首相で自民党総裁の岸田文雄が9月の総裁選に立候補しないことを表明した。お盆休み期間中の電撃的な退陣表明は永田町に大きな波紋を広げた。そうした中で「ポスト岸田」候補たちは一斉に総裁選出馬の準備を加速させる。「政治とカネ」の問題で派閥解消が進み、過去に例を見ない乱戦模様の「派閥なき総裁選」に突入した。自民党が生まれ変わるラストチャンスであり、日本の将来を左右する分岐点でもある。それだけに、自民党議員の1人ひとりの覚悟が問われることになる。
加速する出馬準備
きたる総裁選には出馬いたしません─。首相・岸田文雄は8月14日午前、記者会見を首相官邸で開き、総裁選に立候補しないことを表明した。
昨年11月に表面化してから厳しい逆風にさらされてきた派閥の政治資金パーティー裏金問題などを受け、岸田は「残されたのは自民党トップとしての責任だ。所属議員が起こした重大な事態について、組織の長として責任をとることにいささかの躊躇もない。私が身を引くことでけじめをつけ、総裁選に向かっていきたい」と不出馬の理由を説明した。
総裁選については「新生・自民党を国民にしっかりと示すことが必要だ」と強調し、「我こそはと思う方は積極的に手を挙げ、真剣勝負の議論を戦わせてほしい。そして新総裁が選ばれた後は主流派も反主流派もなく、一致団結し、政策力、実行力に基づいた真のドリームチームを作ってもらいたい」と訴えた。
岸田の電撃的な事実上の退陣表明で東京・永田町には「残念で、ショックだ」「なぜこのタイミングか……」「責任をとるなら遅すぎた」といった様々な反応が広がった。
岸田は14日朝、最側近の前官房副長官・木原誠二と首相公邸で会談して最終的な方針を決めた。その後、政権幹部らに相次いで電話し、不出馬の意向を伝えた。ほとんどの議員は記者会見で岸田の意向を知ることになった。
これまで岸田は、不出馬も選択肢の一つにしながらも、総裁選再選の道を探ってきた。先の通常国会で政治資金規正法改正を巡って溝が深まった副総裁・麻生太郎と会食を重ねるなど関係修復を図り、党内基盤の立て直しを進めた。
また、自民党の党是である憲法改正に向けて「自衛隊の明記」と「緊急事態条項」の論点整理を急ぐよう党内に指示。保守層を引き付けることも狙っていた。
しかし、岸田内閣の支持率がV字回復することはなく、党内からも退陣要求が噴出した。岸田と距離を置いてきた元幹事長・石破茂や元環境相・小泉進次郎らは総裁選への準備を進め、前経済安保担当相・小林鷹之に出馬を求める動きが若手・中堅議員に広がった。
岸田にとって、総裁選に出馬しても勝ち切るだけの再選シナリオが描きづらくなった。現職総裁が敗れれば党内での影響力は失墜する。仮に勝ったとしても党勢回復ができなければ、次期衆院選で野党に転落する可能性もある。それどころか、総裁選を前に「岸田おろし」が激化し、引きずり降ろされる格好で出馬断念に追い込まれかねない。そうなれば政治生命さえ失うことにつながる。「新政権でも影響力を残すためギリギリのタイミングでの決断」(党幹部)というのが真相のようだ。
「閣僚の中には総裁選に名乗りを上げることを考えている方もいると思う。気兼ねなく、職務に支障のない範囲で堂々と論戦を行ってほしい」。岸田は翌15日の閣僚懇談会後、そう語って党勢回復に向けて活発な論戦を促した。
乱戦模様のリーダー選び
これを受けて「ポスト岸田」候補たちは一斉に出馬準備を加速させた。
3回目の出馬を目指すデジタル相の河野太郎は、所属する麻生派(志公会)の会長・麻生に立候補の意向を伝え、了承を得た。解散を決めた岸田派(宏池会)からも官房長官・林芳正が出馬する意向を同派幹部に伝え、外相・上川陽子も17日、自身のX(旧ツイッター)に「首相に私の決意をお伝えしてきた」と投稿。それぞれ立候補に必要な20人の推薦人集めを急いだ。そのほか、閣内では経済安保担当相の高市早苗、経済産業相・斎藤健が意欲を見せている。
また、岸田を党側から支えてきた幹事長の茂木敏充は14日夜、都内で麻生と会談し、立候補への支持を求め、麻生派との連携を探った。だが、麻生は麻生派から河野が出馬する意向のため「麻生派として支援することは厳しい」との姿勢を示したとされる。
茂木が会長を務めていた茂木派(平成研究会)からは、元官房長官・加藤勝信が「総裁選挙に向けて具体的に動きたい」と意欲を見せる。また石破も15日の民放BS番組で「(推薦人確保の)メドはつきつつある。多くの国会議員の支持をもらわなければいけない」と語った。
そうした中で、一番乗りで正式に出馬表明したのが小林だった。8月19日に国会内で記者会見し、「覚悟を持って出馬することを表明します」と述べた。さらに、「衆院当選4回。40代。普通のサラリーマン家庭で育った私が、派閥に関係なく、今、この場に立っている。その事実こそが、自民党が本気で変わろうとする象徴だ」と強調し、党刷新と世代交代をアピールした。
