いまから60年前の1961年4月12日、人類初の宇宙飛行に挑んだユーリィ・ガガーリンの伝説を振り返るこの連載。第4回では、いよいよ歴史がつくられた1961年4月12日の出来事について取り上げる。

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    ガガーリンを乗せたヴォストーク・ロケットの打ち上げ (C) Roskosmos

1961年4月12日早朝

ガガーリンたちが眠っている一方、発射台では打ち上げに向けた準備作業が続いていた。夜明けが近づき、朝もやがかかる中、ロケットへの推進剤の充填が始まった。

4月12日3時30分。宇宙飛行士たちの訓練の責任者を務めるポルトフが、ガガーリンらを起こしにやって来た。彼らは「よく眠れた」と答えた。

朝食に宇宙食を食べ、日課となっている健康診断を受けた。問題はなかった。

4時から、打ち上げ委員会の最後の会議が開かれた。ガガーリンは快調、ロケットと宇宙船の準備も順調で、誰も異論はなく、打ち上げはGo判断となった。カマーニンはこの日の日記に「会議は意外とあっさりと、短時間で終わった。コメントも質問もなく、全員が『打ち上げの準備は整っている』というひとつの結論に達した」と記している。

一方そのころ、ガガーリンとチトーフは宇宙服を着用していた。ガガーリンは、基地内の職員からサインを求められた。彼にとってサインを書くようなことは人生で初めてであり、驚いたという。

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    宇宙服を着る前のガガーリン (C) TsENKI / Roskosmos

その後、2人はバスに乗り込み、発射台へと向かった。ところがその途中にガガーリンが尿意を催したため、バスを停め、立小便するという、ちょっとしたハプニングも起きた。

6時50分。発射台に到着したガガーリンは、コロリョーフ、カマーニン、党や軍の関係者、そして準備作業を進める技術者といった大勢の人々に迎えられた。ガガーリンはその全員とハグやキスを交わし始めたせいで、カマーニンが振りほどかなくてはならなかった。

ようやく喧騒から抜け出したガガーリンは、歩いて発射台のすぐそばまで行き、エレベーターに通じる階段を昇った。カマーニンは「数時間後にまた会おう」と言い、ガガーリンを送り出した。

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    発射台に到着したガガーリンと関係者たち (C) RKK Energiya

ガガーリンは階段の下で見送る人々に手を振り、エレベーターに入った。そしてゆっくりとロケットの頭頂部、ヴォストーク宇宙船のある場所へ昇っていった。

8時、ガガーリンがヴォストークに乗り込んだ。一旦ハッチが閉じられたが、閉じたことを示すセンサーの反応がなかったため、打ち上げチームは再度ハッチを開き、閉じた。今度は異常はなかった。

コロリョーフやチトーフらは地上の管制所に陣取っていた。彼らのコールサインは「ザリャー1(夜明け)」。ちなみにガガーリンのコールサインは「キェードル(杉)」である。

8時14分、「退屈していないか?」というザリャー1からの質問に、キェードルことガガーリンは「音楽でもあればいいかな」と答えた。8時19分、ザリャー1で待機するポポーヴィチが、無線を通じてラヴ・ソングを流し、ガガーリンは喜んだ。

打ち上げ15分前。ガガーリンは手袋をはめ、ヘルメットのバイザーを下ろした。そして1分前、ロケットからアンビリカル・タワーが離れた。

ロケットのエンジンが吼えた。ガガーリンの耳にはややうるさい雑音として聞こえた。そしてコロリョーフの「スタールト!(発射!)」という声とともに、ロケットを支えていた4本のアームが花咲くように開き、モスクワ時間で1961年4月12日水曜日の9時6分59.7秒、ヴォストークとガガーリンを乗せたロケットは上昇を始めた。

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    打ち上げ直前、エンジンに点火したヴォストーク・ロケット (C) Roskosmos

パイェーハリ!

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    ヴォストーク内のガガーリン (C) RGANTD / RoskosmosGCTC

「パイェーハリ!(いってきます!)」とガガーリンが叫んだ。

ロケットは力強く飛翔し、コロリョーフは無線で、ガガーリンに「順調に進んでいるぞ」と伝えた。離昇から2分後、4基ある第1段が分離。中央の第2段はまだ燃焼を続けている。そして離昇から5分後、第2段が燃焼を終了し、分離。第3段の燃焼により、さらに速度を上げた。

9時18分、ロケットは地球を回る軌道に入り、その直後、ロケットからヴォストークが分離された。ヴォストークは無事、近地点高度169km、遠地点高度315km、軌道傾斜角65度、周期89.3分の軌道に入った。

9時21分、ヴォストークはザリャー1の交信可能範囲を超え、ロシア中部コルパーシェヴォにある別の地上局に追跡を引き継ごうとしていた。その狭間で、ガガーリンとの交信が切れてしまったことで、ザリャー1は少し緊張に包まれた。コロリョーフはガガーリンを呼び続けたが応答はない。その声は次第に震え出した。しかし、一方のガガーリンは冷静に、テープレコーダーに自身や宇宙船の状況について記録していた。

交信が回復したあと、ガガーリンは軌道上にいることを伝え、そして窓から見える外の様子を伝えた。「地球と雲がとてもよく見える。なんて美しいんだ!」。

ガガーリンは窓から地球を眺めながら、宇宙食を食べた。そして自分の状態、周囲の様子、そして窓から見える外の景色を、地上との交信が可能なときは伝え、交信範囲外に出てからはレコーダーに記録した。

打ち上げから52分後、ソ連のタス通信は「ソヴィエト連邦は世界初となる有人宇宙船の打ち上げに成功した。宇宙船の名はヴォストーク、搭乗者はガガーリン少佐である」というニュースを世界に発信した。

