実現へのタイムリミットが迫るILC

あと2ヶ月で「人類の未来」が決まってしまう、と聞いたらみなさんはどう思われるだろうか。

「そんなバカな話は信じられない」とシラけてしまう人も多いだろうが、実はこれ、あながち「バカな話」とも言い切れないのだ。

あと2ヶ月で、21世紀以降の科学の在り方を決めるかもしれない「国際リニアコライダー」が実現するかどうかが決定するからである。

本連載では過去3回に渡って、日本に全長20キロにも及ぶ次世代加速器の建設が予定されている「国際リニアコライダー(ILC)」を紹介してきた。

世界中からのべ20万人もの科学者が集うこの世界的プロジェクトは、我々に数えきれない「恩恵」を与えてくれる。例えば、MRIなどの先端医療、WWWに代表される情報技術も素粒子研究がベースとなっており、ILCができればこれらが格段に進歩する可能性がある。また、日本に「世界トップクラスの科学都市」が誕生するので、復興支援や経済効果といった実益的な面はもちろん、そこに集う科学者たちの研究に取り組む姿や、科学の不思議さ、面白さを通じて、日本の未来を担う子供たちに、これまでと比べ物にならないスケールの大きな「夢」を見せることができるのだ。

  • ILCと都市

    ILCと、そこに集う研究者やエンジニアたちが住む学術都市のイメージ (C)Rey. Hori

なぜ年末までに決める必要があるのか

だが、このILC計画、実は今年の年末までに日本政府が「推進」を正式に表明しなければ暗礁に乗り上げてしまう。つまりは、上記のような未来に向けた可能性がすべて消えてしまう恐れがあるのだ。

総額で数千億も必要とするそんな大事な話を、なんで急いで決めなくてはいけないのだと思う人も多いだろう。その辺りの事情を、ILCの推進活動をおこなってきた山下了・東京大学素粒子物理国際研究センター特任教授に説明していただこう。

「実はILCは2004年から、世界中の研究者たちの間で議論や検討が長く続けられ、2013年に欧州、米国、アジアの研究者コミュニティで、『日本にリーダーシップをとって欲しい』と支持・支援がまとまった経緯があります。では、それから5年経過して日本は何をしてきたかというと、残念ながら『やりたいと思っています』といった言葉さえも一言も発していない。『これ以上もう待てない』というのが、世界の研究者たちの本音なのです」。

  • 山下了 東大特任教授

    山下了・東京大学素粒子物理国際研究センター特任教授

そんなこと言われても、日本には日本の事情があるんだから、もう1〜2年待ってくれてもいいじゃないかと思うかもしれないが、そうできない研究者ならではの事情もある。

「今回ダメでも"次"があるじゃないかと言う方も、研究者も中にはいますが、残念ながら"次"はありません。科学の研究、特に基礎科学の取り組みというのは、成果が出てくるまでに何十年もかかります。その限られた研究者人生の中で、みな日本にILCができるのを期待している。待っていて結局ダメでしたでは済まされないので、どこかで見切りをつけなくてはいけません。また、欧州では2020年より、素粒子物理学の次期戦略を開始しますが、そこにILCへの取り組みを盛り込んでもらうためには、5年経過した今年の年末がタイムリミットとなるのです。ここで『やはり日本にリーダーシップを取るのは無理だったな』と思われてしまったら、将来にわたる日本の科学分野での立場がどうなるか、という面もありますが、それ以上に、集まりつつあった研究者たちが雲散霧消し、もはや現在のような、欧州、北米、アジアといった世界の国々が参加するという国際協力の枠組みでILCを進めるのは不可能になるのです」(山下氏)。

なぜ日本でなければいけないのか

ならば、どこか他の国がやってくれて、日本はそれをサポートするという手もあるのでは。そのような代替案を思い浮かべる方もいるかもしれないが、現実にはそれも難しい。

「ILCを実現できる技術を持っているのは日本だけなのです。中国はすごくやる気で、資金もありますが、技術が追いついていない。欧州はすでにCERNと加速器(LHC)がありますし、アメリカも諸々の事情から撤退している状況となっています。つまり、日本が見送るということは、人類がILCによる研究を見送るということになるのです」(山下氏)。

  • 9セルの超伝導加速空洞

    日本の高エネルギー加速器研究機構(KEK)が民間企業と共同で開発したILC実現の要素技術の1つとなる9セル空洞をベースとした超伝導加速空洞(キャビティ)。この中でビームの加速が行なわれる。ILCでは、1つのユニットあたり26キャビティが用いられる見込み (C)KEK

先ほど紹介したように、ILCがもたらす「恩恵」は計り知れないが、何よりも大きいのは「全人類」を大きく進歩させ得るということだ。それが年末までの日本政府の決断によっては暗礁に乗り上げる可能性も出てくる。

冒頭で述べたことが、決して大げさな表現ではないことがわかっていただけただろうか。

「世の中には色々な価値観があって、中には科学や技術は大嫌いだという人もいます。保育園や生活保護にもっと回すべきだという人もいるでしょう。ただ、これは間違いなく全人類の"得"になる施設です。問われているのは、日本が"未来"に対して投資できる国なのかということだと思います」(山下氏)。

  • ILCのイメージ

    ILCのイメージ (C)Rey. Hori

「やはり日本はダメだったか」と世界中の科学者たちから失望されるか、それとも20万人が集結する「世界トップクラスの科学都市」が日本で生まれ、科学技術立国を堅持できるのか。2001年に開かれた第151回国会における小泉内閣総理大臣(当時)の所信表明演説にて、小泉氏は、聖域なき構造改革を進めるべく、明治維新の夜明けの時代に起こった戊辰戦争の終結直後、幕府側として戦い破れた長岡藩に三根山藩から米百俵が送られたが、長岡藩はそれを換金し、学校の資金に充てたという話を取り上げ、『今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」』と評したことがあった(余談となるが、長岡藩が米百俵を人作りに活用するに至った経緯はいろいろと研究が進められている)。日本が、さまざまな産業の礎となっている科学の分野で、将来にわたってその力を維持していけるのか、ILCに対する判断は1つの分水嶺になる可能性があるだろう。日本全体の「未来」を見据えた国民的議論に期待したい。

参考文献

首相官邸:第百五十一回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説

監修者プロフィール

山下了(やました さとる)

・東京大学素粒子物理国際研究センター特任教授
・高エネルギー加速器研究機構 客員教授
・先端加速器科学技術推進協議会 大型プロジェクト推進部会 部会長
・東北ILC準備室 フェロー
・ILC戦略会議 議長

1965年、千葉県生まれ。1995年 京都大学大学院卒業、理学博士。専門は素粒子物理実験と加速器科学で、1995年から6年間にわたり欧州原子核研究機構(CERN)に滞在、その間1998年から2001年には、ヒッグス粒子探索グループの統括責任者を務める。国際リニアコライダー計画にはCERN滞在当時より物理研究アジア責任者を務め、以降20年近く計画推進の中心として携わっている。現在は世界最先端の加速器実験により質量と真空の構造の関係、超対称性の研究を行っており、次世代の電子・陽電子衝突型加速器「国際リニアコライダー計画(ILC)」での宇宙の法則の発見と技術の社会利用でのイノベーションを目指している。