そもそも「パワハラ」とはどういう状態を指すのか
伊東は、従業員2万5,000人、創業65年の歴史をもつ大手企業の営業本部長を務めている。昨日、上司である役員の花田から、伊東の部下である佐々木について内密の話を聞かされた。会社内に設けられている「悩みの相談箱」の中に、佐々木の「パワハラ」に対する苦情が多発していて、一人はすでに法的な手段に出ることを決意しつつあるという。
花田は、もし、訴訟を起こされて労災認定が出たりすると、「働くのにふさわしくない職場環境」ということで、会社の責任問題になってしまうことを危惧している。「訴訟になる前に、君のほうで何とか手を打ってくれないか。佐々木君も今まで会社のためにはよくやってくれているので、何とか辞めさせるようなことはしたくないと思っている。どうも、自分がパワハラをやっていることに気づいていないように思うんだよ」
花田が去った後、伊東は正直言って、自分自身も何が「パワハラ」なのかよく理解していないのではと思った。2001年、「セクハラ」の後に出てきた言葉で、「パワハラ」の行為は法に触れるということは一応意識していた。「セクハラ」に関する研修は受けたが、「パワハラ」に関しては、読んでおくようにと文書が回ってきただけで、まだ熟読していなかった。伊東は、まず、「パワハラ」について自分自身知識を得てから、佐々木の件について考えることにした。
伊東は「パワハラ」について読めば読むほど、「セクハラ」の場合と同じように、日頃、無意識に部下や同僚に対して行っていることが「パワハラ」になっている可能性があるということに危険性を感じた。同時に、佐々木は自分の行為が「パワハラ」であるとは気づいていないことを確信した。佐々木はおそらく、「自分もこうやって仕込まれてここまできたんだから、同じようにして教えてやってるんだ」ぐらいにしか思っていないであろうことは、容易に想像できる。それは、自分も、上司の花田も含めて50歳以上の社員で管理職についている者ならば、「部下の育成」という名の下に佐々木と同じようなことをした経験が少なからずあるからである。
伊東は、ガムシャラに30年間この会社で働いてきた52歳の佐々木の顔を思い出しながら、「佐々木にも、苦情を出した社員にも、そして会社にも、いい解決方法はないか」といろいろと考えあぐんだ末、まず、少なくとも自分の部署だけでもきっちりした「パワハラ」に関する研修を半日設け、そのフォローとして「コーチング」をしてもらうことがいいのではと考えた。社内の自分がメンターとなってやるより、専門のコーチに第三者としてコーチしてもらうのが、今の佐々木には必要だと思った。たまたま、苦情の対象として佐々木の名前が挙がっているが、自分も含めて、他のマネージャ連中も佐々木の二の舞になる可能性があると判断した伊東は、コーチングの対象を、佐々木を含めたマネージャたち6人にすることにした。会社としては大きな投資であるが、タイムリーな処方であると判断した。
第三者を呼んでのコーチング
伊東は、役員である花田にこの案について話をし、予算の確保とこのプログラムの後ろ盾としてのサポートを確約してもらった。さっそく人材開発部にコーチングも提供できる適切な研修会社を探してもらった。もちろん、佐々木のことについては人材開発部には何も伝えていない。伊東は、このプログラムをできるだけ早く実施することが重要と考えていたので、研修会社と1週間後実施ということで交渉し、部署内には、上から下への通達方式で、実施に踏み切った。
研修日、担当講師は山下という女性であった。
山下は東京人権啓発企業連絡会のパワハラ度チェックリストを使って、自分たちの認識度をチェックしていた。佐々木をチラッと見ると、貧乏ゆすりをしながらも何か真剣にそのリストと向かい合っていた。
研修の後、佐々木は深刻な顔つきで研修室を出て行った。伊東は、講師の山下と今後のコーチングについて話をした。佐々木のコーチとして山下が女性であることに、伊東は最初少しこだわったが、今は、むしろコーチが女性であるほうが佐々木にはいろいろと学ぶことがあるように思えてきた。
部下を人前で大声で罵倒したり、仕事に関係ないことを持ち出して傷つけたり…自分もそうされたから、というのは今の時代、言い訳にならない |
(イラスト ナバタメ・カズタカ)