東京電力(現東京電力ホールディングス)で社長・会長を務めた勝俣恒久さん(1940年=昭和15年3月生まれ)が亡くなった。84歳だった。
「代替エネルギー源の問題は意識しておかねばならない。原子力発電の必要性は増すと思います」(本誌2004年7月20日号)
しかし、2011年3月11日の東日本大震災で、東電福島第一原子力発電所が津波による被害を受けて以来、一身に事故の責任を負う身となった。かつては電力エネルギーの盟主・東電の〝かみそり男〟として、一目置かれた存在だったが、この日を境に人生は暗転。以来、旧経営陣の最高責任者として、福島第一原発事故の責任が問われる訴訟で、被告の立場となった。
無資源国・日本はエネルギーを賄うため、1970年代初め、原子力の時代を迎え、東電は原子力導入のリーダーでもあった。しかし、大震災で大津波を被り、以後、心労の日々が続いた。
当時、勝俣さんは会長職にあり、社長は清水正孝氏がつとめていたが、事故処理にあたった清水氏も体調を崩し、経営の第一線を外れた。それから勝俣さんが陣頭指揮にあたり、当面の事故対応が収束した2013年に会長を退き、同時に経営の第一線からも身を引いた。
東電の福島第一原発事故は、いろいろな教訓を与えている。
日本には原発運営で2つのモデルがある。1つは東電などが導入しているBWR(沸騰水型軽水炉)、もう1つはPWR(加圧水型軽水炉)で、前者は東日本、後者は西日本の電力会社が採用。関西電力など、西日本のPWRはいちはやく再稼働し、重要な電力供給を担っている。
一方、東日本のBWRはようやく今年10月、東北電力・女川原発が再稼働にこぎつけたということ。東電の柏崎刈羽原発(新潟県)も運転再開が期待されるが、地元の同意を得られないままでいる。
東日本でも運命を分けたのは、津波から原発を守るための高さをどう確保するかにあった。東北電力・女川原発(宮城県)は過去の歴史を紐とき、貞観地震(869年)で11メートルの被害を受けたことに着目した当時の副社長(技術畑)が、高さを1メートル上回る場所に原発を設置。
一方、東電・福島原発は6メートルという高さで、大津波の襲来をまともに受けてしまった。東日本の原発は米GEからの技術導入で進められた。米国では津波が少なく、原発の中枢部分は地下にあり、津波を想定するレイアウトではなかった。日本は海外から新技術を導入する場合の教訓として、この事実を受け継いでいかなければならない。
東電は財界の中枢企業として動いてきた。高度成長期には木川田一隆氏(元経済同友会代表幹事)という論客を生み出し、1990年代には平岩外四氏が経団連会長に就任するなど、華やかな陣容であった。
東電企画畑を歩き、将来を嘱望され、社長・会長になった勝俣さんだが、〝運命の日〟を迎えて、経営者人生も暗転。『原子力は日本にとって必要悪』という命題の重さを一身に引き受けることとなった。
ご冥福をお祈りしたい。