京都大学(京大)と鹿島建設は7月5日、月や火星において、衣食住を可能にし、社会システムを構築するために向けた共同研究に着手することに合意したことを記者会見で発表した。
会見では、『月・火星での生活基盤となる人工重力居住施設「ルナグラス・マーズグラス」』、『惑星間を移動する人工重力交通システム「ヘキサトラック」』、『宇宙に縮小生態系を移転するためのコンセプト「コアバイオーム」』という大きな3つの構想が掲げられた。今回の連載では、これら興味深い3つの構想をそれぞれ1つずつ掘り下げて紹介していく。1回目は、『月・火星での生活基盤となる人工重力居住施設「ルナグラス・マーズグラス」』を取り上げる。
宇宙旅行時代が幕開け
長らく宇宙へ行くことは一般人では困難だったが、状況が変わりつつある。まだ一部の富裕層に限られた話ではあるが、宇宙観光ビジネスが立ち上がってきており、一般人でも宇宙へ行きやすくなってきた。確実に、宇宙はビジネスの場や観光・レジャーの場へと向かっている。
また、日本も参加するアルテミス計画では、2020年代後半に月面に恒久的な有人活動拠点が建築され、将来的には月面都市へと発展させていく構想がある。また、月を前進基地として2030年代には有人火星探査が実施される計画だ。さらに、火星への入植を計画している民間企業や組織などもあり、まだ長い時間がかかるのは間違いないが、月や火星が人類の暮らす新天地となることが夢物語ではなくなりつつある。
地球外での長期生活における課題
しかし、月や火星は地球と比べて人類が居住するには向いていない過酷な環境だ。月や火星に人類が定住するには、居住施設を建築し、空気や水、食料、エネルギーなどを確保する必要がある。それは困難を極めるのは確かだが、資金さえ確保できれば現在の技術でも不可能な話ではない。
ただし、現在の人類の技術では唯一手がつけられないものもある。それが低重力環境だ。月はわずかに地球の1/6しかなく、火星でもおよそ1/3だ。そうした低重力環境で長期間にわたって生活した場合、人体にさまざまな影響が生じる可能性が危惧されている。
さらには、成長期の子どもに対する影響も懸念されている。低重力が成長期の子どもに及ぼす影響などはまだまったく研究が行われていないため、影響があるのかないのかすらわかっていないが、低重力環境で子どもが成長した場合、地球に降り立てない身体になってしまう可能性もあり得るという。さらには、そもそも低重力では精子と卵が受精しても生命の発生が叶わない可能性も考えられるとする。
人類が地球外の天体に定住するためには、そこで子を産んで育て、世代交代をしていく必要がある。もしそれが叶わないのであれば、短期滞在が関の山で、人類の新天地となることは難しいだろう。しかし、1G環境を再現できるとしたらどうだろうか。月や火星で暮らす人々の生活拠点となる都市において、1G環境が再現されるのであれば、低重力が人体に与える影響を回避することができるはずだ。それを扱ったのが、3つの構想のうちの『月・火星での生活基盤となる人工重力居住施設「ルナグラス・マーズグラス」』というわけである。
月や火星でどうやって1Gを再現するのか?
