ほの暗い照明、暖かく保たれた室温、整然と配置された数々の培養装置と顕微鏡、そしてパソコンモニター。画面に浮かび上がる、透明な球体。培養装置の上に表示される37℃の文字。

ここはミオ・ファティリティ・クリニックの胚培養室。鳥取県米子市にある、不妊治療から妊娠、出産までを扱う生殖医療専門のクリニックの一室です。

今回は不妊治療の1つ、「体外受精」が医療現場でどのように行われているのかをご紹介します。

採卵:スピード勝負

私も手術着を身につけ、部屋の隅へ。採卵室では、院長の見尾保幸先生がベッドに横たわった女性から卵子を取り出す施術中。卵巣の中に育つ卵胞という袋に針を刺し、卵子を取り出す「経腟超音波採卵」とよばれる方法です。女性の頭もとには専属の麻酔科医師が寄り添い、麻酔の量をコントロールしながら時計を見つめ、ベッドの横には看護師が卵子を採るための道具を準備し、先生に手渡すタイミングをはかる。見尾先生が見つめるモニターには超音波画像。映しだされた画像にぽっかり黒くぬけた丸い部分。これが「卵胞」。大きさにして約20 mm。黒く見えるのは液体(卵胞液)が溜まっている証拠。この液体の中に0.1mmの卵子が浮いているのです。先生が注射のシリンジをひくと超音波画像にあった黒い部分がすっとしぼみみます。針先から卵胞液がシリンジの中へ吸い込まれた瞬間です。

図1 卵巣と卵胞の超音波画像の例。黒い部分が卵胞。液体の中に卵子が浮かんでいます。(提供:ミオ・ファティリティ・クリニック)

卵胞液を吸うやいなや、先生は手早くシリンジ本体を針からはずし、ふりむきます。真後ろに設置された、無菌状態のインキュベーター(恒温槽)にむかい、その中にあるシャーレへとシリンジの中の液体を静かに注ぎこむ。すぐにシャーレの上にとりつけられた顕微鏡を女性の胚培養士がのぞきこむ。彼女が懸命に探すのは「卵丘細胞」。卵子を包む細胞の塊です。よくよく観察すると、黒い小さな点が見えます。これが、人の卵子。「いました!」そう言ってスポイトで薄赤い液体を吸い上げ、隣にある培養液の入ったシャーレに移す。その声を聞いて、別の胚培養士がカルテに取り出した卵子の数を書き込む。シャーレはインキュベーターから出され、培養装置へと急ぎ足で移される。先生が針を刺してから卵子の数が記録されるまで、およそ20秒。正確さとスピードが求められます。

図2 IVFインキュベーターの写真。体内から取り出された卵子は、この中で培養液へ移されます。(提供:ミオ・ファティリティ・クリニック)

シャーレに卵胞液を移した先生は、すぐさまもとの位置に戻り、37度に温められた新しいシリンジを受け取り、卵胞に刺されたままの針に装着し、再び採卵へ。

卵子の培養:「おなかの中」を徹底再現

「卵子を維持するために、温度はとても大事です。採りだした卵子の温度が体温より下がるとダメージが大きい。グズグズしてはいられません。」

体内からインキュベーターへ、インキュベーターから培養装置へ、移動するあいだの時間が長ければ、卵子は冷えてしまいます。卵子が入ったシャーレや試験管は、医師、看護師、胚培養士のみごとな連携で、次々と手早く作業を経ていきます。移動を最小限に。温度を変化させないように。目をみはるチームプレーです。

「pHも大事です。卵子に適切なpHは7.4くらい。pHを一定に保つ緩衝液を含む培養液の中で卵子は育ちます」

「部屋が暗いのは、お母さんの体内も暗いから」。LEDでは明るすぎるため白熱電球を使い、さらに熱が伝わらないよう、明るすぎないよう、すりガラスをとおして適度な照明を確保します。

「蛍光灯は紫外線が出ます。卵子に変異を入れてしまう可能性もあります。絶対に使えません」

温度、湿度、pH、送りこむ空気の組成の調整、明るさ、スタッフの香水や化粧などの禁止…。徹底した環境づくりとその気配りに感動します。取り出した卵子をお母さんの体内の環境と同じ状態に保つことが何よりも大切なのです。

採卵を始めてから終わるまでおよそ7分。採取できた卵子は10個ほど。37℃の培養装置の中で育ちます。

図3 培養装置の外観。この中で卵子や受精卵は育ちます。(提供:ミオ・ファティリティ・クリニック)

体外受精:世界初、人の受精の瞬間を撮影

午前中に体内からとりだした卵子は、その日の午後には胚培養士の手によって精子と出会います。受精卵はそのまま培養装置内で育ちます。その培養装置の横には何やら大型の顕微鏡が。顕微鏡の周りはアクリルカバーで覆われており、さらに布がかけられ、光をさえぎっています。これは「Time-lapse cinematography」という手作りのシステム。培養装置と撮影環境の両方を備えており、受精卵がどういう過程で育っていくか、その様子を受精卵にダメージを与えることなく、つぶさに観察できる機器です。

