60年間あたためていた映画を書いて、やっと封切りにこぎつけた。『海の沈黙』という作品である。
60年程前、大きく騒がれた贋作事件があった。覚えておられる方もいらっしゃるかもしれない。それは「永仁の壺事件」というもので、永仁時代に造られて重要文化財に指定されていた一ケの壺が実は加藤唐九郎という現存の作家の作品で、本人もそれを認めたことから文化財指定が取り消され、大騒ぎになったという事件である。
壺は上野の美術館から姿を消した。昨日まで高く評価されていた美術品が永仁時代のものでないと判ったことで、一挙に評価されなくなる。美とは一体何なのか。ラジオ局にいた僕はこの事件を野上龍雄さんというシナリオライターに頼んで一篇のラジオドラマにした。『永仁の壺異聞』という作品である。その作品のテーマが以来、頭から離れなくてずっと心に温めていた。
世に贋作というものは後を絶たない。有名なところでは、ベルトラッキやマーク・ランディスという贋作家がいる。一枚の絵が評論家のお墨付きを得ると、何億、何十億円の価値をもってしまうのだから絵描きは贋作に挑みたくなる。かくして贋作家はピカソやフェルメールの作品を模し、その絵の出所来歴まで捏造して評論家・鑑定家までだますのである。
僕が興味を持ったのは、そうして世に出て高い評価を得た一枚の絵が、贋作と判った途端、全くその価値を失うところである。昨日までその美しさに魅了され、何十億円で取引されていたものが、偽物と判った途端、その価値を失う。世の美術愛好家の審美眼というものは、「美」というものは那辺にありやと思うのである。
今一つ心に残ったのは、昔、TBSで放映された中川一政画伯のドキュメントである。氏の世に出たきっかけとなった真鶴の漁村を描いた一枚の絵である。その絵が昔、彼の師であった岡本一平画伯の絵を塗りつぶし、その上に描いたものらしいという噂を知った氏の御長男がその絵をレントゲンで透写する。すると、その絵の下から全く別の、かつて一平氏の描いた大髻(たぶさ)の女の絵が浮き上がるのである。
御長男は中川氏に質問する。今お父さんに猛烈な創意が湧き、そばにピカソの絵しかなかったなら、父さんはその絵を塗りつぶして、その上に自分の絵を描きますか? 画伯はその時、平然と答える。描くかもしれんなぁ。長男氏は再び父上に問う。では今一人の、キャンバスを買う金もない貧しい画学生がいて、猛烈な創意が湧き上がり、そばに父さんの絵があったら、それを塗りつぶして、その上に彼の絵を描くことを許しますか。
すると画伯は一寸考え、しばらくしてポツンと一言述べられる。
仕方ないだろう。キャンバスがないンだろう?
この問答が心に残り、『海の沈黙』というシナリオを書いた。