日本初の人工衛星打ち上げから50年
日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げからちょうど50年となる2020年2月11日、宇宙航空研究開発機構(JAXA)・宇宙科学研究所(ISAS)は「宇宙科学・探査と『おおすみ』シンポジウム」を開催した。
これまでの50年を振り返るとともに、宇宙科学・探査の現状を踏まえ、今後の50年はどうあるべきかを考えるという内容で、刺激的な話題や発言がたくさん飛び出し、会場は大きな盛り上がりをみせた。
「おおすみ」が誕生した経緯
「おおすみ」は、いまから50年前の1970年2月11日に、鹿児島県にある大隅半島から「L-4Sロケット」5号機で打ち上げられた、日本初の人工衛星である。
日本は1945年、第二次世界大戦の敗戦により、GHQから航空機に関する一切の研究が禁止された。1952年にサンフランシスコ講和条約によって日本が独立したとき、この禁止令は解かれたものの、世界はジェット機の時代に入っていた。
大戦中、「隼」などの戦闘機を生み出した糸川英夫は、戦後に米国の状況を見るなどした経験から、これから日本が航空機技術で世界に追いつくのは難しいと判断。そして1953年、東京大学生産技術研究所において、ロケットの研究を始めることにした。
糸川らはまず、全長23cmほどのとても小さなロケット「ペンシル」を開発。1955年に東京・国分寺で水平に発射する実験を行ったのち、発射場を秋田県の道川海岸に移し、ロケットも「ベビー」や「カッパ(K)」と徐々に大型化していき、1960年には高度約200kmにまで到達するに至った。
さらにその後、より高い高度への飛行を目指し、鹿児島県に「鹿児島宇宙空間観測所(現在の内之浦宇宙空間観測所)」を建設。そして、カッパより高く飛べる「ラムダ(L)」ロケット、さらにに高く飛べる「ミュー(M)」ロケット計画が立ち上がり、1962年の秋ごろには、Mロケットによる科学衛星の打ち上げ計画も持ち上がった。
LロケットやMロケットの開発を進めるなかで、糸川は、Mロケットによる衛星打ち上げの技術やノウハウの獲得を目的に、Lロケットを改造することで人工衛星を打ち上げられないかと考案。当時糸川の下で助教授だった秋葉鐐二郎氏らと検討を開始した。すなわち、Lロケットによる衛星打ち上げというのは、日本初の衛星を打ち上げようと当初から計画されたものではなく、あくまでMロケットによる科学衛星打ち上げのために、試験的に実施することを狙ったものだったという。
苦難続きだったラムダロケットの打ち上げ
そして1964年、Lロケットによる衛星打ち上げ計画が正式にスタート。またこの年、日本のロケットや宇宙科学の研究をさらに推し進めるため、それまでロケットや宇宙研究を担っていた東大の生産技術研究所の一部と、東大航空研究所とが合併し、東京大学宇宙航空研究所が誕生した。
Lロケットは、まず1963年に2段式のL-2が打ち上げられ、続いて3段目を搭載したL-3が開発。1966年にはL-3を改良したL-3Hが開発され、高度2000kmにまで達した。そして、このL-3Hに4段目を搭載し、衛星を打ち上げられるようにした「L-4S」ロケットが開発された。なお厳密には、衛星としての機能をもった部分は4段目のモーターに結合されており、4段目を含めて衛星、もしくは衛星と4段目は同一のもの、といった形態となっている。
L-4Sは、衛星の打ち上げに「重力ターン方式」と呼ばれる、独特な方法を用いている。この当時、日本にはロケットの誘導装置の技術はなかったため、誘導を一切せず、姿勢制御のみで衛星を打ち上げるための方法として考え出されたアイディアだった。
重力ターン方式では、1段目と2段目のロケットは、尾翼による空力安定やスピン安定で飛び、3段目はスピン安定で飛ぶ。そして3段目から分離された4段目と衛星部分は、一旦スピンを止め、姿勢を制御して地表に対して水平にしたうえで、もう一度スピンをかけ、そして1~3段目までの燃焼で形作られた放物線軌道の頂点でロケットに点火。スピードを与え、地球を回る軌道に乗るというものである。
L-4Sは1966年に1号機が打ち上げられたが、失敗。さらに、このあと4号機まで打ち上げがすべて連続して失敗し、誘導装置を積んでいなかったこともあって「風任せロケット」と揶揄された。さらに、そのさなかの1967年には、計画の中心人物であった糸川がその責任をとって東大を退官するなど、さまざまな困難や逆風に苛まれた。
そして1970年2月11日、まさに背水の陣で臨んだ5号機の打ち上げは無事に成功。4段目と衛星は地球を回る軌道に乗り、「おおすみ」という名前が与えられた。この成功により、日本は世界で4番目の人工衛星打ち上げ国となった。
LからMへ、衛星活用の時代が到来
Lロケットによる衛星打ち上げはこの1回のみで終わりとなり、その後はこの打ち上げ技術を使った、Mロケットによる衛星の打ち上げ計画が本格化。1972年には「M-4S」がデビューし、科学衛星の打ち上げが始まった。
そして、このあとロケットも衛星も徐々に大型化、高性能化していき、宇宙科学・探査に本格的に挑むことができるようになった。L-4Sと「おおすみ」は、小惑星探査機「はやぶさ2」や「イプシロン」ロケットを始めとする、こんにちの科学衛星や探査機、そしてロケットの礎となったのである。
ちなみに「おおすみ」は、本格的な衛星として開発されたものではなかったこともあり、打ち上げから14~15時間で、故障により信号が途絶したとされる。このため、当時の関係者のなかには、「おおすみ」を日本初の(本格的な)衛星として見なしていない人もいる。
「おおすみ」は運用を追えたのちも、デブリとして地球を回り続け、そして2003年8月2日5時45分(日本時間)、北アフリカ上空で大気圏に突入し、消滅した。
(次回に続く)
参考文献
・的川 泰宣. 逆転の翼-ペンシルロケット物語. 新日本出版社, 2005年, 189p.
・人工衛星「おおすみ」 | 科学衛星・探査機 | 宇宙科学研究所
・ISAS | 日本の宇宙開発の歴史 宇宙研物語
・JAXA|的川泰宣~ペンシルロケット物語~
・[科博NEWS展示] 日本初の人工衛星『おおすみ』打ち上げ50周年【国立科学博物館】 | 宇宙科学研究所