【青春座談会】群馬県立前橋高校「赤城山からの空っ風に耐え抜いた学生生活を語ろう!」

創立140年を超す伝統ある男子校で学生生活を過ごした3人の共通した言葉は「クヨクヨしない」という校風。強い空っ風が吹き付ける赤城山の麓で逆風に立ち向かう学生たちの姿を垣間見る。マルチメディア振興センター理事長の桜井俊氏、NTTドコモ相談役の吉澤和弘氏、朝日新聞社社長の角田克氏それぞれがライバル校・高崎高校との「定期戦」などの思い出を語り合った。

壇上に立つ先生に背を向ける

 ー 前橋高校(マエタカ)は140年以上の歴史を誇る伝統校。男子校だからこその魅力もあると思いますが、マルチメディア振興センター理事長の桜井俊さんの入学時の思い出とは。

 桜井 わたしが入学した1969年は、まだ大学紛争の煽りで高校も荒れていました。例えば、同年秋に前橋で高校総体が開催されたのですが、先輩たちは「そんな体制的なことはできない」と言って、マスゲーム(多人数が集まって体操やダンス等を一斉に行う集団演技)反対闘争を繰り広げていたのです。我々のような1年生には何のことか分かりませんでしたね(笑)。

 さらに卒業が72年。その年の2月には新左翼組織連合赤軍の残党が人質をとった浅間山荘事件が発生。受験勉強が大詰めを迎えている時期でしたが、テレビが観たくて仕方がない。クレーンで鉄球を壁にぶつけているシーンを観ながら勉強していました。イデオロギーが色濃く出ていた時代でしたね。

 ですから、生徒たちの間でも自らの立ち位置を証明するかのように、校長先生が朝礼などで演壇に立って話をしようとするときには、みんな後ろを向いて座り込む。校長先生は何も言わない。淡々と話していらっしゃいましたね。凄い時代でした。

 ー NTTドコモ相談役の吉澤和弘さんは桜井さんの2年後輩に当たるわけですが、同じような状況だったのですか。

 吉澤 浅間山荘事件はわたしが1年生のときでした。テレビで観たことを覚えています。ただ、わたしのときはあまり大学紛争の名残はありませんでしたね。先生に対して背を向けることもありませんでした。

 ー ほぼ一回り違う朝日新聞社社長の角田克さんのときは。

 角田 わたしのときは入学式で君が代斉唱の際、在校生が歌わずに地団駄を踏んでいました。大人の世界に来たと思いましたね(笑)。桜井さんのお話から底流にはそれがあったんですね。

 ー 桜井さんにとってのマエタカとはどんな存在ですか。

 桜井 とにかく自由でした。象徴的なことを言えば、上州の冬は空っ風でとにかく寒いので、昔はだるまストーブがありました。そこで鍋と食材を持ち込んで、だるまストーブの上で湯豆腐を作るんです(笑)。それでクラスの何人かで昼食をとる。他にもレトルトカレーを温めて食べたりしていましたからね。

 ー 合宿みたいですね。

 吉澤 でも他人に迷惑をかけなければ、自由で何でもありという気風でした。服装も制服はありますが、基本的には自由でしたからね。下駄を履いている学生も多かったですよ。

 桜井 自転車通学のときはペダルに下駄が挟まりそうになって危なかったなあ(笑)。

 角田 わたしの入学前に新校舎になってからは、だるまストーブはなくなりましたが、下駄を履いている学生はいました。バンカラ気質は変わらず、制服を着ていたのはクラスの3分の1くらいでした。

先生がタバコの後片付け

 ー どんな服装をする学生が多かったのですか。

 角田 真っ赤なTシャツを着たり、ジーンズを履いている学生もいました。学校の近くに定食屋があって昼になると昼食をとりにいくのですが、クラスメイトと行くと、焼きそば食べながらビールは飲むわ、たばこは吸うわで。いやいや、大人の世界だなと、そこでも感じました。わたしは飲んでいませんよ(笑)。

