米上院での「新聞救済法」審議から、メディア王、ルパート・マードック氏の「ニュース課金論」まで――。この数カ月間、当連載コラムでは、米国で起きた新旧メディアの利害対立論争の経過を見てきた。
これらの議論は、「今後のニュース報道はいかにあるべきか」を考える上で、とても重要な問題を提起している。
「Yahoo! JAPAN上ではコソボは独立していない」
紙にせよ、電子版にせよ、新聞を支持する人達は、「編集記者によるバランスの取れた記事の取捨選択」「記事の一覧性」「解説記事」「持ち運びが容易」といった優位性を主張してきた。「世界で何が起きているか」をインターネット検索に頼る傾向は、「デイリー・ミー現象」に陥ると批判してきた。
デイリー・ミーとは、シカゴ大学のキャス・サンスティーン教授(哲学)の造語で、「日刊自分のため新聞」を意味する。同教授は、「ネット上で自分に関心のある情報ばかりを集めるデイリー・ミー現象は、社会の分極化を招き、民主主義発展の阻害要因になりうる」と警告している(『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社)。
よく挙げられるケースが、「Yahoo! JAPAN上ではコソボは独立していない」という話だ。2008年2月、コソボ自治州議会は、セルビアからの独立宣言を採択した。10年余り続いたバルカン半島南部・コソボ地方の帰属をめぐり、同地方のアルバニア系住民とセルビア人との間で繰り広げられた血なまぐさい民族紛争は、この独立宣言によって一つの区切りがつけられた。
ヤフーのニュース・デスクは、このニュースをトップページの「トピックス」8本の一つとして掲載した。このページには、一日に約2,000万人が訪れ、一日の総ページ・ビューは1億4千万回にも達する。ところが、この記事は、ほとんどクリックされなかった。つまり、Yahoo! JAPANの閲覧者はほとんど記事を読んでない。だから、「Yahoo! JAPAN上ではコソボは独立していない」というのだ。
だがそもそも、新聞の「国際面」は、読まれてきたのだろうか? 少なくとも私が毎日新聞社で勤務していた時代、目にしたあらゆる統計で、読まれるトップ項目は「テレビ番組表」、次いで「社会面」「地域面」「家庭面」と定番が続き、「国際面」は常に最下位で、5~7%台だった(調査には回答者の"見栄"が反映するから、実際はもっと低いだろう)。100人のうち5人が国際面を開いて、そのうち何人が「コソボ独立」の記事に目をとめ、読むのだろうか。私は、読者のニュース閲覧傾向に関する、新聞とインターネットの比較は無意味だと思う。
ニュースが大切なら「ニュースが私を見つける」
新聞のメリットとされてきた「一覧性」に関しては、「自分とは直接関係なくとも、"おやっ"とか、"そうだったのか"と納得するニュースとの出会いがある」と言われてきた。新聞が"発見メディア"と呼ばれるゆえんだ。しかし、前述の「読まれる」項目に関する調査の結果は、それほど多くの"発見"があり得ないことを示している。結局、読者は自分の関心領域か、せいぜい、その周辺にしか目がいかないものなのである。
むしろ、インターネット・ユーザーの多くは、新聞社という"権威"から、偉そうに「これが今日のニュースだ」「これを読め」と言わんばかりに押し付けられることが、不愉快なのではないだろうか。
2008年の米大統領選期間中、次のようなことが何度も起きた。新聞、テレビが取り上げなかったバラク・オバマ候補(現大統領)の言動を一般市民が携帯で撮影して、YouTubeにアップする。それを見た人は、その映像のURLを、米国版mixiともいえる「Facebook」で友人にメールする。その結果、映像にはアクセスが殺到し、あまりの盛況ぶりに、テレビが後追い取材を迫られることになる、というものだ。
この現象を報じた2008年3月のニューヨーク・タイムズ(以下NYT)は、こう書いている。
「明らかに若い有権者は、ニュースを読んだり、イベントに参加するだけでなく、それらを人に伝える"伝送体"になりたいと考えている。彼らは同時に、プロが選んだニュースという伝統的なフィルターよりも、常につながっている友人から推薦されたメール、ビデオを優先する。しかし、これは考えてみれば、政治における最古の手段である、"口コミ"の現代版なのだ」
この記事に登場するマーケット・リサーチャーのジェイン・ベッククマン氏は、以下のような話を紹介している。
「若い有権者たちは、日常的に友人や仲間とTwitter(ささやき)し合い、情報を共有しているからから、こんな風に考えている。『もしそのニュースがそんなに大切なら、ニュースの方が私を見つけるはずだわ』」(NYT同)
すでに終焉を迎えた「一覧性」という神話
「検索しなくてもニュースの方が自分を見つけに来る」。こういう世界を、この学生やGoogleは「当然ではないか」と考えているようだ。
米Googleの製品管理上級副社長、ジョナサン・ローゼンバーグ氏は2009年2月、(当然だが)"電子版"の新聞にこんな注文を付けた。
「新聞はもっと進化できるはずだ。例えば、サイト上で私が景気対策の記事を過去6時間以内に何回チェックしたか分かるのだから、次にアクセスした時は、(読んでいない)最新のニュースから順に表示してほしい」(2009年2月16日『googleblog.blogspot.com』)
「もしトム・フリードマン(NYTの人気コラムニスト)が新しいコラムをアップしたら(メールが到着を知らせるように=筆者注)、フロント・ページにサインを出してほしい。優秀な編集者がいるのだから、私の閲読傾向に合わせた、カスタマイズ化されたもっと面白いページを提供できるはずだ」(同)
こうした情報環境を使いこなすには、相当のメディア・リテラシー(情報活用能力)が必要だ。ローゼンバーグ氏の考え方を一般化するのは、やや難しい気もするが、もはや「プロ(と言うより送り手)の選択力」と「(記事の)配列」「一覧性」を売り物に出来る時代が終わったことを感じさせられる。
執筆者プロフィール
河内 孝(かわち たかし)
1944(昭和19)年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。毎日新聞社政治部、ワシントン支局、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て2006年に退社。現在、(株)Office Kawachi代表、国際福祉事業団、全国老人福祉施設協議会理事。著述活動の傍ら、慶應義塾大学メディアコミュニケーション研究所、東京福祉大学で講師を務める。著書に「新聞社 破綻したビジネスモデル(新潮新書)」、「YouTube民主主義(マイコミ新書)」がある。