感無量のコーチ
山下は佐々木と別れてから、今回のセッションを振り返った。今回、佐々木の「パワハラを行ってきたことに対してどう対応するか」という具体的な目標を設定するまでこぎつけたので、コーチとして大きな荷をおろした心地であった。
思い返すと、佐々木と最初にコーチングを始めたときは、佐々木は「自分がパワハラ上司」とは認めたくない気持ちが強かったので、「パワハラ」という言葉を使うことさえ難しかった。いちおう、コーチングセッションの目標を「精神的に弱くうつ病になったり、突然の休暇をちょくちょく取ったりする部下、長続きせず辞めてしまうパートの部下がいたが、このことと『パワハラ』とどう関係しているのかを究明する。このような部下に対する対応策としてメンタルタフネスの研修を考えているが、ほかにどのような対応策があるのかを探り、検討してから、上司としてとるべき行動に移す」という設定はしたが、目標の後半部は具体性に欠けており、あのときは「おそらく将来は、もっと具体化されたコミットメントが出るはず…」と期待するよりしかたがなかった。それが、今日期待通りになったのである。「メンタルタフネスの研修」で部下を変えることで頭がいっぱいであった佐々木が、今はウソのように「パワハラ上司」であった自分の行動をいかに改善するかに気持ちを動かしている。
コーチとしての自分の残りの仕事は、佐々木が実際に行動に移していく過程をサポートし、あきらめずに行動し続けるよう励ましてあげることである。「佐々木さん、ここまでよく頑張りましたね。ありがとうございました。」と、山下は心から佐々木に礼を言った。というのは、コーチングセッションを始めたのはいいが、仕事、家庭の事情を理由に途中でやめてしまう例を、山下は何度も見てきているからである。「さっそく今日から実践してみます」と言っていた佐々木の言葉を思い出して、山下は次のセッションの日時の確認を口実に、佐々木に電話をして今日の実践の結果を窺ってみようと思った。
とまどいのパワハラ上司
当の佐々木は、山下と別れてから、山下と一緒に決めたことをさっそくやってみようと勢い込んで会社に戻った。しかし、オフィスのドアを開けるやいなや、暗い顔をして下を向いたまま仕事をしている加賀や、電話の応対で忙しそうにしている吉田の様子を見ていると、何からどう始めようかとまた悩んでしまう。
わざとらしく話しかけるのもおかしいしと考えあぐんでいるうちに、吉田が顧客の書類を持ってやってきた。内容の確認のためにもってきたのだが、いつもなら何も言わず、ただ確認して判を押して返すという作業で終わっていたのだが、今日は、「ご苦労さん、吉田さん」の二言を付け加えた。すると吉田はハッと顔を上げて、どう反応すべきか困っているような表情を見せてから、言葉短に小さい声で「いいえ」という一言を言ってから、きびすを返して自分の席に戻った。
「吉田君にしてみれば、『さん』付けで呼んだことのない上司から『さん』付けで呼ばれた上に、ちょっとした思いやりのある言葉をもらったんだから、さぞかし気味悪がっていただろうな」と、佐々木は自分の行動に気恥ずかしさを覚えながらも、吉田の反応に興味を示した。吉田と視線があったからである。「やってみる価値はあるな」と実感した。
佐々木は、しばらく自分の仕事に忙殺され、加賀や吉田のことはすっかり忘れてしまっていたが、ふと一息ついたときに加賀を見ると、他の社員の中でも何となく暗い存在に映った。今まで、誰が明るくて、誰が暗いなんてあまり気にかけたことはなかった。ちゃんと仕事さえしてくれればよかったのである。加賀は相変わらず、高く積まれた書類の壁の中で、下を向いて頑張っている。佐々木は「対話をしなければ…」と、思い切って自分から加賀の席にまで言って声をかけることにした。今までどんなに加賀が大変な様子であっても、「昇進するには頑張ってあたりまえ」と思っていた佐々木は、加賀に対して何か言葉をかけるということはしたことがなかった。何を言おうかと迷った末、「オイ、どうだい?」と聞いてみたが、「ハア…」の一言しか返ってこない。佐々木にしてみれば大サービスで「頑張っているね」と付け加えてみた。しかし、加賀からは、「ハア、どうも」で終わりである。佐々木も「これだけではだめだな」と思いながらも、この後の話の続けようがなく、黙って加賀の席を去ってしまった。「対話をしなければ」とやる気はあったのだが、「あれでは、対話とはほど遠いな」と、「思いと実践」がそう簡単につながらないもどかしさを感じた。
夕方、ほとんどの女性社員が退社して、加賀を含めて何人かの男性社員だけが残っている職場に、山下から電話がかかってきた。今日の様子を聞かれたので、吉田と加賀に行ったことを話してから、「吉田のほうはまあまあうまくいったが、加賀のほうは失敗に終わった」と報告した。すると、山下は以外なコメントを出してくれた。
パワハラざんまいだった上司がいきなり優しくなったところで、部下の気持ちはそう簡単に変わらない。周囲の空気もおかまいなしに怒鳴り散らしていた頃に比べ、部下の気持ちが読めるようになっただけ成長した、と前向きに捉えてみよう |
(イラスト ナバタメ・カズタカ)