事業所に年一回の実施が義務付けられている健康診断では、受診票を持って健診会場を一巡して測定データや検査実施チェックを書き込んでもらい、すべての項目が終わったら受診票を提出して終了となるのが一般的だ。
こうした紙ベースの健康診断スタイルを改め、iPadからデータ入力する新しい取り組みを始めているのは、岡山県を中心に健康診断や人間ドックなどの予防医学を提供している淳風会 健康管理センターである。iPadに入力された検査・測定データは、ネットワークを経由してプライベートクラウド上のストレージにリアルタイムで保存される仕組みだ。
巡回健康診断の業務改善は限界に達していた
同センターでは健診車で事業所を訪問する巡回健康診断の割合が健康診断全体の70%以上と高い割合になっている。
「巡回健康診断は、受診者様が医療施設まで出かける時間的なロスを削減できるメリットを事業者様に提供できます。基本的な検診項目は法律で決まっていますが、例えば血液検査に法定外の項目を追加したり、骨密度を測定するなど、事業所様に合った個別検査を提案しています」と語るのは、センター長 の妹尾悦雄医師である。
健康診断の法定項目は生活習慣病に関する検査が大半で、疾病の早期発見はもちろん、生活習慣を改善するきっかけを与えることも健康診断の重要な目的となっている。そこで事業所のニーズに応えて多様な検査を実施しているが、近年は検査に要する時間短縮や検査結果の早期報告も求められるようになったという。
「健康診断の実施から診断結果の送付までのリードタイム短縮のために、20年以上も前から受診票にOCR用紙を取り入れてきました。当時は先進的な取り組みとして成果はあったのですが、OCR方式は手書きで健診結果を入力するため、帰社後にOCRをスキャナーに読み込ませる際にエラーが発生していました。また、検査漏れが発生して後日再検査をお願いする事もありました」と、IT戦略部長 毛利元三氏は以前の課題を指摘する。
業務改善活動がそろそろ限界に達していたOCR方式に見切りをつけて、新たなデバイスとしてiPadを導入した新しい健診システムへの移行を行った。
入力ミスや検査漏れがなくなり、後処理の時間短縮を達成
iPadを導入した新しい健康診断の流れだが、受診票を持って健診会場を回るスタイル自体に変更はない。検査や測定の前に看護師やスタッフ、検査技師は受診票のバーコードをバーコードリーダーで読み取り、iPadに受診者のフォームを表示させ、測定数値などを入力する。採血や検尿などは検体容器のバーコードを読み取って、受診者のフォームにひもづける。
看護師として巡回健康診断を担当する集団健診部 看護師 新谷友希氏は、iPadを使用するメリットを次のように語る。
「OCR用紙に手書きしていたときは、どうしても数値の入力漏れが生じたり、OCR読み取り時にエラーが出て不便な面がありました。また健診会場と健診車との距離が離れているところでは進捗状況を確認しにくく、所定時間内に検査を終了させるのは大変でした。また、検査漏れをチェックするにも、各担当者が前の検査を受けているか目視確認するしかなく、ヒューマンエラーをゼロにはできず、後日再度受診となってご迷惑をおかけすることにもなりかねません」(新谷氏)
iPadの導入によって、OCRによる読み込み作業が不要になったことは、健診後の作業時間短縮に大きな効果を上げている。従来は帰社後にOCR紙をスキャニングする前に、読み取りエラーを防ぐため文字を清書したり、エラーが出た場合は手入力で修正していた。従来は30分~1時間要していたOCR関係の作業は不要となり、すぐに次の業務に進めるようになった。
検査漏れを防ぐアラート機能もある。決められた順序に沿って検査を実施していくが、もし前の検査を受けていないと、「○○検査が実施されていません、それでも次の検査をしますか」というアラート画面がiPadに表示される。
「前の検査の結果を入力しないと次に進めない仕様になっています。iPadを導入してから検査漏れを現場でチェックできるようになり、後日再検査をお願いすることはなくなりました。問診でも項目漏れや年齢入力漏れなどを具体的に指摘してくれます。後で問診内容のつじつまが合っているか確認する作業が必要なくなりました」(新谷氏)
データ入力用のiPadは各検査担当者に1台ずつ配付されており、受診者の健診経過を一覧表示でリアルタイムに確認できるため、自分の担当する検査はあと何人残っているかを把握して、検査用具の準備をしたり、検査終了時にすぐ片づけを行うなど、スムーズな運営にも役立っている。
受診者の個人情報保護においても、以前は回収した受診票を鍵の掛かるバッグなどに保管していたが、新しいシステムでは入力データはiPad側に残らないセキュアな仕様となっており、iPad自体にもパスコードロックが掛かっているので、受診者の数値が直接外部の目に触れることはない。受診票に記入されているのは名前と生年月日、受診者を管理するためのバーコードだけで、具体的な健診の数値や病歴などは書かれていないので、受診票の管理も楽になっている。
