャットダウン画面を表示していたので発覚、それを見て吹き出してしまった次第である。
また、Windows CE 6.0を使用する「Train Navi」、あるいは組み込み版Windowsを使った運賃表示器については、本連載の第14回で取り上げている。意外なところでは、ホームに設置している飲料自動販売機がWindowsベースという事例まである。
本連載の第4回で取り上げた、既存の移動体通信サービス、あるいは業務用携帯電話といったものも、同様に「既存民生品の活用事例」といえるだろう。既存の製品、あるいはサービスで同じ結果が得られるのであれば、わざわざコストをかけて専用品を設計・開発・生産する必然性は薄い。開発・生産にかかる諸費用だけでなく、その後の維持・サポート・代替更新にかかる費用のことも考える必要がある。この業界に限った話ではないが。
市販の携帯端末を案内に活用
5月に、「JR東日本、全乗務員にiPad miniを配布 - 約7,000台を導入」というニュースが配信された。
乗務員でも駅員でも、利用者から受ける問い合わせの内容は千差万別である。構内の案内、列車の発車案内や乗り換え案内、運行状況、運賃など、実に幅が広いものだし、その中には時々刻々と変化する、最新情報の取得が必要な種類のものもある。
そうなると、紙に書かれた情報を持っているだけでは対応しきれないし、そもそも重くてかさばるので大変だ。その点、タブレットであれば大量の情報を容易に持ち歩けるし、通信機能を活用して最新の情報を取り込むこともできる。それにはもちろん、最新の情報をリアルタイムか、せめてニアリアルタイムで配信できるインフラを構築しなければならないが。
ちなみに、この手の話はJR東日本に限ったわけではなく、東京メトロでも2010年から、駅のサービスマネージャを対象としてiPadを持たせるようにしている。
実際、地下鉄の駅でiPadを使って案内を行っている模様を目撃したこともある。筆者自身がお世話になったことはないが。
スマートフォンだと画面サイズの関係で難しいだろうが、タブレットぐらいの画面サイズがあれば、実際に画面を見せながら案内するのに具合が良さそうだ。それに、拡大/縮小が可能な上に、アニメーションや動画といったデータを利用できるのは、紙では不可能な、タブレットならではの芸当である。しかも、ハード/ソフトは既存民生品だから、ソフトウェアとデータを揃えれば稼働可能であり、安価かつ迅速な導入が可能であろう。
執筆者紹介
井上孝司
IT分野から鉄道・航空といった各種交通機関や軍事分野に進出して著述活動を展開中のテクニカルライター。マイクロソフト株式会社を経て1999年春に独立。「戦うコンピュータ2011」(潮書房光人社)のように情報通信技術を切口にする展開に加えて、さまざまな分野の記事を手掛ける。マイナビニュースに加えて「軍事研究」「丸」「Jwings」「エアワールド」「新幹線EX」などに寄稿しているほか、最新刊「現代ミリタリー・ロジスティクス入門」(潮書房光人社)がある。