昭和の"ロボット博士"相澤次郎が遺したロボット兄弟たち
昭和を通じて"ロボット博士"として活躍した故・相澤次郎氏(1903~1996)。彼が設立した「財団法人 日本児童文化研究所」(当時※1)で生み出された大型ロボットは「相澤ロボット」と呼ばれる。兄弟として「一郎」「三郎」などの名前が与えられた相澤ロボットは、昭和30年代後半~60年代(1960~80年代前半)にかけて全国各地の科学館やデパートのイベントに登場し、多くの子どもたちに未来への夢を与えた。
※1:現在は「公益財団法人 国際医療福祉教育財団」へ移行
「Mr. Kuro the Robot - Jiro Aizawa -1981」。YouTubeにアップされている海外ニュース動画。1981年、クリスマス商戦の池袋西武デパートに相澤ロボット「九郎」が登場 |
1985年に児童文化研究所のロボット関連活動が終息した後、遺されたロボットたちは北海道・夕張の「ロボット大科学館」に展示されていた。だが2008年の同館取り壊しにより東京の現財団に返還され、翌年にはロボット業界の有志ボランティアによる「相澤ロボット修復プロジェクト」が始動。整備されたロボットたちは再び各地のロボットイベントに出展されるようになった。
さらに2011年には、かつて研究所のあった西東京市(旧・保谷市)の多摩六都科学館に2体のロボットが寄託され、言わば里帰りを果たした形となった。こうした経緯については筆者も随時レポートしてきたので、ぜひ過去の記事もご参照いただきたい。
そして昨年12月23日、多摩六都科学館に展示中の「雷さんロボット ミスター・スパーク」の50歳の誕生日※2を記念し、お話会「製作者が語る相澤ロボット」が開催された。その席で、夕張から帰還した12体のうち唯一の歩行ロボット「三郎」※3を往時のように歩行可能とするため、修復プロジェクトの再始動も宣言された。この連載では、お話会当日の様子を中心に、プロジェクトの原状についてお伝えしたい。
※2:筆者の手元の資料ではミスター・スパークの誕生日は1962年(昭和37年)12月23日となっており、その場合は50歳ではなく51歳を迎えたことになる。この点は今後改めての検証が必要だろう。
※3:お話会では夕張での展示時のネームプレートに従って「シュウくん」と呼ばれていたが、2010年の「ロボットと美術」展出展の際、相澤次郎氏のご子息で研究所の専務を務めた研一氏の監修により、正式名称は「三郎」であると確認された。そのため本稿でも「三郎」で統一させていただく。
貴重な証言が次々と! - お話会「製作者が語る相澤ロボット」
お話会「製作者が語る相澤ロボット」は、元・日本児童文化研究所員の秋本文三氏と修復プロジェクトのメンバーの対談という形で行われた。秋本氏は研究所最古参の職人として全ての相澤ロボット開発に携わった人物。そもそも今回のイベントは、かつて手がけたロボットが展示されていることを知った秋本氏が多摩六都科学館に連絡し、それをきっかけに実現したと言う。
修復プロジェクトからは、ロボットゆうえんち代表の岡本正行氏、元バンダイロボット研究所長で現バンダイナムコスタジオの芳賀義典氏、サンライズ文化推進課課長の井上幸一氏、神奈川工科大学ロボットメカトロニクス学科教授の兵頭和人氏の4名が参加。
会場には修復に向けて神奈川工科大学KAIT工房で保管されている「三郎」も運び込まれ、岡本氏が進行役となって秋本氏に様々な質問が投げかけられた。
相澤ロボット製作の想い出を語る秋本氏。現在もカメラ店に技師として勤める |
相澤ロボット修復プロジェクトの面々。右から、ロボットゆうえんち岡本氏、バンダイナムコスタジオ芳賀氏、サンライズ井上氏、神奈川工科大学の兵頭教授 |
秋本氏は昭和7年(1932年)生まれ。幼い頃から機械いじりが好きで、戦後間もない高校時代にたまたま近所だった相澤次郎氏の自宅兼研究所へ遊びに行くようになった。卒業後は次郎氏の弟子のような形で就職。その後に財団法人として日本児童文化研究所が正式に設立され、ロボット関連活動の最晩年となる1985年まで関わった。
ロボット製作のために必要な技術は全て実地でマスター。溶接なども「できるようになってから試験を受けに行った」そうだ。いま考えると問題アリだが、すでに時効か(笑)。相澤ロボットの誕生期はモーレツな高度経済成長期と重なるが、その辺りはやはり大らかな時代だったのだろう。