自民党内の中堅・若手議員は世代交代を目論み、43歳の小泉も出馬に意欲を見せる。圧倒的な知名度を誇り、どのタイミングで立候補を表明するのが効果的か、情勢を慎重に見極めているとされる。
主要な閣僚や党役職を歴任してきた茂木や河野、石破ら60歳代のベテラン勢は経験値と安定感を打ち出しており、世代間の争いにもなってきた。
派閥裏金問題で麻生派を除く各派閥が解消を決めたため、派閥の縛りがなくなり、候補者乱立の様相を呈している。過去の総裁選では2008年と12年に5人が出馬したのが最多だが、今回、公示日までに何人が立候補に漕ぎつけられるかはギリギリまで見通せない。
多くの立候補者が出れば、自民党の多様性がアピールできるが、逆に論戦ではそれぞれの主張がぼやけてしまう恐れがある。「議論が深まらないと、きちんとした考え方が党員、国民に伝わらない。党再生の機会にならないと総裁選をやる意味がない」と語るベテラン議員もいる。
候補者乱立の総裁選は「人気投票」に陥る危険性をはらむ。衆院議員任期満了は来年10月のため、1年以内には必ず総選挙が行われる。来年夏には参院選も実施される。選挙に勝てるリーダーを選びたいという議員心理が働き、国民世論の風向きや一般党員ら党員投票の動向になびく議員が増えるからだ。
求められる本格論戦
自民党の群雄割拠の「戦国時代」に突入した。「ポスト岸田」候補たちは総裁選を通じて日本の明るい未来像を示すことができるだろうか。それができずに単なる人気投票に終われば、国民には表紙を替えただけに映るはずだ。地に落ちた自民党の信頼を取り戻すことはできない。
徹底した政策論争が不可欠といえる。特に経済政策は国民の関心は高い。7月に日経平均株価が4万2000円超の史上最高値を付け、8月5日に発表された6月毎月勤労統計では実質賃金が27カ月ぶりにプラスに転じるなど「経済の好循環」の兆が見えていた。
ただ、日経平均株価は8月5日に史上最大の下げ幅を記録し、賃上げも途上にある。景気動向の不安が付きまとっているため、賃金と物価が相乗的に上昇する好循環をいかに作り出すかという議論を深め、国民の支持を得ることが必要となる。
その他にも、日本の安全と安定を維持するための具体的な政策を示すことも求められる。南海トラフ地震がより現実味を帯びる中で、大規模災害への備えを万全にしなければならない。人口減少が進み、少子化対策や社会保障改革も待ったなしの課題だ。
また、日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増している。中台関係の緊張や北朝鮮の核・ミサイル開発など東アジア情勢はこれまでとは違う緊張感が漂う。
さらに、ロシアの侵攻を受けたウクライナはロシア西部クルスク州への越境攻撃を進めるなど緊迫し、中東でもイランとイスラエルの対立が激しくなっている。いずれも「対岸の火事」ではない。日本の経済活動やエネルギー戦略に深くかかわるだけに、新総裁は外交力も問われることになる。
党選対委員長・小渕優子は岸田の不出馬表明を受け「岸田総裁を十分にお支えできず大変申し訳ない」と語った。その上で、総裁選について「開かれた形で、老壮青、女性ら多くが手を挙げ、しっかりとした政策論争ができなければ自民党の再生はない。そうしたことをやっていくことが今、私自身に課せられた課題だ」と強調した。
問われる各議員の覚悟
岸田は記者会見で「透明で開かれた総裁選での自由闊達な論戦が重要だ。何よりも大切なのは国民の共感を得られる政治を実現することにある。それができる総裁かどうかしっかり見定め、自分の1票を投じたい」と語っていた。
総裁選は日本の舵取りを担う首相選びである。理想とする政策や政治理念を実現させるための権力闘争という側面は否定できない。しかし、そうした目的を見失い、誰が総裁になった方が自分の選挙に得かなどといった私利私欲の闘争になった途端、国民の共感を失う。自民党は国民に見放され、政権交代さえ現実味を帯びる。
異例ともいえる本命不在の「派閥なき総裁選」は、派閥力学に頼ることなく、それぞれの議員が自らの判断で支持行動を決めることになる。各議員が、私欲を排し、世論におもねることなく、自身の政治理念・信条に基づくあるべき自民党の姿を地元支持者らに自身の言葉で直接訴え、理解を得ることが求められる。
混沌とする総裁選の帰趨は最終盤まで見通せないだろう。その行方を国民は厳しい視線で見ている。今回ほど自民党の議員1人1人の覚悟と信念が問われる総裁選はない。(敬称略)