「お茶一筋の充実した60年でした」─。1964年(昭和39年)第一回東京五輪が開かれた年に兄・本庄正則氏とともに創業。早稲田大学卒業後、兄とともに日用品を扱う日本ファミリーサービスを創り、その後フロンティア製茶、伊藤園に社名変更。お茶は急須で淹れるという常識の中、ティーバッグの緑茶や缶入りのウーロン茶、そして缶入りの緑茶を相次ぎ開発したが、その開発には様々な苦労がまとわりついた。試行錯誤の結果、お茶の様々な飲み方を提案し、時代に合った商品を浸透させてきた。今年5月名誉会長に退いた本庄八郎氏の創業60周年を迎えた心境は─。
大谷翔平選手がグローバルアンバサダーに
─ 最近ロサンゼルス・ドジャース・大谷翔平選手を「お~いお茶」のグローバルアンバサダーに選ばれましたが、これは世界の若者がお茶に親しんでもらうという狙いもありますか。
本庄 ええ。国内のみならず、海外での販売促進を加速する第一歩としてお願いしました。国内でも日本中から大谷選手に熱狂的注目が集まっていますからね。
大谷選手は体つきもよく、性格もストイックで、生活態度が凄いですよね。野球に人生懸けていますよね。そして、人格者でもあり、多くの方が尊敬していると思います。
大谷選手とはもともとご縁がありましてね。大谷選手は日本に居た時から「お~いお茶」をよく飲んでおられたようです。エンジェルスに入ってからも「お~いお茶」を手にしている様子を何度かお見かけすることがありました。それがご縁の発端です。正式にオファーをしたところ、ご了承いただいたという流れです。
─ 広告の反響はどうですか。
本庄 もの凄いです。これからもっとたくさんの広告を打っていく予定です。まずは日本国内を中心に野球が盛んな海外でも積極的に広告や販売促進を展開する予定です。海外においては、まずは「お~いお茶」は日本で一番売れている緑茶飲料ブランドであり、健康的な飲料であることを知っていただきたいと思っています。
海外開拓を推進
─ いま売上の海外比率はどれぐらいですか。
本庄 12%です。中期計画ではこれをさらに伸長させて、20%にしていきたいと思っています。緑茶文化は海外でもだいぶ根付いてきました。アメリカ市場は順調であり、近年は、東南アジアでも無糖の緑茶飲料の需要が増えてきており今後の展開が楽しみです。
─ お茶というと、昔から中国との縁が深いですよね。いま日中関係は非常に微妙な状態ですが、これをつなぐのも経済の役割です。中国との関係はどう進めていきますか。
本庄 そうですね。中国市場はあまり急がずに様子を見ながら進めていければと思っています。
わたしたちが始めた缶入りウーロン茶が先に日本で流行りましてね。それで、北京や上海に持って行ったのですが、現地の中国人にこれは日本のものかと聞かれました。中国大陸は広大で実に大きいものです。そのため北京の人が、南の福建省のウーロン茶というものを知らなかったんです。
わたしが40数年前、初めてウーロン茶を飲んだ場所は日本でした。ある茶道家が常茶というものがいいと書いた新聞記事を読んだわたしは、面白いなと思ってその方に会いに行ったんです。
そこで常茶の話をして最後の別れ際に、これ一杯飲んでいってくださいと飲ませてもらったお茶が衝撃的に美味しかったんです。これなんですかと。そのときウーロン茶というんだと教えてもらって、中国まで買いに行ったんです。
─ それでウーロン茶葉の産地・福建に行ったんですね。
本庄 翌年に行きました。当時中国は空路もそんなに整備されてなくて、なかなかすぐには現地に行けませんでした。
─ まだまだ中国では人民服を着ていた時代ですよね。
本庄 はい。中国に行ってもホテルから街に出られないんですよ。泊まるホテルも国営で決められていました。当時香港から福州市にたどり着くのも3日かかりました。田舎の道なき道を進むという感じでした。そうやって福建省の奥に入ったあと、そこで今度は一カ月半ぐらい留め置かれることになった。帰りの交通手段が見つからなかったんです。
しかしそういう苦労があったからこそ大きな感動もありました。そこには雄大な自然が広がっていて、その景色は最高でしたね。
