筆者は飛行機に乗ると、いつも離陸滑走を開始したところで腕時計に目を落とす。滑走開始から離陸(エアボーン)するまで、どれぐらい時間がかかるかを見るためだ。見たからどうなるというものでもないのだが、なんとなく「気になる」のである。
V1・VR・V2
…といっても、某社のミラーレスカメラや手ブレ補正機能のことではない。固定翼機が離陸する際に関わってくる、速度に関する指標である。
V1とは離陸決断速度。飛行機が滑走を開始して、加速している途中でエンジン等にトラブルが発生する可能性があるが、その時点で速度がV1より遅ければ離陸中止、V1より早ければ離陸継続、という指標である。V1を超えていたら離陸を継続するのは、そこから離陸を中止しても、止まり切れずに滑走路から飛び出してしまうからだ(実際、そういう事故の事例もある)。
その次に来るのがVR(ローテーション速度)で、この速度に達したところで操縦桿を引いて機首の引き起こし(ローテーション)を行う。つまり、機体を浮揚させるに足る、十分な揚力が得られる速度、と言い換えることができる。
最後のV2とは安全離陸速度。浮揚した機体が、そのまま安全に上昇できる最小速度という意味である。エアボーンした後も、飛行機はエンジンを吹かして加速を続けているから、V2はVRより速い数字になる。
ややこしいことに、同じ機体であっても、V1・VR・V2の数字は毎回変わる。それは当然のことで、機体を浮揚させるために必要な揚力に関わる諸要素は、常に一定というわけではない。
その「諸要素」には、風向、風速、気温、気圧、機体の重量、フラップ下げ角などがある。同じ機種や同じ機体であっても、燃料・乗客・貨物などの搭載量によって重量は変動するから、フライトの度にデータを得なければならない。飛行機が基本的に向かい風の状態で離着陸することは、御存知の方が多いだろう。
フラップは「下げ翼」と訳されるが、通常飛行時は引っ込めておいて、低速で揚力を発揮する必要がある離着陸時にだけ使用する高揚力装置だ。主翼の前縁から降ろす「前縁フラップ」と、主翼の後縁から降ろす「後縁フラップ」がある。
基本的にはフラップの下げ角が大きい方が揚力が増して、エアボーンに必要な最低速度が低くなる。実際にはいろいろとややこしい話があるのだが、本題から外れるので割愛する。
フラップを下げた様子。これはエアバスA330のものだが、他の機種でも似たようなものである |
ともあれ、パイロットは必ず、フライトの前にV1・VR・V2の数字を計算して、操縦の際に目安が得られるように速度計のバグ(ソフトウェアの不具合ではなくて指標のこと)をセットしておく。
前述したように、関連する諸条件は毎回違うから、まず「これから行うフライト」に関する正しいデータを得て、それに基づいて計算しなければならない。前回のフライトのデータは使い回せない。
計算ミスは「あってはならないこと」
もちろん、チャートや計算式を片手に手作業でV1・VR・V2を計算してもよいが、コンピュータにデータを入力して計算させることもできる。入力する数字が間違っていると、VRに達して操縦桿を引いても機体が浮揚できない、なんていうことになりかねないので、計算間違いや計算忘れは「あってはならないこと」である。
実際、この離陸時の諸元設定にかかわるドジが原因で事故が起きたことがある(参照 : パンアメリカン航空845便離陸衝突事故)。幸いにも死者は出なかったが、機内に鉄骨が飛び込んできて座席を串刺しにする事態になったので、その座席に乗客がいたら大惨事だっただろう。
パンナム機事故の根本的な原因は「使ってはいけない滑走路を使った」ことにあるのだが、さらにダメを押したのが、V1・VR・V2の計算忘れだった。正確にいうと、フラップ下げ角10度の設定に合わせてV1・VR・V2を計算した後で、短い滑走路から上がれるようにフラップ下げ角を20度に変更したにもかかわらず、変更後のフラップ下げ角に合わせて計算をやり直すのを忘れたのである。
ちゃんと計算をやり直していれば、当初に出した数字よりも低いV1・VR・V2に変わることを把握できたはずだ。それに合わせてローテーションしていれば、降着装置を進入灯にひっかけることはなかったと考えられる。
今なら、、乗客や貨物の搭載量と搭載バランスの計算や燃料搭載量の計算など、フライトに関わるさまざまな情報がみんなコンピュータ処理になっていることが多いだろう。
ということは、それらのデータに基づいて決まるV1・VR・V2の計算も、所要のデータが入っているコンピュータ、あるいはそのコンピュータと連接したコンピュータで計算させるのが合理的だろう。わざわざ関連データをプリントアウトして手入力し直すのでは、手間がかかるし間違いの元だ。
手放し状態で離陸する!?
余談だが、世の中にはエアボーンする際に操縦桿を握らない…ではなくて、握ってはいけない場面というものが存在する。それは何かというと、空母からカタパルト発艦するとき。
なぜかというと、スチーム・カタパルトによる加速は強烈だから、身体が慣性の法則でもって後ろに押し付けられる。そこで操縦桿を握っていると、操縦桿を知らず知らずのうちに引いてしまう可能性がある。引きすぎて過度の機首上げになれば、失速・墜落という事態になりかねない。
しかも空母からの発艦だから、下は地面ではなくて海。おまけに、海ポチャになれば後ろから空母の巨体が突っ込んできて危険である。海に落ちた飛行機が排水量10万トンの空母と喧嘩して勝てるわけがない。
そんなわけで、空母から発艦する際には操縦桿は握らず、射出したらサッと操縦桿を握って機を操らなければならないらしい。忙しい上に大変な話だ。
執筆者紹介
井上孝司
IT分野から鉄道・航空といった各種交通機関や軍事分野に進出して著述活動を展開中のテクニカルライター。マイクロソフト株式会社を経て1999年春に独立。「戦うコンピュータ2011」(潮書房光人社)のように情報通信技術を切口にする展開に加えて、さまざまな分野の記事を手掛ける。マイナビニュースに加えて「軍事研究」「丸」「Jwings」「エアワールド」「新幹線EX」などに寄稿しているほか、最新刊「現代ミリタリー・ロジスティクス入門」(潮書房光人社)がある。