企業経営者は、生産性が上がらなければ、賃金を上げられないと繰り返す。確かに生産性向上は大事だ。ただ、過去四半世紀で、日本の時間当たり生産性は30%上昇する一方、時間当たり実質賃金は横ばいのままだ。生産性が上がっても、実質賃金が上がっていないのが実態なのである。
他国はどうか。米国は1998年末以降、2023年までに時間当たり労働生産性は50%上昇、実質賃金は25%上昇した。米国ほど生産性を高めれば、日本も実質賃金が上がるはずだから、成長戦略に注力すべきだろうか。ただ、その間、欧州の生産性は、ドイツが25%、フランスが20%上昇と日本に劣るが、実質賃金はフランスが20%台と米国に肉薄し、ドイツは米仏には及ばないが15%弱と、全く増えなかった日本とは大きく異なる。
米国経済学会のスーパースターであるダロン・アセモグル(日本時間10月14日にノーベル経済学賞を受賞)らは、13年に出版した『なぜ国家は衰退するのか』で、様々な歴史的事例から、衰退国家と繁栄国家の大きな違いを明らかにした。衰退国家は収奪的で、一部の社会エリートが富を独占し、繁栄国家は包摂的で、幅広い人々が政治プロセスに参加して、権力が分散され、自由競争と技術革新が奨励され、豊かさを分かち合う。
アセモグルらが懸念したのは、権威主義国家の中国の行く末だけではなく、米国でも富が一部の人に集中し、金権政治がまかり通って、収奪的社会へシフトしていることだった。灯台下暗し。かつて包摂的だった日本はいつの間にか、収奪的社会にシフトしているのではないか。
一世代前に比べ家計の実質所得が全く増えていないのは、近代以降の先進国では、極めて異例だ。これが「安い日本」の原因であり、「貧しくなった日本人」の実相だ。日本のエリートは、長期雇用制の下、昇格、昇給を繰り返しているから、経済的に豊かになったと誤認し、問題の深刻さに気づいていない。
90年代末に130兆円だった企業の利益剰余金は、アベノミクス開始直前に300兆円超まで増加し、23年度には600兆円の大台に乗せた。この間、人件費は概ね横ばいだ。国内投資が増えないのも、実質賃金が増えず、個人消費が増えないため、国内の売り上げが増えず、企業の採算が取れないからだ。典型的な「合成の誤謬」である。
筆者は、儲かっても溜め込んで賃上げと人的投資に消極的な日本の大企業が長期停滞の元凶と長く主張してきた。近年、企業は海外投資を大きく増やしているが、その稼ぎは、国内の家計所得や設備投資の増加につながっていない。高い賃上げが始まったと言っても、実質賃金はようやく下げ止まってきたところだ。
ポスト岸田は未完に終わった所得分配の歪みに手を付けるべきだ。生産性が上がっていないから、実質賃金を上げられないというのは事実誤認だ。収奪的な社会に陥れば、成長が益々遠のく。