プロローグ:「銀の匙 Silver Spoon」をご存知だろうか?

「銀の匙 Silver Spoon」というコミックをご存知だろうか。「鋼の錬金術師」の作者でもあり、著名な漫画家の荒川弘氏による、北海道の農業高校を舞台に農業の夢と現実を描写する青春ストーリーである。少年誌で現在も連載中であるが、すでにアニメ化、実写映画化がされるなど大ヒット中のコミックだ。

あらすじはこうだ。主人公の八軒君は、自分のことを認めてくれない厳しい父親が敷いたレール通りの人生、すなわち受験勉強をして進学校に進学する優等生の人生に疑問を持ち、逃げるように都会から離れて農業高校に進学し、寮生活を始める。これまで偏差値至上主義で机上の勉強ばかりの世界で生きてきた八軒君は、農業高校の日常を通じて、生身の家畜を扱いながらも経済的な価値を生まなくてはならない畜産の世界に触れ、葛藤し、感動しながら、持ち前の人助け気質、巻き込み力、頭の良さでさまざまな試練を乗り越えていく。そして次第に才覚を表し、自分の会社を興していわゆる「アグリビジネス」を始める。

「銀の匙 Silver Spoon」は、高校生を含む若い就農者が畜産業という自然を相手にする事業において、手探りで失敗と成功を積み重ねていく話だが、実際の農林水産業の現場を取り巻く環境はどうだろうか。

実は、日本の農林水産業の生産額は世界で10本の指に入っており(注1)、日本は世界的にみても有数の農林水産業の国と言える。日本の食市場が縮小する一方で世界の食市場が拡大することを背景に、農林水産省は日本の農林水産物・食品の輸出額を2020年に1兆円まで増やすとの目標を打ち出している(注2)。これまでの取り組みが奏功し、この目標は比較的高い確度で達成可能と見込まれている。しかしながら、次の10年、まさに「銀の匙 Silver Spoon」の八軒君が30代になり、第一線で活躍する2030年頃を見据えた際に、日本の農林水産業発展のための施策とその担い手となる人材育成は万全だろうか。

本連載では、主に農業を中心に国内外の農林水産業の実態を俯瞰しながら、日本の農林水産業を背負って立つ人材をどのように育成すべきかについて考えていきたい。

「銀の匙 Silver Spoon」 (C)荒川弘/小学館

日本の農林水産業を取り巻く環境の変化

2015年10月にTPP(環太平洋連携協定)交渉が大筋合意に至ったことが、今後の日本の農林水産業、さらには食品加工などの周辺産業に影響を与えることは言うまでもない(2016年2月4日に署名式がニュージーランドにて執り行われた)。これまで「聖域」とも言われていた農林水産業にも、いよいよ変化が求められる時期が到来したと言えるだろう。

環境変化の因子はTPPにとどまらない。世界的な物流網と多様化した流通構造の発達、ならびにデジタル化の進展も挙げられる。例えばeコマースの普及によって農家が消費者とダイレクトにつながることが可能になり、従来とは異なる多様化した農産物の供給モデルが実現している。また、現在加速しつつある少子高齢化と人口減少は、農産物の内需減少を確定的にすると同時に、農林水産業の担い手の減少も意味し、産業としての抜本的な構造変革が「待ったなし」の状況と言える。

一方、農林水産業が担う役割はビジネスの側面にとどまらない。国際連合食糧農業機関が行っている世界農業遺産(次世代へ継承すべき重要な農法や文化風習などを有する地域を認定するプログラム)の取り組みからも分かるように、農耕は日本文化を形作る核であり、農林水産業の保護は文化の保護と同義だと考えている。それだけではない。林業の衰退は山の荒廃を意味し、また農業の衰退は里山と土壌の荒廃、ひいては海の荒廃を引き起こす。農林水産業の保護は環境保護でもあり、防災にもつながる。よく政治的な理由ばかりが取りざたされるが、政府が農林水産業を保護する理由は多く存在する。

攻めの農林水産業とは

これまで政府は、歴史的に生産と流通を統制することで農林水産業を保護してきた。しかし、前述の環境変化、つまりグローバル化とデジタル化による市場化圧力を受け、他のさまざまな国家的産業が過去に経験してきた変化と同様、農林水産業についても「消費者ニーズを見極め、何を売るべきかを熟考して生産し、適切なチャネルで販売していく」というビジネスの基本に立ち返り、ひとつの産業として自立化・活性化することが求められている。農林水産省も攻めの農林水産業を掲げ、例えば「6次産業化」「FBI戦略」「スマートアグリ」といったキーワードでさまざまな施策を講じ、TPP締結によっていやおうなしにグローバル化の波にのまれる日本の農林水産業を守りから攻めに転じさせようとしている。