図4 Time-lapse cinematography。ミオ・ファティリティ・クリニックが独自に開発した、世界に2つとない手作り。地元のガラス屋さんやガス屋さんなどの職人の技が結集した逸品です。(提供:ミオ・ファティリティ・クリニック)

そして、このシステムを使って撮影された映像がこちら。

動画
人の受精の瞬間を捉えた世界初の動画です! (提供:ミオ・ファティリティ・クリニック)(wmv形式 17.4MB 56秒)

卵子と精子を出会いの場に1時間半おいた後、卵子の周囲の細胞を優しく取り除いて、Time-lapse cinematographyシステムの中で培養、観察した映像です。中央の大きな球体が卵子です。その真下から少し右よりの部分から小さな精子が卵子に徐々に侵入し、貫通して卵子の表面に到着。やがて、精子は沈み込むように卵子の中に侵入し、受精が起こります。受精とともに、それまで静まりかえっていた卵子の中が、いっせいにもやもやと動き出すのが、わかるかと思います。誕生のスイッチが入った瞬間です。次いで、卵子は自分の染色体の半分を卵子の外に出します(第2極体の放出:動画では卵子の向こう側に小さな球体が放出されます)。精子は男性の体内ですでに染色体が半分になった状態になっており、しばらくすると、卵子と精子それぞれの染色体をもつ2個の核が現れ、徐々に拡大しながら中央へ移動し、融合。そして、1回目の細胞分裂が起こり、細胞は2個になります。観察40時間内で2回の細胞分裂が見られました。

受精卵を体内へ

採卵の翌日、午前中に受精卵の様子を観察します。受精卵の様子をしっかり写真におさめ、患者さんに経過を伝えます。患者さんにとってはこれらの各プロセスが想像しにくいので、実際に自分の卵子や受精卵が変化していく写真を見ながら治療を受けられるのは、安心感や納得感につながるだろうと感じました。

図5 受精卵の写真。(提供:ミオ・ファティリティ・クリニック)

採卵から2日後に、選んだ受精卵を女性の子宮内へ戻します。こちらは針を刺すのではなく、超音波の画像を見ながら腟から細く柔らかいチューブを子宮内に挿入し、そのチューブの中をさらに細いチューブを通して受精卵を送り込みます。痛みを伴わないので麻酔も不要。数分で終える技術だそうですが、妊娠に直接関係するので、集中力と繊細さが必要で、先生の疲労感も非常に大きいそうです。

生殖医療を支えていたのは、連携と心

一連の施術を取材し、強く感じたこと。それはそれぞれの専門性をもった人々が、「卵子を最高の状態に維持する」という共通の目的のもと、自律的に懸命に動いていること。そして、その連携のすばらしさ。生命がうまれるためにふさわしい環境の充実、専門スタッフの卓越した技術と知識はもちろんですが、その基盤となっている信じられないくらいあたたかいホスピタリティに心が揺さぶられました。

取材のなかで、その神秘的で厳粛な状況での緊張からか、すべてを理解し吸収しようという気負いからか、貧血を起こして、倒れてしまった私。皆さん、まったく当たり前のように私の身体を支え、控えのベッドまで肩を貸し、足をあげたほうが良いなどと話しながらあっという間に環境を整えて下さいました。過剰に心配するのでなく、必要なサポートをささっとしてしまう。クリニックを訪れる方々は、きっと「かわいそう」などと同情されることこそ、つらいのではと想像します。「治療」というより、「ともに努力」してきたクリニックの皆さんだからこその行動と思いました。生殖医療はこのような方々に支えられているのだ、このような方々だからこそできる医療なのだと、泣きたいような気持ちになりました。

トークイベント「妊娠を科学する!」開催

3回にわたってお伝えしてきた「妊娠を科学する!」。すべての始まりは見尾保幸先生との出会いでした。その見尾先生をお迎えして、9月22日(日)に日本科学未来館でイベントを行います(サイエンティストトーク「妊娠を科学する!―生命を生み出すしくみとその限界―」)。今、妊活を頑張っている方も、いつかは子どもを産むかもと思っている方も、そして仕事と出産や育児を両立できるか不安で一歩踏み出せずにいる方も、ぜひご参加下さい。カップル、男性一人のご参加も大歓迎。あなたの体の中でおきている、生命を生み出す神秘を見つめてみませんか。

次回は「遺伝カウンセリング」についてお伝えします。2013年4月から限定した条件のもとで行われるようになった新型出生前診断。受けるべきか否か、悩むカップルをカウンセリングするのも遺伝カウンセラーの仕事です。どんな言葉や情報が、カップルの判断を助けているのでしょうか。

著者プロフィール

松山桃世
日本科学未来館 科学コミュニケーター
線虫を愛して研究生活10年。その後、モンスター(わが子)を相手に四苦八苦。出産を機に科学館で展示やイベントを企画する仕事に就く。東日本大震災を経て、なんとなく敬遠されがちな科学を、日常生活で「ツカエル」考え方におとしこみたいと考えるように。謎解きのワクワク、あふれるリスクから身を守る術、うさんくさい宣伝へのツッコミ、ちょっぴりおトクに生きるコツ、すべてに科学が関わっている! あとは解読・行動する力が欲しい。