ちなみに、打ち上げ直前までガガーリンの階級は上級中尉だったが、打ち上げ成功をもって少佐になった。このとき、ガガーリンはまだ軌道上にいたため、そのことは知らされていなかった。

一方、米国も独自にこの偉業を捉えていた。ヴォストークの無線信号が、アリューシャン列島にある米国の基地によって探知されていたのである。その5分後、暗号がペンタゴンに届いた。それを受け取った職員は、すぐにケネディ大統領の首席科学顧問ジェローム・ワイズナーの自宅に電話をかけた。ワイズナーは寝ぼけながら報告を受け、時計を見た。ワシントン時間で1時30分、ヴォストークの打ち上げから23分が経過していた。そして大統領へこう報告した--「米国よりロシアのほうが先だった」と。

ヴォストークはユーラシア大陸を抜け、オホーツク海に出て、太平洋上を横断し、南アメリカ大陸の南端・ホーン岬のさらに南を通過。大西洋上を突っ切り、アフリカ大陸上空に入った。そして、いよいよ地球に帰還するときがやってきた。

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    ヴォストーク内のガガーリン (C) GCTC

帰還

10時25分、ヴォストークの逆噴射ロケットが点火した。計画どおり40秒間噴射し、必要な減速は行われた。

しかし、ここで異常事態が起こる。予定ならこの10~12秒後に、カプセルと機械モジュールをつなぐハーネスが外れ、両者が分離されるはずだった。しかし、ハーネスは外れず、カプセルと機械モジュールがつながったまま、大気圏に再突入することになった。

機械モジュールを引き連れていた影響で、カプセルは不規則に回転し、大きく揺さぶられた。しかしガガーリンは冷静に「異常なし」と報告、記録した。

10時35分、機器モジュールがようやく外れた。ハーネスが空力加熱で焼き切れたようだ。カプセルはようやく予定どおりの再突入姿勢になった。

やがて、濃密な大気の中を突っ切るように降下。そして高度7kmで、ガガーリンの頭上にあったハッチが、爆破ボトルで吹き飛ばされた。その直後、射出装置のロケット・モーターが点火し、ガガーリンはカプセルから放り出された。座席に固定されたまま地上を見下ろすと、ヴォールガ川とサラートフ市が確認できた。どうやらほぼ計画どおりの場所に降りてきたようだった。

やがて背中の座席が外れ、パラシュートが開いた。ついさっきまで自分が乗っていたカプセルが、パラシュートを開いて降下して行くのが見えた。

そして10時55分、ガガーリンの両足が地球の大地を踏みしめた。

着地地点に一番近くに居合わせたのは、ひとりの女性とその娘だった。怯える彼女たちに、ガガーリンは自己紹介した。彼女たちはずっと外にいたため、その瞬間にも世界中を駆け巡っていたガガーリンのニュースを知らず、さらにその主役がまさに目の前にいるということがわからなかったのである。

やがて、ラジオでニュースを知った人々が集まり出した。このとき「少佐」と呼ばれたことから、ようやく自分が昇進したことを知った。

しばらくして、回収チームが到着した。ガガーリンは彼らに別れを告げて、本当に帰りを待つ人々のもとへと帰って行った。

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    着陸したヴォストークのカプセル (C) Roskosmos

出発地は“バイコヌール”

このガガーリンの快挙は同時に、ソ連にとって頭痛の種をもたらした。

航空機による世界記録を取り扱う国際航空連盟(FAI)の取り決めによると、たとえなんらかの記録を成し遂げても、搭乗者が最終的に機体を放棄した場合は無効となることになっていた。

前述のようにガガーリンは高度約7kmでヴォストークから射出され、それぞれ別々に着地している。つまり、ガガーリンの偉業が無効となる可能性があったのである。

そのためソ連は長きに渡って、「ガガーリンはヴォストークに乗ったまま着陸した」と言い続けた。

そしてもうひとつ、FAIに記録されるためには出発地と着陸地を申告しなければならなかったが、チュラタームの射場はNIIP-5とも呼ばれる大陸間弾道ミサイルの発射基地でもあるため、機密中の機密であり、とても明かせるわけがなかった(もっとも米国は、1957年8月に、高高度偵察機U-2によって同基地を発見していた)。

そこで、射場から370kmほど北東にあったバイコヌールという街の名前を使い、さらに緯度経度も実際とは異なる座標を申請して誤魔化した(これには異説もあり、射場ができる以前から、チューラタム一帯はバイコヌールと呼ばれていたともされる)。

こうしてガガーリンの記録は、1961年7月18日にFAIに登録された。なお、のちに別々に着地したことや、出発地の正しい座標といった真実が明らかになっても、FAIの記録が消えることはなかった。

なおその後、宇宙基地の周囲には、そこで働く職員やその家族のために家や学校、公共施設などが立ち並び、1966年には市に昇格しレーニンスク市と呼ばれるようになった。

そして1995年12月20日には、エリツィン大統領(当時)がバイコヌール市と改名し、発射場もまた正式にバイコヌール宇宙基地と命名したことで、名実共に“バイコヌールにあるバイコヌール宇宙基地”になっている。

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    ガガーリンを乗せたヴォストーク・ロケットの打ち上げ。この発射場所は現在、バイコヌール宇宙基地として知られる (C) Roskosmos

参考文献

https://www.roscosmos.ru/29977/
・Hall, Rex, and David Shayler. The rocket men : Vostok & Voskhod, the first Soviet manned spaceflights. London New York Chichester England: Springer Published in association with Praxis, 2001.
Gagarin - Encyclopedia Astronautica
ESA - Yuri Gagarin
Remembering Yuri Gagarin 50 Years Later | NASA