iPadを使った健康診断システムの概要は以下の動画の通りだ。
iPadを使った健康診断システム「スマートワン」はオンライン志向
このiPadを使った巡回健康診断システムは「スマートワン」と名づけられている。そこに込められたコンセプトを毛利氏は次のように語る。
「事業所様に検診結果をお返しするリードタイムを従来から1日短縮、スタッフの作業効率を向上させて残業時間を1割削減、トラブルやインシデントの発生件数を1割以上低減、システムのレスポンス時間は1秒以内など、各分野で改善目標を定めています。iPadとクラウドというスマートな仕組みを使って、各自の"ワン"を達成することにより、地域でオンリー"ワン"のサービスを提供できる健診機関になりたい」(毛利氏)
スマートワンの開発に当たって、ハンディターミナルやPDA、ICカードなどを使った市販パッケージシステムも検討したが、そうしたシステムを採用すると、現状の業務フローを大きく変えなくてはならず現場の混乱が予想された。また、事前準備が煩雑だったり、デバイスに保存された検査データを帰社後にパソコンへ転送する手間が発生するなど、思ったほどリードタイム短縮につながらない。さらにPDAやハンディターミナルといったデバイスはそれ自体が高額で保守料金も発生するため、コストパフォーマンスが悪く導入効果が見えにくかった。
「デバイスの選定で苦慮していたとき、iPadを提供していたソフトバンクがプラチナバンドに対応すると知り、通信サービスがこれまで以上にアップすることで、さまざまな場所で実施する巡回型の健康診断でもオンラインでデータ処理できるようになり、現場の作業フローを変えずにシステム化できると感じました。早速、ソフトバンクのエリアマップと巡回健診の実施会場を照らし合わせた結果、エリアのカバー率が高いことが判明したので、iPadのセルラーモデルでの開発に着手しました」(毛利氏)
スマートワンの入力画面やワークフローは、基本的にOCR受診票と同じ構成となっているため、現場スタッフは従来のワークフローを変えず、スムーズに新システムに移行できた。若いスタッフはスマートフォンに慣れているため、タッチ式の入力にもすぐに対応できたという。プライベートで利用するデバイスの操作性をそのまま仕事でも使えるようになる。スマートデバイス普及率の急上昇もiPadの選択理由になった。PDAやハンディターミナルを採用していたら、テンキーやファンクションキーを使うなどデバイス依存の特殊な操作を覚える必要が生まれ、新しいスタッフへの研修コストなどが発生していただろう。
「専用アプリにすると機能追加のたびにインストール作業が発生します。こうした管理コストを削減するために、通信エリアや品質、速度は担保されているという前提で、Webシステムとしました。セキュリティ対策として、暗号化通信に対応した専用ブラウザを導入して、プライベートクラウドにリアルタイムでデータを書き込んでいます」(毛利氏)
取材時点はスマートワンを全面稼動させた直後だったが、数カ月前から試験的な導入を進めており、当初の目標は順調に達成できる見込みが立っているという。その後、第2ステップとして計画されているのは、検査担当者の入力ミスを減らすために、検査機器(レントゲンや心電図など)とiPadを直接接続して、自動でデータを連携させる機能だ。技術的には可能なので、今後はインタフェースの開発やエラー時の対応など運用面を詰めて、早急に導入したいという。
さらに第3ステップとして、2~3年後をめどに受診者自身が事前にパソコンやスマートデバイスから問診項目に回答できるシステムの公開を目指している。
「巡回健康診断の現場で最も時間のかかるのは、採血と問診です。特に問診はたくさんの質問項目があり、その場で入力していると大変なのです。健康診断時間の短縮に加えて、事前に問診項目に入力してもらえると、受診者の健康状況を把握できることで、問診担当者が事前に質問すべき内容を用意しておけます。従来は時間の制約もあって画一的な質問になりがちですが、事前に気になる部分を把握して質問を用意しておければ、『生活環境の変化に対して適切な健康管理のアドバイスをしておこう』など、より手厚いサービスにつなげられます」(毛利氏)
こうしたあくなき業務改善は、IT戦略部だけの活動ではない。スマートワンの試験導入時から現場スタッフの積極的な改善要望や提案がフィードバックされ、システム部門と現場との共同作業によって改善活動が進められている。受診者の立場に即したiPadシステムの開発・運用の好例として、多くの医療現場で参考にしてもらいたい事例である。