「うちはどちらかと言うと、小売業ではなくて商品をつくる会社なんです」と似鳥昭雄氏。『ニトリ』を家具・インテリア業界で国内トップ、世界ではイケア(スウェーデン)に次ぐ2位の座に育て上げた似鳥氏の目標はあくまでも世界ー。1944年(昭和19年)生まれの氏は23歳で起業。最初は夫婦2人で家具販売から出発。「お客様のために」という発想を基本に、まず仕入れに工夫を重ね、自ら商品開発し、製造も行うという”インソーシング”で変革に変革を重ねて生きてきた。チェーン展開を行う流通(小売)業では、SPA(製造小売業)に注力する所も少なくないが、似鳥氏は商品の企画・開発から生産、物流そして販売と一気通貫の仕組みを創り上げた。自分たちの経営形態について、『製造物流IT小売業』と位置付ける。扱う商品も家具、日用品・雑貨、家電、さらには健康関連に広がる。グローバル化が進み、世界の政治・経済の環境変化が激しい今、似鳥氏はどう対応していくのか─。
「何事も諦めない」精神で
「何事も諦めない、執念を持って考えた事を成し遂げる。これが大事だと思うんです」
創業(1967年=昭和42年)から57年経った今、似鳥昭雄氏はこう語り、若い世代にも「ビジョンを持って行動していくことが大切」と訴える。
家具・インテリア業界で国内トップのニトリホールディングスの創業者であり、会長の似鳥昭雄氏は、1944年(昭和19年)3月生まれの80歳。
23歳で起業し、今日のニトリを創り上げた似鳥氏は、「世界一を目指す」と意気軒高だ。
札幌市で約30坪(約99平方メートル)の家具店『似鳥家具店』を興したのは23歳の時。結婚したばかりで、夫婦2人で力を合わせての開業であった。
「僕は口下手でね。開放的で性格の明るい女房が店の営業を引き受けてくれて、僕は商品の仕入れに精を出していました」
時は1967年(昭和42年)で、日本は高度成長の真っ只中。販売競争の激しい中で、同業との違いを出すにはどうすればいいかを似鳥氏は考えた。
それは、卸問屋から商品を仕入れるのではなく、直接産地へ赴き、産地で買い付け、少しでも安い値段で消費者に商品を届けようというものであった。
しかしながら、既存の流通慣習とは違う新しい手法は、既存勢力から多くの反発を受けることとなる。中でも、卸売業界からは相当な"圧力"をかけられた。
「ニトリには売るな」という"圧力"が卸売業界から道内の家具メーカーにかかった。似鳥氏は津軽海峡を渡り、青森など東北の産地に仕入先を求めた。
「仕方なしに青森に行きましたが、そこも圧力がかかり、次は群馬や茨城など関東周辺の木工センターや新潟などにも出かけて行きましたね」
関東や新潟のメーカーからの仕入れが難しくなると、浜松(静岡)や和歌山、さらには広島・府中地区へと、似鳥氏は新天地を求めていった。
卸売業界からの圧力は続いた。それでさらに西へ、ついには関門海峡を渡り、九州の家具産地で知られる大川(福岡)に仕入先を移した。
しかし、九州まで卸売業界の圧力が及び、ついに"万事休す"という状況に追い込まれた。
「ああ、これで終わりかと思っていたら、ニューヨークのプラザホテルで日米通貨をめぐるプラザ合意が行われたんです」と似鳥氏。
プラザ合意ー。1985年(昭和60年)当時、日本は経済で急速に成長し、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(ハーバード大教授エズラ・ボーゲル著、1979年刊)といった著作が出されるなど、世界における日本の存在感が高まっていった。
それは円とドルの為替議論にまで発展。米政府は「円は余りにも安すぎる」と日本に圧力をかけ、為替相場を円高・ドル安へ導こうとしたのが『プラザ合意』である。
