マイクロプロセッサーと髭剃刃との関係
私は髭が濃い方なので毎朝髭剃りをする。電気髭剃りではさっぱりしないのでシェービング・クリームを十分に顔に塗って4枚刃の髭剃りでジョリジョリとやってさっぱりとしないと気持ちよく一日がスタートしない。
つい先日、しばらく使っていた髭剃りの半ダース入りの替え刃がもうなくなっていることに気が付いた。早速薬屋に行って替え刃を買おうとしたが、念のために持参した古くなった4枚刃替え刃を見ながら一生懸命に探したがどうしても見当たらない。棚に並べられた商品はすべて5枚刃である。興味をそそられたので、よく観察すると下記のことが見えてきた。
- 髭剃り刃の市場は事実上G社とS社の寡占状態にあるが、薬屋の棚に並べられている製品は基本的には同じラインアップで、どうやら両社は共にすべての製品を5枚刃に移行しようとしているらしい。
- 4枚場の髭剃りホルダーは5枚刃には使えない。そこで、ホルダーを新たに購入することになるが、ご丁寧に5枚刃の髭剃りホルダーに2つの5枚刃替え刃が付いたセット商品が格安で売っている。ホルダーなしの5枚刃替え刃セットは以前の4枚刃セットと同じような値段で結構高い価格にセットしてある。
- 両社とも5枚刃の切れ味の爽快さについての口上がずらずらと述べられている。同じ光景は以前にも見たことがある。
要するに、市場はすべて5枚刃に移行しているのでそれに従って4枚刃のホルダーを捨てて、5枚刃に移行するしか選択はないのだ。ただし、その移行コストはそのままお客に上乗せしてチャージすることはできないので移行に必要な新しいホルダーは格安で売っておいて、後で割高な替え刃を売って儲ける、ということになる。典型的なサプライ・マーケティングである。
仕方なく5枚刃の格安セットを買うことにしてレジで支払いの際に店員に聞いてみたら、確かにかなり前から5枚刃への移行は始まっていて、今ではどこを探しても4枚刃の商品はなくなっているとのことであった。そろそろ6枚刃への移行の準備も始まっていると聞く。
さて実際の剃り味であるが、半信半疑で翌朝早速試してみると確かに5枚刃の切れ味は爽快である。それには刃の枚数が増えているだけでなく、顔の曲面にぴったりとフィットするようにスムーズに動くヘッドが改良されていることが理由であるように見受けられた。確か2枚刃を試した時に"これはいける"、と思って電気髭剃りから変えて以来、毎朝何十年も髭剃りを使っているが、まだ改良の余地があったのだと実感できたことは新鮮な驚きであった。髭剃りメーカーの技術陣の仕事に感心しつつ、 同時にこれ以上刃の枚数を増やして同じような効果があるのだろうかと訝ってしまった。
私はAMDでの長い経験から根っからのマーケティング・オタクになってしまっていて、見聞きすることをマーケティング的に解釈することが癖になっている。そのせいで、買い物をしていると知ったかぶりのコメントを連発し"また始まった"、とかみさんからひんしゅくを買うことが多々ある。私は常々ハードウェアであれ、ソフトウェアであれ、最終的な商品価値は"ユーザー・エクスペリエンス"であると思っている。外資系のいつもの癖でつい横文字になってしまったが、実はこのマーケティングで多用される言葉には、しっくりとくる日本語が見当たらない。大学の経済学の授業などでは"経験価値・使用価値"などと呼ばれているらしいが、要するに"使った時のあのいい感じ"、とも言える。卑近な例では、今では巷にあふれているしゃれたコーヒーショップや、ファーストフードのチェーン店で受けるあの感じである。"あそこに行けばこの感じが必ず経験できる"、というのが最終的な商品価値である。これは"ブランド"という言葉に集約されている。
髭剃りからかなり話が飛躍してしまったが、5枚刃の髭剃りの購入経験で私がAMDで経験したマイクロプロセッサーのマーケティングを思い出した。類似点が多々ある。
マイクロプロセッサーのマーケティング
今ではかなり様相が変わってしまってきているが、私がAMDで働いたころはまさにマイクロプロセッサー・マーケティングの全盛期であったと言えると思う。その経験は、その後の私をマーケティング・オタクにするきっかけとなった。仕組みはいたって簡単である。基本的な考え方はこの市場を創造したインテルとマイクロソフトが構築した。
