慶應義塾大学は今年の5月29日、信濃町キャンパス(東京都新宿区)に、同大学の新たな独自インキュベーション施設である「慶應義塾大学信濃町リサーチ&インキュベーションセンター(CRIK信濃町)」をオープンした。同施設は、医療・ヘルスケア分野を中心とした幅広い領域の共同研究開発拠点として活用していく。
今回は、慶應義塾大学 イノベーション推進本部 本部長 兼 スタートアップ部門長 新堂信昭氏と電通 スタートアップグロースパートナーズ ビジネスクリエーション部 ビジネスプロデューサー 高井嘉朗氏にCRIK信濃町の開設背景と施設の詳細を聞いた。
CRIK信濃町の概要
慶應義塾大学では、2021年度に全学組織であるイノベーション推進本部内にスタートアップ部門を創設し、産業界出身の専従の実務家教員を配置するなど、近年、大学発スタートアップの創出・育成に注力している。経済産業省が5月に発表した「令和5年度大学発ベンチャー実態等調査」において、大学発のベンチャー企業数は291社へと増加し、東京大学に次ぐ2位になった。
また、ユーザベースが発行する「Japan Startup Finance 2023」(2024年1月発表)では、慶應発スタートアップの大学別資金調達額は約510億円で第1位を獲得している。
同大学がスタートアップ支援に注力する理由について新堂氏は、「本学の理念の1つに、社会を先導していく人(先導者)を育成し、輩出していくという考えがあります。これに加えて、従来の教育と研究という大学の役割に留まらず、それらの成果を社会貢献や社会実装に繋げるために会社(スタートアップ)という形で外に出していく取り組みを大学全体で行っています」と説明した。
CRIK信濃町は、信濃町キャンパスの中に設置されている慶應義塾大学医学部/大学病院2号館の9階に構えられた施設で、「人を真ん中にした医療・ヘルスケアを未来のコモンセンスにする」という目的のもと、同じ志を持った医療・ヘルスケア関係者や幅広い領域のスタートアップ・大手企業が集い共に研究開発を行い、成長する場として開設された。
1フロアすべてが施設になっており、広さは約2500平方メートル。この中には、広さの異なる賃貸オフィス29室、会員向けの専有デスク26席やコワーキング用のラウンジのほか、3つの会議室やテレカンブース、イベントが開催できるコミュニティスペースなどがある。法人登記ができるのも特徴だ。
同施設を開設した背景について新堂氏は、「スタートアップ部門では、学内の起業環境整備のためのさまざまな取り組みを進めており、その1つにインキュベーションの場づくりがあります。さらに、医学部では、医学の成果をスタートアップという形で患者さんらに届けることを目指して多くの起業がなされており、その場として、信濃町キャンパスの中に起業のためのインキュベーション施設を作りたいという思いがありました。このように両者の思いが一致したことから、大学本部と医学部とで協働してこの施設を作ることになりました」と語った。
計画的偶然性を生み出す共用施設や回遊設計を施した施設内
インキュベーション施設は、複数のオープンスペースやコミュニティスペースなど、入居者向けの共用施設が充実している点が特徴だ。当初は、すべてを賃貸オフィスにする案もあったが、入居者同士や起業家、ベンチャーキャピタル、士業、大学関係者との出会いや交流を活発にするために、コミュニティスペースやラウンジを設けることにしたという。
電通は、これまでも慶應義塾大学 イノベーション推進本部のウェブサイト構築やスローガン作成などの広報支援を行っており、CRIK信濃町では、施設のコンセプトづくりや設計、施設ウェブサイトやパンフレット作成、関係部署の意見調整など、開設準備を進めるにあたってのプロジェクトマネジメント役を務めてきた。
賃貸料収入が期待できる個室を減らしてまでコミュニティスペースを設けた狙いについて高井氏は、「越境」というキーワードで説明した。
「インキュベーション施設に期待されているところは、さまざまな業界の方々と交わる部分です。その観点で考えたときに『越境する』ということが重要だと思っています。そのために、『計画的偶然性』をいかに作るのかといったところは意識しました。インキュベーション施設で、他社の人たちとすれ違う環境など、何があるんだろうと立ち止まる瞬間を創出するために、随所にみなさんが集まれるポイントを作っています。また会議室の並び方も微妙に変え、つい回ってみたくなる、つい行きたくなる回遊設計にしています」(高井氏)
新堂氏も、他の施設を見学する中で、コミュニティスペースの必要性を実感したという。