この合意は、先進5カ国(日、米、英、独、仏)の蔵相会議という形で行われた。基軸通貨・ドルに対して、参加各国が自国通貨を10~12%の幅で切り上げるため、外国為替市場で協調介入を行うというものであった。
これにより円高局面を迎えた日本は、海外への輸出で大変な痛手を被ることとなった。円高苦境が言われている時に、逆の発想をしたのが似鳥氏。
円高は本来、通貨面で日本の国力が高まったことを意味する。当座は円高で日本からの輸出は不利になるが、中長期視点に立てば、国力の強さを生かす方途があるはずだーというのが似鳥氏の視点であった。
海外で生産した商品を仕入れ、日本国内に輸入するというビジネスモデルであれば、円高で仕入れコストも下げられ、消費者に低価格で商品を提供できると似鳥氏は考えたのである。
『製造物流IT小売業』で
海外の生産者からモノを購買し、日本の消費者に届けるというビジネスモデルは円高局面で優位に働く。海外に生産拠点をつくり、そこで製造した商品を日本国内で販売すれば、さらに円高メリットを活かせる。
そこで似鳥氏は、インドネシアやベトナムに生産拠点を設け、自らメーカー機能を持つビジネスモデルへと転換(その後、インドネシア工場は閉鎖)。
リテール(小売業)分野では、SPA(製造小売業)の形態で成功した企業が少なくない。『ユニクロ』のファーストリテイリングもSPAの代表企業の1つ。
似鳥氏は、自らが創り上げた事業形態について、「うちは『製造物流IT小売業』です。SPAとは違います」と語る。
「うちは、どちらかと言うと、小売業ではなくて、商品をつくる会社です。お客様が求めている商品を企画して、つくっている」(後のインタビュー欄参照)。
自ら商品を企画・開発し、直営工場で生産。それに加えて、外部のサプライヤーからも商品を調達する。日本内外にある多くの生産拠点で大量に商品を製造してコストを下げ、1000店舗を誇る世界中にある店舗で大量に商品を販売するという事業形態(ビジネスモデル)だ。
「ユニクロさんもSPAをやられていますが、例えば、自社工場がないですよね」
似鳥氏は、ユニクロのSPA方式とは違って、「ユニクロさんはいろいろな商社さんと関係がありますが、うちは商社は一社も絡まない。うち自身が商社機能を持ち、物流センターも持っている」と語る。
また、家具・インテリアで世界一のイケア(スウェーデン)と比較しても、「イケアとも違います」と似鳥氏。
似鳥氏が自らを『製造物流IT小売業』と呼ぶ背景には、「製造機能から物流機能、さらにDX(デジタルトランスフォーメーション)を通じて経営効率、つまり生産性を上げて、お客様のニーズに合う商品をリーズナブルな値段で提供していこう」という思いがある。
逆境を生き抜くには ロマンとビジョンが…
「こういう形態でやっているのは世界中でうちだけです」と似鳥氏は語り、次のように続ける。
「最初から、こういうカタチでやろうと思っていたわけではないんです」と断りつつ、「(商品価格)を安くするとか、品質機能を上げてもっとお客様に喜んでもらうようにしていくと。いろいろな会社に頼んでいるのを自社でやれば、もっと楽に早く安くなるというということで、どんどん自社化していった」
それまでの経営のやり方と違うことをやってきたから、「今があると思っています」という似鳥氏の思いである。
もっとも、似鳥氏が順風満帆でここまで来たというわけではない。冒頭記したように、起業当初は卸売から圧力を受けた。
「やっぱり諦めないと。執念です。何が何でもという執念があるのと無いのとで違う」
似鳥氏は「諦めないことが大事」と経営の要諦を語り、「その執念が続くのには、経営にロマンとビジョンがなければいけないと思います」と強調する。
氏の言うロマンとビジョンはどういったものなのか?
