東京・千代田区にある日本訪問歯科協会では、全国220カ所の加盟歯科医院に対してiPadを配付し、訪問歯科診療の奨励と効率化を実践するコンサルティングを行っている。その背景と意義について、同協会の前田実男氏は次のように語る。

日本訪問歯科協会 広報 理事 前田実男氏

「介護保険法が施行された2000年の直前より、高齢者に対するさまざまなケアサービスが今後必要になるだろうとの認識が世の中に広がり始めました。また以前、個人的に複数の歯科医師の方に話を聞く機会があり、『ある地域の歯科医院では患者の数が極端に少ない、その逆に治療を受けたくても近くに歯科医院がない』という地域があることを知りました」(前田氏)

医師と患者のミスマッチが起こっていることを知った前田氏は、さらに深刻な状況に気づく。

「要介護(要支援)認定者数が全国で500万人を突破し、独居老人や老老介護などが現実のものとなっています。こうした方々は通院が困難であり、例えば歯科医院の多い東京などの都心部においても、歯科治療を受けたくても受けられないという方々はとても多いのです」(前田氏)

特殊な「接客」が必要な訪問診療

このような深刻な状況を見て、前田氏は日本訪問歯科協会の設立に参画し、歯科医療従事者と訪問診療を必要とする患者との橋渡し役になることを決心する。

医師に対して、訪問歯科診療ならではの要素、例えば認知症など意思疎通の困難な患者やその家族に対する接し方、介護保険など医院診療だけでは縁のなかった医療事務のノウハウなどを提供し、より多くの患者へ治療機会を与えることが協会の目的と前田氏は述べる。

そこにおいて、「iPadが医療事務を簡便にして医師の負担を減らし、診療行為全体の効率化に貢献できると考えて、iPadを利用することにしました」と前田氏。ではその貢献とはどのようなものだろうか。

東京・練馬区で「洋(よう)歯科クリニック」を開業している草川洋氏は、医院での治療とともに、訪問歯科診療を実施している。そのきっかけを聞いた。

「洋(よう) 歯科クリニック」(東京・練馬区)

医療法人社団 和春会 洋歯科クリニック 理事長・院長・歯科医師 草川洋氏

「当院の立地は半径500m圏内に150件ほどの歯科医院が乱立する競争の激しい地域です。こうした超激戦区のなかで病院拡大のステップアップのため、2012年2月に日本訪問歯科協会への入会とともに訪問歯科診療を開始しました。土地や建物など固定費のかかる分院化よりもリスクがより低い点や、一定の範囲内で自由度の高い診療体制が敷ける点などを評価しました」(草川氏)

「入会の1カ月後、協会でiPadが正式採用され各医院に1台が無償貸与されました。訪問診療で必要となる各種報告書の作成支援という主たる目的で配られたのですが、まずは荷物が減って助かったというのが実感でした。訪問では医師1人と助手1人の計2人で行動し、『ユニット』と呼ばれる診療に必要となる大きな治療器具を持って行きます。それ以外の手荷物が減ることは大きなメリットでした」と草川氏。従来は薬剤の添付文書やカタログ、患者宅や施設の位置を記した地図など、多くの紙資料を持参していたが、それがiPadに格納されたことで、フットワークが劇的に軽くなったという。

協会から配付されたiPadには、訪問診療にまつわる医療事務、特に報告書などを作成する専用アプリケーションがインストールされている。

「今までは訪問診療が終了して医院へ帰ってきてから、紙の各種報告書を作成していました。例えば介護保険の請求時にケアマネージャーへ実績報告を行うものなどですが、これの作成とFAX送信に1件あたり10~15分ほどかかっていました。日本訪問歯科協会から提供されているiPadにはこれを作成するシステムが組み込まれているため、診療後移動中の車の中で入力し、すぐにクラウド上にアップロードすることで報告が完了します。こうした時間をさらなる患者さんへのケアの時間に充てることができるようになり、サービスの向上にもつながっています」(草川氏)

「このシステムを利用することで、現場とその移動中でほとんどの事務作業が完了するため、特にアシスタントの方々の残業がなくなります。パソコンより起動が速く、長時間駆動で振動にも強いというiPadの長所を生かしていつでもどこでもすぐに使える、まさに『時間とお金を損しないための方法』です」と前田氏も自信を見せる。

具体的なiPadの利用法は、以下動画のようなものだ。


写真で患者とのコミュニケーションを醸成

訪問による治療をうまく進めていくにあたって重要なのが、患者と治療スタッフとの人間関係の構築だと草川氏は言う。そこにもiPadが一役買っている。

「訪問したときに、患者さんの写真をできるだけ撮るようにしています。例えば、1つの治療が終わったタイミングで記念写真を撮り、許可をいただければ医院のブログでもご紹介しています。患者さんの満足度が写真の笑顔に表れるのではと思っています。患者さんが飼っているペットの可愛い姿を写真に撮ったりして、コミュニケーションを図るようにしています」(草川氏)

そのほかの実用面でも活用が進んでいる。外来と往診のスケジュールはすべて一元管理されており、変更などがあったときにも、iPadを使って外出先でも参照できる。また訪問診療では、どれだけ効率的に巡回ルートを作成して実践できるかが重要となる。

「ある地域を集中的に診るか、遠方の一点から帰途にある患者さん宅を追いながら戻ってくるといった方法をとります。『マップ』を利用することで、こうしたルート作成が容易にできるので大変重宝しています。こうしてより多くの患者さんの診療時間をつくれることが、信頼度の向上にもつながりますので」と草川氏。

草川氏は、医院で診療する傍ら、開院時間前と昼の休診時間で4人ほどを訪問診療することもあるという。

「荷物を少なく、効率的に巡回できるので、iPadがあればこそできる診療形式です。無料のアプリだけを活用してこれだけのことができ、作業効率化に貢献できているという点がすごいと思います」(草川氏)

今後はさらに利用台数を増やす予定だと草川氏はいう。

「現状の2名1組での巡回のほかに、歯科衛生士のみによる単独訪問も視野に入れています。こちらは電車での移動になるので、乗り換え案内などのアプリも活用していきます」(草川氏)

「日本はすでに欧米を超えた超高齢化社会に突入しています。その意味では、われわれがやっている診療が全世界のモデルケースとして参照される『訪問医療先進国』になれる可能性もあるのです。そのためには、iPadのように先進的な機器を使ってベストプラクティスを実践していく必要があります。文字通りのホスピタリティを提供すること、これが今後の医療には特に重要な考え方だと思います」(草川氏)