 吉澤 たばこを吸っている学生は結構いましたよね。

 桜井 部室が入るプレハブの建物があり、そこで吸っている学生が結構いました。ある部室のテーブルの真下を覗くと、焦げ跡がたくさんあって(笑)。

 ー 臭いが残りますよね。

 角田 先生は分かっていたと思いますよ。

 吉澤 屋上で吸っている学生も多くて、先生もその光景を目撃するのですが、なぜか吸い殻を片づけるのは先生なんです。火事になったら大変だし。あまり怒るとかありませんでしたね。「おい、気を付けろ。あまり吸うなよ」といった感じです。

 角田 大概、ひと言、ふた言、注意される程度でしたよね。

 ー 角田さんは群馬県渋川市から通学していたと聞きましたが。

 角田 原付バイクでの越境通学で、同学年に5~6人いたと思います。片道約40分をかけて通いました。標高の高い渋川から前橋まで下ってくるので、冬は空っ風に押されてスピードがビュンビュン出るのですが、帰りは逆で登るので、スロットルをふかしても時速20キロ以上は出ませんでした。ですから帰りは1時間くらいかかりました。

高崎高校との定期戦

 ー マエタカは同じ県下の高崎高校(通称「タカタカ」)と毎年定期戦を行っていると。

 桜井 わたしの代にはまだ騎馬戦がありました。皆、異常な熱意を持って臨んでいましたよ。相手の帽子を獲ると勝ちなのですが、相手を引きずり下ろすので、ケガをした子もいて危なかったです。わたしの時代はタカタカが圧倒的に勝っていたと思います。

 吉澤 それでも定期戦は良い思い出です。わたしはサッカー部でしたので、タカタカのサッカー部と試合をするのですが、定期戦自体は総合点を競う。部活は種目ごとですが、部活に入っていない学生は桜井さんがおっしゃったように騎馬戦や綱引きで勝負するんです。でも、タカタカの方が、どこか燃えているような印象があります。

 ー タカタカとは深夜ラジオの番組への投書で盛り上がったとも聞きました。TBSラジオの『パックインミュージック』などに投書し合うと?

 桜井 どちらが読まれるかどうか競い合っていました。

 吉澤 これは代々引き継がれていきましたね。わたしのときは、とにかく投書しまくる子がいて、読まれたときには猛烈に喜んでいました。

 桜井 定期戦が終わって前橋まで戻ってくると、駅前の噴水に飛び込んで大騒ぎする仲間もいました。

 ー 勝利の余韻に浸ることもできたわけですね。

 吉澤 わたしの代は負け続け。そういう気分になったことは一度もありませんでしたね(笑)。

 ー 男子校であることの思い出は何かありますか。

 吉澤 今となってみると、自由・自立といった校風は本当に魅力があるものでした。先日クラス会を行ったのですが、市内の「前橋文学館」でマエタカOBの詩人・萩原朔太郎とマエタカの校歌をつくった平井晩村の特別展が行われていました。その校歌の4番に「男児の粋(すい)をあつめたる、われ等が前橋高等学校」と。この4番が一番盛り上がるんですよね。

 桜井 皆、2番と3番は覚えていなくても4番は覚えています。

 角田 わたしも同じです。

 ー 学校では女性の先生はいたのですか。

 吉澤 女性はいませんでした。

 桜井 図書館の司書さんくらいですね。先生は皆、男性でした。

 角田 わたしのときも先生は男性ばかりでしたよ。

キーン氏に影響を与えた前橋人

 ー 印象に残っている先生はいましたか。

 桜井 音楽の「ギヤマン」という名物先生がいました。なぜそのあだ名なのかというと、「わたし、ぎゃまん(我慢)できません」とおっしゃるから(笑)。

 角田 ギヤマンもそうですけど、20年くらい長く勤める先生が多いのも特徴だと思います。

 桜井 現代国語の先生で亀島貞夫先生がいらっしゃいました。「近代文学」の埴谷雄高や安部公房などと一緒の同人で、亀島先生ご自身も作家でした。授業は面白かったです。部活は文芸部でしたから強く感じます。

