新入社員が先輩の給料を追い抜くインフレの悲劇

今や、100円あればマクドナルドでハンバーガーを食べることができ、牛丼は280円で楽しめます。100円ショップに立ち寄れば生活用品のほぼすべてが揃い、88円の発泡酒でほろ酔いになれ、ディスカウントストアの「ドンキホーテ」はジーパンを650円、近所のスーパーマーケットでは国産ニワトリの胸肉を100g当たり19円で販売します。また、缶コーヒーの自動販売機での最安値は60円まで下がっており、120円の「定価」で買うことを躊躇するほど「デフレ」になじんでしまいました。

私が社会人になった時代はいわゆる「バブルの時代」でした。「人手不足倒産」という言葉がマスコミを賑わせ、人件費がうなぎ登りに上昇した翌年、新入社員の初任給が社会人2年目であるわれわれの給料を抜くことが判明し、役員が慌てて給料を調整したことを思い出します。

もっとも今とは正反対の「インフレ」の時代で、給料が上がったとはいえ、物価と株価と土地の価格がそれを上回る速度で上昇したので、生活は決して楽ではありませんでした。むしろ、デフレの今のほうが豊かな暮らしをしているかもしれません。しかし、デフレは「ボディブローのように経済を疲弊させるだけではなく人心の荒廃を招く」というのが、バブル崩壊から20年目の結論です。

不況下でも最高益のカギは「地域最安値」だから!?

I社長のWeb制作会社は不況下でも過去最高益を更新していました。不況になればなるほどホームページの需要が増えるのは、仕事が減って暇になった経営者が「一発逆転」を期待して発注するからです。そして「餅は餅屋」と制作業者に丸投げします。

彼らが業者を選ぶ決め手は「価格」です。デザインやインタラクティブの技術的な違いはわからなくても「数字」ならわかります。I社長のWEB制作料金は「地域最安値」をうたい、近隣の同業者より安くすることで、価格を基準にする客が集まって過去最高益に達したのです。

I社長の価格施策はシンプルです。他社が価格を下げればさらに下げます。価格を下げることこそ、デフレの時代の営業努力だと広言して憚りません。

値段を下げれば売れる――これは誤謬です。正しくは「売れやすくなる」にすぎません。商品価値が同レベルなら安いほうにインセンティブが働き、購入に対する心理的ハードルも低くなります。しかし、安くしても売れないモノはありますし、売れたとしても利益が圧縮されて首を絞めることもあります……が、この続きは後ほど。

デフレが引き起こす"労働哀史"

Web制作会社の多くは自社で社員やアルバイトを制作スタッフとして抱えていますが、アウトソーシングと称して外部の企業や個人を活用するスタイルもあり、I社長はこれを採用しています。アウトソーシングする先は個人事業主や事業規模の小さな同業者で、どちらも営業力が弱く「買い叩ける」のが魅力です。技術力が高くても受注できなければカネにはならず、悪い条件の仕事でも受注するところがあるのです。

相場の半額は当たり前です。納期は短く、「前回より今回、今回より次回」とタイトになっていきます。納品後の修正はアフターサービスと押し切ります。I社長の「デフレ」の源泉はここです。客からもらえる金額が少なくなれば、下請けに支払う金額を減らすという仕組みです。また、本来なら安い料金で仕事を受けてくれていることへの感謝があってもバチは当たらないのですが、無理を通すうちに道理は霧散し、下請けを奴隷のような感覚で使っていました。

優越的地位の濫用という指摘にも「契約を強制しているわけではない」と開き直られれば、返す言葉がないのは、商取引とは互いの合意の上に成立するという前提があるからで、安くて厳しい仕事でも下請けが納得していれば取引は成立するのです。俗に「下請けイジメ」とされる、こうした不平等な取引は「デフレ」が続くなか常態化しており、この優越的地位の濫用を厳格に取り締まれば、日本経済が破綻するほど多くの企業が摘発されることでしょう。商取引から人情が消えるのもデフレの特徴かもしれません。

そして、叩き出した最高益は「デフレ0.2」です。価格破壊が自分の首を絞めたのです。

外国に頼る日本のデフレは永遠ではない

地域最安値で集客し、厳しい条件を下請けに飲ませて利益を出していたI社長。ホームページの制作原価は突きつめれば「人件費」に辿り着き、自ずと限界が訪れます。いわゆる技術職の人間が、コンビニエンスストアの高校生のアルバイトと同じ時給では馬鹿馬鹿しくてやっていられません。下請けは奴隷ではなく、他の取引先を探したり、別のWEB制作会社に「再就職」したりすることもできます。

そして、I社長の元から1社、2社と下請けの会社が離れていきました。下請けを補充しようにも、限界価格まで下げて受注しており、どこも引き受け手がありません。納期を引き延ばしながらやり繰りしていたところに、客が追い打ちをかけます。

「最安値」という自分が得することが大好きな客は、反対に自分が損する話を異常に嫌います。デフレを満喫する消費者に「安かろう悪かろう」は通じません。下請けの離反で下がったクオリティに客がクレームをつけだしたのです。彼らは「安くて良いもの」しか認めません。つまり、I社長が狙った「デフレ層」の離反です。クオリティの高い業者に発注しようにも、デフレ価格で受注した案件を業界相場で発注すれば赤字になってしまいます。適正な利益を確保していなかったことが致命傷となりました。

日本のデフレは、「人件費の安い国で生産し、国内で廉価販売する」という構図の上に成り立っています。物価が安くなるデフレを消費者は歓迎しがちですが、永遠に人件費が安い国などありません。かつての日本が経済成長するにつれて人件費が上がったように、現在、安価で生産を行ってもらっている国の人件費が上昇した時、私たちはどこの国から「豊かな生活」を輸入するのでしょうか? そして、デフレに慣れたわれわれは損得ばかりで評価して、生産者や販売者に人生があることを忘れているような気がしてなりません。

エンタープライズ1.0への箴言


「デフレの限界は人件費」

宮脇 睦(みやわき あつし)

プログラマーを振り出しにさまざまな社会経験を積んだ後、有限会社アズモードを設立。営業の現場を知る強みを生かし、Webとリアルビジネスの融合を目指した「営業戦略付きホームページ」を提供している。コラムニストとして精力的に活動し、「Web担当者Forum(インプレスビジネスメディア)」、「通販支援ブログ(スクロール360)」でも連載しているほか、漫画原作も手がける。著書に『Web2.0が殺すもの』『楽天市場がなくなる日』(ともに洋泉社)がある。

筆者ブログ「マスコミでは言えないこと<イザ!支社>」、ツイッターのアカウントは

@miyawakiatsushi