マイクロプロセッサーに限って言えば、"周波数マーケティング"である。年間3回あるモデルチェンジに合わせてマイクロプロセッサーの性能を上げてゆく。性能評価の基準は動作周波数である。読者の理解のために下記のような簡単なチャートを作成してみた。いわゆる、"ロードマップ"である。ここに掲載したのは単なる概念図であり実際に使われたものとは違う。
このチャートの見方は以下の通りである。
- モデルチェンジ・サイクルとはパソコンの年3回(春、夏、冬)のモデルチェンジの事でC1(Cycle 1)、C2、C3と進んで、また次の年の春にC1で始まる。
- 各シーズンのモデルには大体3種類のモデル-上位(ハイエンド)、中位(ミッドエンド)、低位(ローエンド)-が用意され、各モデルはパソコンの頭脳であるマイクロプロセッサーの性能(動作周波数)の違いのほか、ディスプレー性能、操作性、形状、耐久性、追加機能、搭載ソフトなどが値段に応じて盛られていて差別化が図られている($の表示はプロセッサの価格:これはあくまで参考例として見ていただきたい)。
- メーカーとして一番売りたいのは利益率の高いハイエンドであるが、消費者は財布の中身を見ながら決めるので一番量が出るのは廉価なローエンドである。
- このモデルチェンジはシーズンごとに変わってゆくので、マイクロプロセッサーのモデルはC1でハイエンドだったものはC2ではミッドになり、最上位機種が登場しC1でローエンドだったものはC2では姿を消す。これを順繰りに繰り返すことになる。
この方法はマーケティング的には"常に新しいものを投入することで全体の値段を下げずに、しかもボリュームを稼ぐ"、という具合に理にかなったものであるが、実際の製品化にはかなりの技術と労力が必要となる。
- マイクロプロセッサーの周波数が常に上がるためにはその基本アーキテクチャーがそれを可能とするものでなくてはならない。K7は当初500MHzで登場したが、最後は2GHz(2000MHz)くらいまで到達したと記憶している。そして、物理的な限界まで行ってしまうといよいよ次の革新的アーキテクチャーを用意し世代交代をする。AMDの場合はK7コアからK8コアへ移行した。
- 周波数が上がってゆくと、当然発生する熱上昇の問題に対応する必要がある。これは自然物理の現象なので抗うことはできない。対応には、デバイスおよびシステムの冷却、高速処理に対応するI/O部分の改良など、いろいろな工夫が必要である。
- マイクロプロセッサーの性能が上昇するだけでは肝心の"ユーザー・エクスペリエンス"の上昇にはつながらない。これにはパソコン本体のソフト、周辺機器、形状、追加機能などの工夫が必要となってくる。各メーカーはこの工夫に常に腐心する。
最終的に決め手となるのは、この"ユーザー・エクスペリエンス"であって、これが高ければ高いほど買い手の満足度は高くなり、付加価値の高いものが売れて、売り手もハッピーになる。 しかし、これは口で言うほど簡単ではない。ユーザーが本当にいい経験をしているのかどうか、それを実現するために用意しなければいけない付加価値にかかるコストはいかほどか、などについてマーケッターは常に頭を悩ませることになるのだ。パソコンの黎明期ではこれが非常にやりやすかった。ユーザーは技術革新で繰り出される真新しい技術に常に興味を持っていたし、ハードとソフトの性能の向上によって確かな付加価値を経験・実感できたからだ。しかし、性能がある満足するレベルに達してしまうと、ユーザーは付加価値の上昇よりは安い価格を求めることとなる。マーケッターが一番嫌う"商品のコモディティー化"である。それを回避するために技術革新を続ける。
ともあれ、技術集約市場での本当の勝者は付加価値の高いものを廉価に入手できるようになるエンド・ユーザーである。現在のパソコン、スマートフォンが20年前のスーパー・コンピューター並みの性能を持っているなどとは誰も意識していない。しかしこの市場のダイナミックスを可能とし、担保するのは健全な市場での公正な競争であることは言うまでもない。
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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