 角田 わたしも桜井さんと同じ文芸部。今の仕事に就いたのも多少なりとも関係あるかな。

 桜井 前橋商店街に広告を取りに行ったことがありまして。

 角田 私も行きました。小冊子を発刊するためですよね。

 桜井 ええ。『桑弓』という文芸誌を発刊していましたね。

 角田 群馬は養蚕が盛んで、桑がいっぱいあると。そこから名付けられた誌名ですよね。それと、わたしが文化くらし報道センター長を務めていたとき、日本学者のドナルド・キーンさんと親しくさせてもらったのですが、キーンさんの師である角田柳作という日本文化の研究者が、わたしと同じ渋川の出身で、しかも旧制前橋中学校を経て早稲田大学に進学していた縁に驚きました。

 吉澤 渋川市内の敷島にある公民館に行ったらキーンさんの写真が飾ってありましたよ。

 角田 そうでしたか。キーンさんの言葉でよく覚えているのは、日米が戦争をしているとき、自分は角田先生から教わって磨いた日本語を、もっと自由のため、米国のために生かそうと。だから、日本人を一生懸命研究していたようです。一方で、当時の日本は英語も話してはならないと閉ざしていましたからね。

 ー 米国は日本のことを徹底的に調べていたのですね。さて、マエタカ卒業後、皆さんはそれぞれの道を歩みました。

 桜井 わたしはあまり志のある人間ではなかったんです(笑)。東京大学法学部に進んだのも、あまり理数系が得意ではなかったから。それでも、幸い郵政省(当時、現総務省)の情報通信という非常に目まぐるしく技術革新が進む分野で仕事をすることができ、行政としてもその変化に対応する仕事が求められましたので、結果的には面白かったです。

 ー 吉澤さんは岩手大学工学部卒業後、日本電信電話公社(現NTT)への入社ですね。

 吉澤 ええ。その点、マエタカの校訓「質実剛健 気宇雄大」という思想が影響しているように感じます。質実剛健は他の学校でもあると思うのですが、気宇雄大が、すごくいい言葉だなと思っていました。

「気宇雄大」を意味する赤城山

 ー あえて「気宇壮大」ではなく「気宇雄大」としているのですね。

 吉澤 よく分からないのですが、雄大はマエタカからの景色が雄大だからではないでしょうか。また、壮大は暗黙の心を指しますが、雄大ですと、志といった、どこかスケールが大きなものを指し、自由闊達や自立自主のイメージを強く感じます。ですから校訓は覚えています。

 社長だった2018年、マエタカの開学記念日の式典で高校にお邪魔して講演したのですが、学生たちには世の中を広く知るためにも「外とのコミュニケーションが大事ですよ」と言った記憶があります。その意味では、社会に出てからも、物事を深く見ることも大事ですが、視野を広くして全体を眺め、柔軟かつ寛大に物事を見る目を養うことができたのかもしれません。

 桜井 あまりウジウジと物事を考えないというのは、マエタカの学生の共通点かも知れません。わたしもそうでした。

 角田 同感です。あまりクヨクヨしない人が多いですよね。

 ー たとえアゲインストの風が吹いても逃げたりしない気風ですね。角田さんはジャーナリズムの世界に入ったわけですが。

 角田 もともとメディアに関心がありました。ただ、わたしも桜井さんと同じように、やや偶然なところがありまして(笑)。商社や銀行など大きな会社で世界を舞台にした仕事に就こうかなと思って、銀行のOBを訪問し、昼食を御馳走になっていたのですが、小型モニターに映し出された為替を見ながら、そのOBは電話で「(取引を)ダンして」と売り買いしていました。

 それで「ちょっと違うかな」と感じましてね。どうしようかと思っていたときに、タカタカの親友から「角田、一緒に受けに行ってみない?」と誘われたのが朝日新聞社だったのです。

 吉澤 わたしが高校を卒業する前後、朝日新聞の論説委員だった入江徳郎さんが講演にこられたんです。何をお話されたのか、あまり記憶が残っていないのですが、「天声人語」などについて、とても分かりやすく話してくれたことを今でも覚えています。ジャーナリストに対して親しみを感じましたよ。