低重力天体上で1Gを再現するのは、重力制御技術を持たない現在の人類では、簡単な話ではない。かえって微小重力環境の宇宙空間の方が、擬似的に1G環境を再現するのは容易だ。SF作品のスペースコロニーや宇宙ステーションなどでお馴染みだが、円筒形やトーラス形の建造物であれば、回転させることで遠心力を発生させられるので、内壁に擬似的に1G環境を再現することができるからである。しかし、月面や火星面上では弱いとはいえ重力があるため、円筒形やトーラス形を持ち込んで回転させても、1G環境を再現するのは困難である。
それではどうすれば、低重力天体上で1Gを再現できるのか。その難問について、長らく研究を続けてきたのが、鹿島建設 関西支店 建築設計部の大野琢也副部長(鹿島建設 技術研究所/京大大学院 総合生存学館 SIC 有人宇宙学研究センター 特任准教授兼任)だ。
大野副部長は、子どもの頃からテラフォーミングなど、人類が宇宙に進出することに興味を持ってきたという。テラフォーミングは、地球以外の惑星の大気圧や大気組成、磁場(磁気圏)、水資源、生態系などの調節を行い、その惑星の環境を人類が宇宙服なしでも地球上と変わらないように安全に生活できるよう改造することをいう。しかし、その惑星改造において、唯一めどが立たないのが重力制御だ。そのため、この再現不可能な環境要素の重力に対し、強い興味を持つようになったという。
大野副部長は、中高生の頃には、月面や火星面で暮らすと重力が小さいため、そこに適応してしまった人は地球に帰れない身体になってしまう可能性があることを知り、月面や火星での定住が進むと人類の分断が起きてしまうことを懸念したとする。そこで、低重力問題の解決方法を探るうちに、大学生のときにモータースポーツのF1から着想を得たという。コーナリングにおける重力と遠心力の合成にヒントを得て、天体の低重力と遠心力を合成して1Gを再現することを建築に応用するというアイディアを思いついたのである。
低重力+遠心力で1Gを再現
それを実現できる建築物が、ルナグラスとマーズグラスだ。この2つの建築物は、断面で見ると二次曲線を描く構造をした多層階建築物である。外見は、グラスという名から想像がつくように、ルナグラスはシャンパングラスのようだし、マーズグラスはカクテルグラスのような外見をしている。サイズ的には、ルナグラスは高さ約400m、最大直径は約100m。一方のマーズグラスの方は、支柱を除いた二次曲線部分(マーズ・カーブという)の構造だけで185.5m、半径は100m強となっている。
ルナグラスとマーズグラスの特徴は、月面や火星面に対して垂直な中心軸で回転させることで遠心力を発生させ、低重力と合算させることで1Gを再現するという点だ。ルナグラスは20秒で1回転することで1Gとなる(マーズグラスについては未確認)。重力や遠心力は、物理学において力の大きさに加えて力の方向という要素も持った「ベクトル」である。つまり、真下への低重力に見合った真横への遠心力を合算すれば、真下から真横までの間のいずれかの斜め方向に擬似的な1Gが生じるということである。
月では重力が1/6G、遠心力が5/6Gとなるので、合算して1Gとすると、ベクトルの方向はかなり真横方向に近くなる。つまり、ルナグラス内の1Gエリアでの生活では、月面を横に見る形になる。一方、火星では重力が1/3G、遠心力が2/3Gなので、斜め下方向に火星面を見て暮らすことになる。
天体の重力ごとに最適の二次曲線があり、ルナ・カーブまたはマーズ・カーブと呼ばれる。月と火星では重力が大きく異なるので、ルナ・カーブはあまり上端が広がってないシャンパングラス形、マーズ・カーブは上端の広がったカクテルグラス形と、形状が大きく異なるのだという。
ルナグラスやマーズグラスでのライフスタイル
なお、ルナグラスやマーズグラスの内壁はどこでも1Gかというと、そうではない。遠心力は回転軸からの距離で変わってしまうため、半径が狭くなる下部などは内壁でも1G以下となるし、半径がより広くなる上端部分の縁などは1G以上となる。真下を含む中心軸上では月や火星の低重力のみだ。
そのため、ルナグラスやマーズグラスでは、日々の生活は1Gエリアで行って低重力の影響を受けないようにし、休日にレジャーなどで短時間だけ低重力環境を楽しむ、というライフスタイルが考えられている。これなら、身体への影響がほぼなく、いつでも地球に帰還できるし、子どもも地球と変わらず成長できるものと考えられている。