まず30年後の目標を設定
「なんで成功しましたか? と聞かれるんですが、僕もサラリーマンの時は何も考えていなかったけれども、(起業して間もなく)アメリカの先進的な流通の実態を見て、日本の国民の暮らしはもっと良くできるはずと思ったんです」と起業当時を振り返る。
似鳥氏の経営の特徴は、まず中長期視点に立つということ。若い時に『今後30年間のビジョン』を掲げ、それを果敢に実行してきたというところにある。
「最初に30年間のビジョンを掲げ、それを実行するためには、初めの10年間で10店舗作って、売上高50億円を達成するとかね。成長には人材が欠かせないから、人材教育も必要だと」
最初の10年間で、人材育成のための資金をつくり出し、次の10年で流通の先進地・米国で自分たちがやるべき事を学ばせるという教育計画。
「その人たちを10~20年かけて育てて、日本で初めてのもの、世界で初めてのものを生み出させようと。20年がかりで人材の教育計画をつくってきました」 商品の企画・開発はもとより、製造、物流・商社機能をこなし、販売までの一気通貫を行う『製造物流IT小売業』を構築できたのも、こうした中長期をにらんだビジョンがあったからだと言えよう。
同社の店舗成長の足取りを見ると、10店舗を達成したのが1981年(昭和56年)で、起業から14年を要した。そして30店舗にまで拡大するのに約25年。
一言に店舗拡大と言っても、そう簡単に実現できるものではない。試行錯誤を繰り返しながら、品質の良いものをリーズナブルな価格でという着実な経営路線を追求し、日本内外合わせて1031店舗を達成(国内831店舗、海外200店舗。2024年9月現在)。
この間に取り扱う商品群も増え、家具・インテリアだけでなく、日用品雑貨や家電なども扱うようになった。またホームセンター大手の島忠を傘下に入れるなど、M&A(合併・買収)も進めてきた。
国内のグループ店舗も"ニトリ"、"デコホーム"、"ニトリEXPRESS"、"N+(Nプラス)"、"島忠"と多様化。
目下、家具、雑貨に次ぐ第3の柱として家電を育成中。また、島忠はPB(プライベートブランド)商品の開発を積極的に進めるなど、新しく陣営に加わったグループ企業が自主性・主体性を発揮できるような経営の仕組みを模索している。
企業の成長・拡大を担うのはやはり『人』である。同社の従業員1人当たりの年間教育投資額は31万円。これは上場企業平均の5倍以上の数値である。
同社が、"失われた30年"と言われる低迷期にも成長してきた背景には、中長期視点で人材育成をしてきたことがある。
「店舗が100店舗から200店舗になるまで6年かかりました。今は1年で100店舗増えています。今後は年150店舗増やしたいと。今後10年で年間300店舗増を目指します」
似鳥氏が続ける。
「人がいれば、こうしたビジョンや計画は達成できます。海外を含めてね。20年かけてスペシャリストを育ててきたし、多数精鋭のプロ集団ができたと思っています」
就職人気ランキングで ニトリが前年に続き1位
同社は、コロナ禍期間中の2022年に決算期を変更。それまでの2月決算を3月期に変更した。
2022年2月期の売上高は約8115億円(営業利益1382億円)だったのが、2023年3月期は売上高約9480億円(同1400億円)となった。
2024年3月期は売上高約8957億円(同1277億円)と"減収減益"となっている。2025年3月期は売上高約9600億円(同1296億円)を見込む。
2024年11月上旬の株式時価総額は約2兆100億円。市場評価を見るPER(株価収益率)は21・60倍。通常、PERは17~18倍であれば好評価と見なされるので、この数字は市場から高い評価を受けているということ。
PBR(株価純資産倍率)は2・12倍。株価が企業の解散価格の何倍かを見るPBRの価値基準は1倍とされる(1倍を割れば、事業を継続するよりも解散したほうがいいと判断される)。
同社のROE(株主資本利益率)は10・09%。ROEは、企業がどの程度効率よくお金を稼いでいるかを見る指標で、これまでは8%が"よく稼ぐ"と"稼いでいない"の分岐点とされてきたが、最近は10%程度に引き上げられている。
また、同社の自己資本比率は76・6%という水準で、今後攻めの経営を進める上で、財務体質も健全に保っていると言えよう。
今、日本全体で人手不足が共通の課題。そうした状況にあって、若い世代に"ニトリ"はどう受け止められているのか?