─ 苦労してウーロン茶畑にたどり着いた甲斐がありましたね。
本庄 はい。お茶が採れる時期に、現地での働き方から採るところから作るところまで、全部見せてもらいました。日本の緑茶とはちょっと作り方が違っていました。
ある日、お茶を神様に捧げる催しがあるので行ったんです。神様に捧げるお茶の儀式ですから緊張して行きましたが、なかなか始まらなかったんですね。遅れてやっと始まったと思ったら、人々が大きなアルミニウムの茶瓶でお茶を淹れてコップに注いで集まった人のところに回っていくんです。
─ それは今年採れたお茶を皆で飲むという儀式ですか。
本庄 ええ。その時の印象は強烈に今でも残っています。とにかくウーロン茶の美味しさに魅せられましたね。これを日本に持って帰って、初めて缶にウーロン茶を入れたものを世に出したらヒットしたんです。
─ あの頃日本もバブル絶頂で金利や食の世界で新しいものに関心が向かう時期でしたね。
本庄 ええ。実際、ウーロン茶はクラブや社交の世界でも流行ったんです。そこで働く女性たちのアルコール疲れもあって、彼女たちが体に良いということでお酒ではなくウーロン茶を飲むようになったんです。ウーロン茶が銀座で急に評判が良くなって、クラブで一杯飲んだら何千円とつけられていた時代です(笑)。これも普及のきっかけとなりました。
─ しかし中国からの仕入れということもあって紆余曲折あったのではないですか。
本庄 ありました。当時、中国側も、これは特級だといいながら実際の中身は1級だったとかそういったことがあって。全部仕入れし直すという局面も経験しました。それで管理も厳しくやっていくようになりましたね。
─ そうしたことを体験しながら中国との関係はずっと続いてるわけですね。
本庄 ええ。日中間の貿易が急に増えましたから非常に感謝されまして、わたしは当時福州市の特別顧問にもなったり交流を続けてきましたね。
─ そうやって缶入りウーロン茶も開発し、日本国内では静岡や南九州のお茶の産地と提携して緑茶文化を広めてこられたわけですね。最近、東京・新橋に、「お~いお茶」の博物館を創られましたね。これを創設した背景を聞かせてくれませんか。
本庄 「お茶の文化創造博物館」と「お~いお茶ミュージアム」という2つの複合施設を新橋にオープンしました。「お茶の文化創造博物館」は、お茶の歴史をたどり、製法や飲み方の変化などお茶の文化をきちっと体系立てて学べる場となるように作りました。今までそういった施設を作ってなかったので、これをぜひ作りたいということで文化活動的な意味合いで始めました。また、「お~いお茶ミュージアム」では「お~いお茶」のテーマパークみたいなもので、遊びながら子どもたちが学べるようなところです。
─ 結構人は来てますか。
本庄 おかげさまで多くの方々にご来場いただいています。新橋駅からすぐですから、立地的にも良くて楽しめる施設になっています。
お茶文化の変遷
─ 伊藤園は創業から60年を経て、日本で最大のお茶メーカーになったわけですが、街中であるいはオフィスでも簡単にお茶が飲めるという文化をどうつくってきましたか。
本庄 日本のお茶の歴史には長いものがあります。最初は抹茶のようなものを飲んでいて、それが江戸時代になって煎茶になります。明治以降も煎茶が続きました。そういう茶の飲み方の伝統の中で、われわれが初めて缶に詰めた商品を出したということなんですね。
─ これが大変な革新でした。最初は抵抗もあったと思うんですが。
本庄 ええ。ありました。こんなのまずいとみんなに言われました。でもそのうちに、缶入りの商品を認めてもらえるようになりました。そして、家で淹れるお茶を飲んでいるようだと次第にうまいと言ってもらえるようになりました。
─ 必死で商品を磨いていた努力が認められたということですね。
本庄 はい。実際家で飲んだお茶とそんなに変わらない商品をつくる技術開発には相当苦労しました。その当時は「宵越しのお茶は飲むな」とも言われていました。翌日になると味も変わりますし、色も変わります。これをなんとか変化しないようにしていこうと。ついにその味や色が変わることを止める技術、これを突き止めたんです。
