その時、AMDのCEO Jerry Sandersは腹心の部下で営業担当シニアVPのSteve Zlencikと一緒にAMDからそう遠くないMilpitasにあるNexGen社のCPUラボにいた(推測するに1995年の早い時期、あるいは1994年の後半のことであったと思う)。社内にも極秘の訪問であった。
NexGen社はCEOのAtiq Razaが率いるファブレス(自社工場を持たず、設計専門の半導体デザイン会社)の会社である。総勢100人にも満たないエンジニア集団であったが、各企業から優秀なエンジニアを集め、Intel 互換のCPUの開発に的を絞っていた。驚異的成長を遂げていたパソコン市場に打って出るべく、AMDをはじめ、Cyrix、IDTなどIntel互換のパソコン用CPUメーカーが複数ひしめいていたことは前述した。NexGenもその中の1社であった。
Intel互換CPUメーカーの中で、NexGenのデザインは非常に先進的で、技術的には先端を行っていたが、市場ではいささか分が悪かった。というのも、AMD、CyrixなどのIntel互換メーカーはあくまでもIntel製品にピン互換(Intel CPUをマザーボードから引き抜いて、替わりに差し込んでも問題なく動作する:ソケット7互換)であったのに対し、NexGenの当時の製品Nx586はピン互換どころか、チップセットもマザーボードも独自という方向性で、パソコンメーカーの支持を獲得するのに非常に苦労していた。
そのNexGenのラボでSandersとZelencikが見ていたものはNexGenの次期製品Nx686の試作品であった。Nx686はIntelの初代Pentiumの次期製品、Pentium IIに対抗することを意識した製品であった。
前述したように、Pentium対抗品、AMDのK5の開発は依然とし遅延を重ねていた、市場がPentiumに急速に移行してゆく中、悪戦苦闘していたAMDのCEO、SandersにはK5に代わる起死回生のプランがどうしても必要だった。Sandersの心はNexGenの買収に傾いていた。
SandersはAtiq Razaの隣によりそう開発担当VPのVinod Dhamn(その年の初めにIntelからNexGenに移籍していた)に聞いた。"確かにNx686は優れたデザインだ、だがIntel品とピン互換でなければ市場では受け入れられないだろう。このCPUをPentiumとピン互換(ソケット7)に作り替えるのにどれくらい時間がかかるだろうか?"。AtiqとVinodは顔を見合わせたが、即座に答えた、"1年あれば…"。Sandersの腹は決まった。
当時のNexGenはファブレスの小さな会社であったが、チップデザインと並行して、バグ(不具合)を割り出し、修正を同時に行うなど、デザイン手法にはいろいろ先進的な方法を取り入れており、AMDは第六世代のCPUの基本アーキテクチャを手に入れるだけでなく、その後のK7などの設計にも利する新たなデザイン手法も手に入れられるという利点もあった。
CEO、Jerry Sandersの起死回生のプラン
話を1995年のハワイでのAMD Sales Conferenceに戻そう。このシリーズの冒頭述べたように、1995年夏のSales Conferenceで世界中から集結した600人のAMD営業、マーケティング、技術サポートの精鋭たちを前にして、SandersはK5の優位性を力説していた、しかし、同時にJerryの頭の中で実際に考えていたのはK6だったのだ。AMDのNexGen買収の手続きは最終段階に入っていたが、何しろ買収額が大きいので大株主たちの承認が必要だった。10月には発表できる予定だったが、8月のSales Conferenceで言うことはできなかった。
今から考えるとJerryが本当に言いたかったことは、"誇り高きAMDの精鋭たちよ、K5は失敗だった。それはCEOの私の責任である。ただ、私はすでに手を打った。起死回生のプランがすでに進行している。AMDを、そして私を信じて突き進んでくれ!!"ということだったと推測される。
我々各国の営業の連中はハワイのSales Conferenceから帰ったあとは、K5の進展の発表もなく、それに関しての何のアップデートもなかったことにがっかりした。中には、"そろそろ仕事替えを考える時期か"と思った者もいたと思う。そこに、10月、NexGen買収の発表が突然舞い込んできた。大きな発表であるが、PRの担当であった私も含め、社内のだれにも事前通告はなかった。発表文には、単純に"AMDはMilpitasにあるファブレスのCPUデザイン会社NexGenを買収。買収総額は約800億円"、と記されているだけである。
早速、電話が鳴りだしプレスから質問されたが、こちらとしては事前のQ&Aもなく、何の対応もできない。そこで、私は日本AMDの技術部門のトップにこの発表の意味はどういうことなのかと聞いてみた。すると、彼は"これはJerryの頭がおかしくなったという意味だね。これでAMDも終わりだよ。そろそろ俺もヘッドハンターにコンタクトしようかと思っている"、ということだった。というのも理解できる。なにしろ当時総売り上げが2000億円以下だったAMDが、何の実績も上げていないNexGenという会社を800億円も払って買収するという話だ。
しかも、IntelのPentiumに互換性(ソケット7)がないNx586をプロモーションしていたNexGenの技術に関する我々の情報は限られていた。これからNx586をK5の代わりに売ることになるのか?というのが我々の反応であった。全く訳が分からなかった。
前述したNx686=K6という起死回生プランについての全容はほどなくして入ってきたが、それでもPentium互換のK6の完成は早くてもこれから1年。世界中のAMDの営業、マーケティングにとっては我慢の1年が始まった。しかし、すでに白けた雰囲気は消えていた。K6が1年後に来る。それまで何とかAMDを継続させるのだという決意であった。
1997年のマイクロプロセッサフォーラム、Intel、IBMなど各社のCPU設計責任者たちが集う恒例の最終日パネル討論で、K6の優位性を訴えるAtiq Raza (右端) (出典:「THE SPIRIT OF ADVANCED MICRO DEVICES」) |
(次回は8月17日に番外編を掲載する予定です)
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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