2025年春に大学を卒業する人を対象にした『マイナビ・日経就職人気企業ランキング(文系、2024年4月発表)では、前年に続きニトリが1位(1400票)を獲得。2位はみずほフィナンシャルグループ(766票、前年順位は15位)、3位伊藤忠商事(753票、同5位)、4位三菱UFJ銀行(690票、同6位)、5位味の素(675票、同7位)、6位東京海上日動火災保険(615票、同2位)といった順位。
2024年度のニトリグループの新入社員数は983人(ニトリ895人、島忠41人、ニトリホームロジ37人、ニトリパブリック8人、ランニングチーム2人)。前年は計636人の採用だったので、人手不足が続く中、"攻め"の採用が続く。
『労働生産性』を いかにして上げるか
「国民生活が向上することに、お役に立ちたい」ー。ニトリグループの存在意義は『国民生活向上』にあると似鳥氏は語る。
企業当初は夫婦2人での家具店経営。それこそ裸一貫でスタートし、必死に生き抜くことを考え、働いてきた。起業後間もなく、似鳥氏は流通の先進地・米国に視察に赴き、流通革新が進んでいる様を目の当たりにし、衝撃を受ける。
モノが生産者から最終消費者に渡るまでの流通過程で、生産性を上げること、これこそが流通を担う者の使命であり課題であるとことを似鳥氏は米国視察で見抜いた。
生産性の向上ー。これを追求し、モノの値段を下げ、国民(消費者)の実質賃金を上げることが"豊かな生活"を実現することになるという氏の思い。これは起業以来、似鳥氏が持ち続ける経営理念であり哲学だ。 生産性を引き上げることに、日本(日本企業)はもっと努力すべきだということ。
「1人当たり労働生産性でいえば、日本は830万円です。アメリカは1500万円と日本の倍なんですよ」
労働生産性が高ければ、賃金を引き上げられる余地が生まれる。生産性を上げるには、産業構造を変革し、効率のいい仕組み、つまり生産性の高い仕組みにしていかないといけない。
その観点で、氏は"インソーシングの経営の仕組み"を追求。
「アウトソーシングすると、安くならないんです。メーカー機能から物流、販売までをインソーシングにして、粗利を高く取れるような仕組みづくりをやってきた。普通、小売業は粗利が3割、4割しか取れないのを、うちは5割以上です。その分、前向き投資や成長もできます」
前向きな投資と成長は、家具・インテリア、雑貨類の領域で現在世界2位の座にあるニトリが、首位のイケアを抜いて、世界一になるという氏のロマンでありビジョンである。
渥美俊一氏との出会い
似鳥氏がこうしたビジョンを持つようになったきっかけは、流通革命の〝伝道師〟と言われた渥美俊一氏(1926ー2010)との出会いであった。
今でも、似鳥氏は起業家人生57年の中で、「一番尊敬する人は誰か?」と聞かれると、「渥美俊一先生です」と即答する。
渥美俊一。東京大学を卒業後に一時期、読売新聞記者となり、同社を退社後、1960年代、70年代において、日本の流通革新運動を引き起こした人物。特に米国の流通革新に注目し、チェーンストア理論を説き、時の流通業界のリーダーであった中内㓛(ダイエー創業者)、岡田卓也(ジャスコ=現イオングループ創業者)、伊藤雅俊(イトーヨーカ堂=現セブン&アイグループ創業者)などにも大きな影響を与えた。
若き日に渥美氏と出会った時のことを振り返りながら、似鳥氏が語る。
「初めて、チェーンストア理論を聞いて、目からウロコで、この先生の教えを受ければ日本一、世界一になれるって直感したんですね。その後、みんな離れて行っても、わたしだけは先生が亡くなるまで一緒でした。毎年一企業だけ、毎月1回、5時間位研修してくださったんですよ。これが20年位続いた。これで、うちの幹部が育ったんですよ」
アメリカで研修する社員教育は1981年(昭和56年)からずっと続けられ、2023年までに延べ1万4000人以上が参加(コロナ禍の期間は中止し、2022年秋から再開)している。
不透明な時代にあって
今は、いつ何が起きるか分からない不透明な時代。例えば、通貨にしても、米大統領の発言一つで、振り幅が大きくなる。
1985年のプラザ合意、もっと正確にはニクソン・ショック(1971年)以来、円は対米ドルで切り上げ、つまり円高方向で動いてきた。円高は日本の輸出に打撃を与え、雇用にも影響を及ぼした。
その中で、似鳥氏は円高に強い経営の仕組みを開拓。経営コストを下げ、商品を安く消費者に届けるというニトリ流の仕組みを創り上げた。
しかし今は円安と逆の状況が続く。円安は輸入価格を押し上げ、ニトリ流の仕組みには逆風だ。このような環境で、今後の成長をどう図るのか?
「今は店舗も増え、販売数量増で売上をカバーしています」と増収増益を図るが、1ドル=150円台という円安がニトリにとって逆風であるのは間違いない。適正な相場についてはどう見るのかー。
「わたしは対ドルで130円から135円位だと見ています」
いずれにせよ、国民生活の安定、ひいては豊かさをどう求めていくのかという命題。
「今の景気で、政府は毎年10兆円、20兆円と経済活性化の補正予算を組んで、補助金を出しているじゃないですか。それよりも物価を下げて、実質賃金を上げて、実質収入が多くなる。じゃあ買い物をしようかという流れが正しいんじゃないかと思います。政府の方針は見直すべきではないかと思うんですよね」
国民の暮らしの向上へー。
「今までやったことを否定して、新しい道を創って、また創って壊していくと。死なない限り、この道は続きます」と似鳥氏。
変革の道はまだまだ続く。