便利は善か悪か

あるシンポジウムで、ネット界の著名人がこう発言しました。

「便利になる流れは止められない」

ネットサービスの進化を肯定的に捉えてのことです。確かに、人間の欲求に素直になれば便利に抗うことはできません。20世紀の私ならその通りだと激しく頷いたことでしょう。便利になることの何が悪いのだと添えて。

しかし21世紀のいま、便利を追求してきた文明社会は限界が叫ばれ、北極の氷は溶け海水面が上昇し、ヒートアイランドに苦しんでいます。

念のための補足ですが、北極の氷が溶けることと海水面の上昇は直接連動しません。グラスに浮かべた氷が溶けても水位が変わらないアルキメデスの法則です。

便利になることが必ずしも「善」ではない時代になったと私は考えています。些末な例を挙げれば、「携帯電話」の普及により、私たちは電話番号を覚えなくなりました。友人や、もしかしたら恋人の電話番号も覚えていないかも知れません。そして水没、破損、紛失により携帯電話が使用不用となると、連絡が途絶えるようになりました。便利とは、それほど人を幸せにしないのかも知れません。

ロール紙の発見で自由自在に

A社長はディスカウントストアとリサイクルショップの融合した店舗を営んでいます。現金問屋から新品を仕入れて販売するのと同時に、店頭での買い取りもしています。A社長の自慢は「ないものはない」という在庫の豊富さと、「圧倒的な安さ」を併せた「地域一番店」という称号です。しかし、この自慢が利益を圧迫しています。

品揃えの豊富さが日常的に他店の領空を侵犯し、それが必然的に価格競争へと向かいます。つまり、商品ラインナップを増やせば増やすほど他業種の「地域一番店」と競合し、安売りへと向かい粗利率は低下します。すると「儲からない」ので、ラインナップを増やすという図式がジレンマだと気がついていません。

商売上の根本的な問題よりもA社長を悩ませていたのが店内POPです。手書きや既製品のPOPでは「地域一番店」に見合った迫力(=大きさ)にならず、大判プリンタを導入するとしてもノウハウを持ったスタッフがいませんし、なにより店舗脇に小さく区切られた事務所は狭く、大型の機械を置くスペースがあれば商品を並べたほうが儲かるという考えです。

手持ちのインクジェットプリンタではA3判までしか印刷できず、これを店頭で貼り合わせて凌いでいましたが、壁面にピタリと揃えるのは技術が必要で、閉店後の大仕事になっていました。

価格変更は気合いと根性で

ある日、A社長は「ロール紙」を発見しました。これはインクジェットプリンタで「垂れ幕」などを印刷するためのもので、10mや20mの長さのものがあります。以来、インクジェットプリンタが不眠不休で印刷を始めました。ひといきに印刷できる便利さに魅了されたのです。

しかし、幅は用紙の短辺(短い方)しかなく、A3なら297mmで、実際に印刷する長さは2mや3mです。この「帯」のような紙をずれなく貼り合わせるには技術を要します。社員の残業時間は印刷できる用紙に比例して長くなりました。

続いて、最新のPOSシステムを導入しました。リサイクルとして買い取った商品をリアルタイムに在庫として計上される機能がついたものです。リサイクルでは、売れ筋商品でも在庫が増えれば価格を下げなければなりません。トレンドの変化は激しく、売れ残るより利幅を落としても現金化する方が安全です。逆に品薄になれば値上げをします。「値付け」が商売のキモです。

今までの価格表示はハンドラベラーを使用していました。価格変更は旧価格に×印をつけ、手書きで書き換えます。度重なる価格変更で訳が分からなくなることもしばしば。最新のPOSには「価格シール」の印刷機能がついていました。商品名も割引率なども印字できる価格シールが、この不便から解消してくれると期待されました。

愛しさと愚かさと便利さと

価格変更によりプリントアウトし貼り替えた様子を、視察したA社長が不満を漏らしました。

「迫力がない」

そして、「価格シール」に油性マジックで×印をつけて「新価格」を書くように命令が下されます。

便利な新機能を無視した人力の再投入でさらに残業が延長され、人件費は高止まり、利益を圧縮します。

A社長は便利と聞くとすぐに手を出します。しかし、道具の特性や本質を理解しないまま現場に強制する「便利0.2」です。例を挙げればキリがありません。しわ寄せはいつも現場です。便利とは、実は曖昧な言葉で、基準しだいで評価が変わるものなのです。

例えば、「ネットで検索」は万能ではなく、街角の蕎麦屋の電話番号なら町内会の名簿の方が即座に検索できます。ホームページを持っていない個人商店は多く、タウンページに個人名で載せていれば「iタウンページ」でも検索できません。便利とは何に対して、何を持ってなのかを明確にイメージしないと、かえって手間が増えるのです。

冒頭のシンポジウムで、私は最後にこう発言しました。

「人って愚かです」

0.2の世界を知っていると、合理性で括られる「便利論」に違和感をおぼえます。便利な道具を不便に使う人が多いことから。ただし、その非合理なところが人間の愛しさでもあるのですが。

エンタープライズ1.0への箴言


「本当の便利とは運用まで考えて実現する」