そこから営業が日本中を走り回るわけです。
─ そもそも、緑茶の開発前に発売した缶入りのウーロン茶において、本来、販売面でのライバル企業に作り方やノウハウを教えていったのはなぜですか。
本庄 うちはウーロン茶の輸入代理店として各社に原料を販売していたんです。サントリーのみならず、当時は味の素、キリン、アサヒ、いろいろな企業に原料のウーロン茶を売り込みました。
─ 大事に育て上げたウーロン茶ですが、そこは伊藤園独占で囲い込まずに、市場を大きくするために必要だったと。
本庄 はい。まだ需要を生み市場を作り出すときでしたから。みんな儲かればやりますから、そうやって新しい市場をつくってきたのです。
60年のお茶人生
─ これまで創業から60年、ご自分のお茶人生をどのように総括しますか。
本庄 お茶一筋の充実した60年でした。いまの日本人でお茶一筋にここまで懸けて来たのはいないのではないでしょうか。会社も立派になりまして、全てお茶のおかげだと感謝しています。
─ 本庄さんは茶道の裏千家にも関係されていますが肩書はいま何ですか。
本庄 いろいろ肩書を持っていますが、いまは老分と関東第一地区の地区長をやらせていただいています。
─ 難しい作法をいろいろ学ぶのは大変ですよね。
本庄 そうですね。とても大変でしたね(笑)。家元(千宗室氏)が若宗匠になったころぐらいから始めていますから、40年近く茶道には触れています。
─ それと、本庄さんは兄の正則さんと創業から一心同体で来られましたが、普通は兄弟だといろいろな意見の違いが出ます。本庄兄弟の場合、それはありませんでしたね。
本庄 わたしが意見を言っても、兄は抵抗しなかったからではないでしょうか(笑)。年齢が6歳離れていて小学校時分からの兄貴ですから。小学校1年生で向こうは中学生ですから世代も違いましたしね。
─ 6歳の違いがある意味で良かったと。
本庄 ええ。年齢差があると精神年齢も大きく違いますから。兄は財務面を中心に、わたしは営業を中心にやって役割分担も明確にやってきました。
ですから企業の組織はどうあるべきかといった問題についてはわたしのほうが兄よりはるかに詳しいです。それなりにわたしも勉強しましたからね。
そうやって創業から60年経ったわけですが、今度は次の世代に託そうと。それで、今年4月に取締役会で代表を降りると決意し宣言したんです。
─ この決断を下すのは創業者としてはいろいろ思うところがあったのではないですか。
本庄 確かにありましたが、これまでやってきたことを、次の世代にしっかりと引き継ぐということが何より大事。その引き継ぎをいまやっている最中です。
─ 創業者としてゼロからやってこられて、まさに万感の思いがあると思いますが…。
本庄 そうですね。個人的にやはり寂しさは感じます。しかし次の世代がこの創業からの思いをいかにつないでいってくれるか、真剣に考えてくれているとわたしは感じ取っています。
─ いま、日本全体で〝失われた30年〟で若者には元気がないとか言われますが、本庄さんはどう見ていますか。
本庄 いや、わたしは「失われた30年」というのは新聞記事を読んで初めて知ったんです。なんだそれは? と思っているんですよ。
─ それは周りの環境が良かろうが、悪かろうが自分たちがどう生き抜くかが大事だと。
本庄 はい。環境が悪かろうと伸ばす努力を必死でしてきた。〝失われた30年〟はまさにジャーナリズムがつくった言葉で、わたしはこれを見て驚いたくらいです。そう感じる余裕もないくらい生き抜いていくのに必死で走ってきましたから。
その〝失われた30年〟といわれる中を必死になって業績を伸ばしていると、時には叩かれたりいろいろ言われることにも直面しましたね。
─ そういうときはどう受け止めて乗り越えましたか。
本庄 わたしはあんまり気にしませんでしたね(笑)。正々堂々と我が道を歩くだけだと思ってきましたからね。