 ー 先ほど吉澤さんが指摘されたビジュアルな視点での雄大さを表しているということですね。角田さんの代では、どのような進路に進む学生が多かったのですか。

 角田 わたしの同級生では、数十人単位で群馬大学医学部など医学部に進学していましたね。

 吉澤 前橋は医師の数が割と多いんですよね。わたしは3年生のとき、理系のクラスでしたが、45人のうち10人は医者になっています。

 桜井 おそらく群馬大の医学部への進学を図っての転居が多かったからかもしれません。

若い世代へのメッセージ

 ー 話が尽きませんが、マエタカは空っ風に吹かれても前に進むというチャレンジ精神が根付いているように思います。それでは最後に皆さんから若い世代の方々へのメッセージをお願いします。

 桜井 AIの時代と言われ、かなりのことはAIができるようになりました。そうすると、最後に人間の価値や能力が、どこにあるのかと。わたし自身も明確な答えを持っているわけではありませんが、そういうことを突き詰めていただきたいと思います。それはコミュニケーション能力やクリエイティブな創造力を指すこともあるでしょう。

 そして、よく言われているように、人間の特性とも言える倫理観がこれからは大事になってきます。非常に変化が激しい世の中で、そういった本質を自分なりに掴む能力を磨いていってもらいたいと思いますね。

 ー 情報通信の分野で言えば、米国のGAFAM(グーグル、アップル、フェイスブック=メタ、アマゾン、マイクロソフト)などのプラットフォーマーが世界の経済を引っ張っています。なぜ日本にGAFAMが生まれないのか。日本には潜在力はありますか。

 桜井 因数分解をしていくと、必ずしも日本優位な所があるとは言い難い状況だと思います。ただ、GAFAMがなぜここまで成長したのかというと、やはりグローバルな視点でのビジネスの展開があると。日本の特性とは島国であることです。日本の強みとして伝統や観光などがありますが、他方で真にグローバル化を進めていかなければ、今後の成長は難しいのではないかという気がしますね。

 吉澤 桜井さんがおっしゃったように、今の若い人の本質を見極める能力はいかがなものなのか。今はインターネットで情報はほとんど調べられますし、先回りして様々な知識を得ることができるようになっています。ただ、自ら現地に行って自分の目で現物を見たり触ったりといったことまではしていません。

 わたしの最後の担任だった生物の小暮一郎先生は「植物であろうが、動物であろうが、現場を見に行かないと真実は分からない」といった趣旨のことをおっしゃっていました。それは今の時代も重要だと思うのです。

 また、GAFAMに関連する回答としては、やはり根源的な情熱のようなものを日本全体が戻さないといけない。1970年代は半導体に関して、ものすごく日本には情熱がありました。それが今はなくなってきています。企業も内部留保はかなり積み上げていますが、なかなか投資をしていない。もっと情熱を高め合いたいですね。

 角田 お二人の先輩のお話とも通底していますが、今はどこか人と比べることに力を注ぎ過ぎているように感じます。そうではなく、あなたはあなたなんだと。それを大人の社会が教育という育成期において相当強く指導していかなければならないのではないでしょうか。ネット社会は何でもすぐに比べられる便利な面も相当あるのですが、わたしは学ぶ時期にはむしろ「比べない力」をつけた方がいいのではないかと思うのです。

 デジタルネイティブと言われますが、遠くないうちにAIネイティブとなり、本物を知る、本物と出会う前にAIにさらされ、AIの世界のものを本当のものだと思ってしまう可能性も出てくるのではないかと思うのです。AIの利活用で世界はどんどんある意味、進化し続けるのでしょうが、この先、倫理や道徳こそが最も大事なものになっていくだろうと。

 そういう意味では、デジタルのバラバラな情報よりも、パッケージされた新聞の一覧性があって、セレンディピティ(偶然の出会い)あふれる情報を伝えていく、知を統合する力をつけられる、という新聞ならではの役割が増すと思っています。

 ー それぞれから重要なメッセージをいただきました。ありがとうございました。