【倉本 聰:富良野風話】誹謗中傷

誹謗中傷というイヤな伝染病がはびこっている。SNSやツイッター(現X)やら文明の利器がどんどん増えて、それにあたかも比例するかのように性悪人間が一挙に増加し、放っとけばいいような些細なことを、さも一大事であるかのように情報網を使って世の中に喧伝する。それに飛びつく愚かな暇人が、我も我もと声をあげるから始末が悪い。

 世の中、余っ程暇人が多いのか、折角世にある情報網に自分の声を乗せねば損だと思いこんでいる馬鹿が増えたのか。いずれにしても、こうした風潮は、機械文明がかくも容易に愚者共の声を世間に拡めることに何の制約も定めないからで、このまま放置すればネットリンチは益々拡がり、日本人の性根はどんどん悪い方へ進んで行く。全く困ったものである。

 誤った正義感はどんどん暴走する。

 その誤った正義感でひそかに利を得ているものがいるとすれば、ネットの繁栄を喜んでいるプラットフォームの施設業者と影でそれを支える電力会社だろう。更にはそうした誹謗中傷を野放しにして取り締まろうとしない、教育現場・社会の仕組みだろうか。

 元々こうした賤しさの起源は、人の悪口で好奇心をそそる三流週刊誌のやり口が元であろうと思うのだが、今や日本人はそうした賤しいやり口に馴れ、中年層はおろか、若年層までそれを何とも思わなくなってしまった。今更戦後の修身教育の廃止、倫理教育の不足を持ち出しても笑われるのがオチだろうが、たとえば、あまり見本として頼りにならない、アメリカ、他の諸外国の若者教育の実態を見ても、彼らには家庭を舞台にした宗教教育があり、更には軍隊という怖ろしい規律教育の下地がある。戦後の日本は自由と民主主義の誤解の中で、こうした根源的教育を諦めてしまった、という気がする。

 たとえば終戦記念日に、主要閣僚が揃って靖国神社に参拝するが、一方で国の政治資金を平気でふところにして悔いるところがない。九州・知覧の特攻記念館に残る特攻犠牲者のあの澄み切った笑顔を見るとき、閣僚たちは一体何を思うのだろうか、と毎年忸怩たる気分に苛まれるのである。

 世の中すっかり変わってしまい、日本人の心も変わってしまった。

 あの敗戦から80年近く。

 科学は著しく進歩を遂げ、我々の暮らしはがらっと変わった。何でも手に入り、将に我が世の春を謳歌している。しかし一方、我々はその空しい豊饒の中で、暇をもてあそび、何か暇つぶしがないかと考え、人の悪口を言うことを思いつく。自分が偉い人になったように錯覚し、正義の戦士になったかのように思い込み、人の欠陥を見つけ出し、ここぞとばかりに大声をあげて、それがある種の快感になる。

 しかも更にタチの悪いことには、それらを全て匿名で、つまり自分の身をかくしてできてしまうということである。こうなると、もはやバイ菌・伝染病の社会である。

【倉本 聰:富良野風話】半世紀