ここで、攻めの農林水産業にまつわるこれら代表的なキーワードについて簡単に解説したい。

1. 6次産業化

農林水産業の1次産業、製造加工の2次産業、小売・流通・サービス業の3次産業を、掛け合わせて1×2×3=6次産業と称したものである。主に、1次産業従事者が2次産業や3次産業まで踏み込み、食のバリューチェーンを下流まで取り込むことを指す。典型的な事業としては、農産物の直接販売、加工、直接輸出、観光農園、農園レストランなどである。国内生産の総額が約10兆円である1次産業のプレーヤーが、約90兆円に上る国内食品関連産業市場から付加価値を獲得することであり、これまで「生産者」であった1次産業従事者が、「ビジネスプレーヤー」として市場を獲得していくことを目指す動きである(注3)。

2. FBI戦略

「Made From Japan」、「Made By Japan」、「Made In Japan」の各前置詞の頭文字をとったものであり、世界の料理界で日本食材の活用を推進(Made From Japan)し、日本の食文化・食産業を海外展開(Made By Japan)し、日本の農林水産物・食品を輸出(Made In Japan)することで、日本の食品・農林水産物が世界の食品市場を獲得していくことを目指す取り組みである(注4)。

3. スマートアグリ

農業におけるデジタル活用である。工業がデジタル化され、オフィスワークがデジタル化され、最後は農業と言われていたが、ここ数年間で農林水産領域のデジタル化は急速に進み、これまで勘と経験に頼っていた業務の遂行はデータに基づく科学的なものに移行しつつある。実際、農場に設置したセンサで観測したデータやドローンを活用して田畑をデジタルスキャニングしたデータを解析し、病害虫の早期発見や生育管理に役立てることで生産を安定・向上させることも可能になりつつある。また、スマートフォンやタブレット端末の発達により、現場で容易にデータ管理ができるようになるなど、デジタル技術の活用範囲は広がるばかりである。これらの動きはオランダの施設園芸が先端と言われているが、アメリカにおいても農機メーカーや穀物メジャーなど周辺産業からデジタルを活用したデータ解析・アドバイスサービスが始まってきている。

これら3つのキーワードは、これまで日本の幾多の産業・企業が取り組んできた(1)バリューチェーンを組み換え、(2)市場を世界に広げ、(3)デジタル化することを農林水産業にも取り入れることを示している。これは、ある意味、農林水産業に普通の産業になることを要請していると考えられる。

出典:アクセンチュア

2030年を見据えた人材育成

翻って、将来の日本の農林水産業を支える人材の育成についてはどのような状況だろうか。ここで言う「人材」とは、大学を卒業し政策などの面で文字通り産業をけん引する役割を果たすリーダー人材のみを指すのではない。むしろ、実業に従事し産業の中核を担う人材を念頭に置いている。

冒頭で紹介した「銀の匙 Silver Spoon」は農業高校が舞台であり、主人公は学校の畜産実習を通じて家畜の世話や食肉加工のための解体方法などを体得していくが、このような実業の担い手は農業高校や水産高校などの実業高校で育成されている。国内外の環境変化という荒波の中で、日本の農林水産業がしたたかに生き残っていくための人材育成という観点において、現在の実業高校における教育に発展の余地はないだろうか。

筆者の所属するアクセンチュアでは、ビジネス視点を持ったグローバル人材の育成を重要なテーマの1つと捉え、CSR活動の一環として、一般社団法人Bridge for Fukushimaと共同で、農業高校向けに経営やマーケティングなどに関する授業を行う人材育成プログラムを提供している。通年で提供される本プログラムを通じて、農業高校の生徒達と接する中で得られた気づき、そして生徒達の経営やマーケティングに対するポジティブな反応など、筆者の実体験やグローバルでの先進事例なども交えながら、本連載の中で紹介していきたい。

まず次号では、実際の農業高校を例にとり、現在進行形で推進されている特徴的な取り組みについて紹介する。

参考

1) 農林水産業・地域の活力創造本部 (2014)
http://www.maff.go.jp/j/kanbo/saisei/honbu/pdf/
shiryo_zenkoku_5_1-2plan_kaitei.pdf

2)、4) 農林水産省(2014)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/dai5/siryou2.pdf
3) 農林水産省(2015)
http://www.maff.go.jp/j/kokusai/kokkyo/food_value_chain/1st_asean_aus/
pdf/1st_asean_aus_data4.pdf

著者プロフィール

藤井篤之(ふじいしげゆき)
アクセンチュア株式会社 戦略コンサルティング本部 シニア・マネジャー
入社以来、官公庁・自治体など公共サービス領域のクライアントを中心に、事業戦略・組織戦略・デジタル戦略の案件を担当。農林水産領域においては輸出戦略に精通している。
また、アクセンチュアの企業市民活動(CSR活動)において「次世代グローバル人材の育成」チームのリードを担当。経営・マーケティングに関する農業高校向け人材育成プログラムの企画・開発を行う。

久我真梨子(くがまりこ)
アクセンチュア株式会社 戦略コンサルティング本部 マネジャー
企業の事業戦略・組織改革などに関するコンサルティングと並行し、教育機関に対して、カリキュラム改組から教材開発、実際の研修実施に至るまで踏み込んだ支援を行う。
人材育成に関する豊富な知見を活かし、アクセンチュアの企業市民活動において、農業高校向け人材育成プログラムを提供している。