ルナグラスやマーズグラスの内部の構成は、単に居住施設の集合体というわけではなく、海洋や森林なども再現され、パラ(部分的な)・テラフォーミングドームという位置づけになる。部分的ながら、ここまでの規模の宇宙建築構想は、世界的にも例がないという。
建築資材としてはカーボンナノチューブなどの利用が検討されているようだが、こうした軽いが製造には高い技術力を必要とするものは地球から輸送するという想定だ。製造にそれほど高い技術力を必要とせず、なおかつ重量のあるものは現地調達でまかなわれることになる。さらに施工においては3Dプリンタの活用や、遠隔成功技術を用いた現地無人施工が想定されている。
宇宙放射線や飛来物への対処法
また、月には大気がほぼなく、火星も大気圧は地球の1000分の6と非常に薄い。そのため、宇宙放射線や小型隕石などに対する遮へいを考慮し、溶岩洞窟内などを利用して地下に建築するというアイディアも検討されている。
特にルナグラスに関しては、JAXAの月周回探査機「かぐや」が2009年に発見した月面の縦孔内の地下に予想される溶岩洞窟内に有人活動拠点を建築するというUZUME計画があるが、同計画にアダプトする形で、想定される溶岩洞窟のサイズに合わせてルナグラスを建築することも検討したという。地下であれば、宇宙放射線と微小隕石に対する遮へい効果が格段に増し、なおかつルナグラスなら低重力問題も解決できることから、現在考え得る中では安全性と健康面が最も配慮された月面居住施設構想といえるだろう。
そのほか、ルナグラスやマーズグラスは単体で建築されるのではなく、居住区と工業区とに分けて複数がまとめて建築されることも考えられている。工業用は中央に建築され、その周囲を居住区用のルナグラスやマーズグラスが囲む。工業用は居住区用よりも高温・高圧のテラフォーミング状態にするという。そして工業区で太陽熱の収集、地下資源の採掘を行い、ガスや熱エネルギーを居住区へ供給するとしている。
京大と鹿島建設の共同研究が目指すもの
ちなみに今回の京大と鹿島建設の共同研究では、ルナグラスやマーズグラスの建築を実現させるための手法の確立と、ルナグラスやマーズグラスでの生態系の再現を進めていくという。より詳細には、宇宙森林、宇宙海洋、宇宙居住、宇宙惑星、宇宙生命、宇宙医療、宇宙法社会の7分野の研究を学際的に統合していくことで、ルナグラスやマーズグラスの建築に活かしていくことになる。
なお、これまで月や火星における恒久的な居住施設の研究においては、溶岩洞窟を利用して地下に建設することで、宇宙放射線と微小隕石への対策が考えられてきた。しかし、月や火星などの低重力問題まで検討されてきたかというと、あまり聞いたことがない。宇宙空間であれば円筒形やトーラス形を回転させることで疑似重力を生み出せるが、天体の上ではそれが難しいため、低重力問題は扱うのが避けられてきた感すらある。
しかし低重力は、人類が宇宙に進出する上で解決しなければならない非常に重要な問題だ。低重力環境で子どもが健康に成長できないとなったら、誰も子をなすことはないはずだ。次世代を育てられないとなったら、月や火星に人類が根付くことはないだろう。しかも、本人も低重力に完全適応してしまったら地球に二度と戻れない可能性があるとなれば、地球から月や火星への移住は完全な片道切符となってしまう。それだと島流しや流刑地といったネガティブなイメージが強くなってしまうことも懸念される。
今回の人工重力居住施設は、そうした問題を現実的に解決できるコンセプトだ。しかも、ルナグラスやマーズグラス内の人々や建物、木々が、月面や火星面に立っている人から見た場合に斜めに立っているというのは、何とも宇宙的である。
もちろん、ルナグラスやマーズグラスは建造物を回転させるため、何らかのトラブルで回転が止まってしまった場合、大きな被害が発生する危険性もあるだろう。メンテナンスの問題から回転を一時的に止める必要が生じる場合もあるかもしれない。そうなったときに、居住者が大けがをしたり人命を失ったりするようなことがあってはならないし、都市の施設から個人の所有物まで、それらが破損したり紛失したりすることのないよう、さまざまな対策が必要だろう。
これから考えていくべきことはいくつもあると思われるが、それでもどのような低重力天体でも1G環境を再現できる今回の人工重力居住施設コンセプトは、非常に期待させられるアイディアといえないだろうか。「なるほど」と思わせるものがあり、今からどのぐらい先の話になるのかはわからないが、現実に建設されそうな説得力がある。いつしか、月や火星にルナグラスやマーズグラスが建設され、そこに人々が生活する日が来ることを期待したい。