「コンセプトや間取り、壁にどういうものを置いているのか、盛り上がっているのか、どのような運営を行っているのかなど、民間や大学も含めていろいろなインキュベーション施設を見学しました。盛り上がっているところは、人が集まれる場所があります。入館したら受付があって、あとは全部個室だと新たな出会いや交流が生まれないのではないかという不安があり、イノベーションが起きにくい形になってしまうので、そうした視点から考え直しました」(新堂氏)
新堂氏は、今後は、コミュニティスペースを使って、さまざまなイベントを開催し、出会いの場を創出していきたいと語った。
「大学教員・研究者によるさまざまなワークショップや発表会、ピッチイベントなどを開催し、スタートアップやイノベーション・エコシステムに関わる人たちが聞きたい・集まりたいと思うトピックを、イベントにして発信していきたいと思っています。そうなれば、入居している会員の人たちも参加できますし、ビジターの方もそれを聞くためにこの施設に訪れることもあります。施設内で、50~100人規模のイベントを常に開催していれば、『何か一緒にやりませんか』といった共創も始まるのではないかという期待があります」(新堂氏)
慶應義塾大学病院の医療データを活用した研究も可能
また、施設は慶應義塾大学病院と同じ建物内にあるため、医療データを用いた共同研究ができる点も施設の特徴として挙げられる。施設内に独自のデータアクセスルームを備えており、研究計画の承認後、患者の同意を得て匿名化された大学病院の医療データにアクセスすることができる。
さらに、入居者に対して病院や大学内の教職員や研究者との接点をサポートするスタッフも複数名常駐している。スタッフは、大学との共同研究相談の支援や、ベンチャーキャピタルなどを紹介し、入居者の起業や事業拡大をサポートする。
このような先進的な取り組みを行うインキュベーション施設であるCRIK信濃町は、5月の開設以降、順調に入居者を増やしている。開設2カ月で10社の入居が決定し、検討中の会社も60社程度あるとのことだ。
ただ、開設に向けては苦労もあったという。コンセプトづくりから内装設計、業者の選定や解体・施工工事、関係部署との調整などを含めて1年の猶予しかなかった点だ。
「準備をきちんとしようとすれば、おそらくこういった施設であれば2年程度はかかると思います。それを1年で開設しなければいけないという時に、私たち大学がどのようなインキュベーション施設を作り、何を実現するのか、何を大切にしていくのかも含めて、本学のスタートアップ支援の思いや取り組みを理解し、一緒に議論してくれている電通にサポートしてもらうことにしました。今回のようなコミュニティ作りや施設整備、事業推進など多分野の人が企画に関わるプロジェクトでは、幅広いケーパビリティを有するプロジェクトマネジメントが重要だと思いますが、慶應義塾大学からその人材を出すのは難しい状況でしたので、その役割を電通にお願いしました。さまざまな検討を同時並行して進めており、時には利害関係者の衝突が起こりやすい時でも、電通に入ってもらうことで、タイムラインを意識した合意形成ができたと思います」(新堂氏)
電通は、施設の事業計画の面でも支援したという。
「計画的偶然性をどのように作るのかといった時に、収入源である賃貸スペースに影響が及ぶため、そもそも事業として成り立つのかといった点は考慮しなくてはなりません。ですので、電通内で過去にインキュベーション運営を担当した事業コンサルのメンバーもチームには在籍しており、長期・短期での収益を考えるための事業計画の叩き台を作成しました。コンセプトや空間デザインと合わせてビジネスプランの助言サポートをさせていただきました」(高井氏)
慶應で起業したい人たちの拠点に
事業化を目指す起業家や幅広い分野のスタートアップ、大手企業が集い、共に研究開発を行い、また慶應義塾大学との共同研究を通じて、事業成長できる拠点にしていきたいと新堂氏は述べた。
「今後インキュベーションの場づくりを継続的に行っていきます。例えば、大学の研究成果のショーケースとして、研究者主催のワークショップやハッカソン、ピッチイベント、スタートアップ企業などの事業紹介や事業成長に繋がる各種セミナー、慶應のインキュベーションプログラム(KSIP:Keio Startup Incubation Programの略称)の発表会などのさまざまなイベントを開催し、大学の教職員研究者・学生や施設入居者、起業家や支援者など多くの人たちとの出会いや交流のきっかけを作りたいと思います。この施設には、施設を運営しながら入居者とのコミュニケーションを促進するインキュベーションマネージャーや、大学教員・研究者とのディスカッションやコンサルテーションを促すサイエンスリエゾンが複数名、常駐しており、入居者や訪問者からのさまざまな相談も受けています。この施設を訪れれば、ワクワクする未来が感じられる、新しい事業の一歩を踏み出すきっかけが見つかるといった、そのような魅力的な場づくりを進めて行きたいと思います」(新堂氏)