PPIH創業会長・安田隆夫の「幸運の最大化、不運の最小化」論

日本経済全体が”失われた30年”で低迷する間に、成長し続けてきたのが、総合ディスカウントストア『ドン・キホーテ』で知られるPPIH(パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス)。創業会長兼最高顧問の安田隆夫氏(1949年5月生まれ)は「わたしは遅咲きの経営者」と語る。安田氏がドン・キホーテ第1号店を東京・府中市に開いたのは39歳の時。1989年のことで、折しも、時は『昭和』から『平成』に移り変わる時。間もなくバブル経済が崩壊し、日本は”失われた30年”の長い低迷期に突入。しかし、同社は逆に成長し続け、2024年6月期決算も、開業以来の35期連続で増収増益を達成する見通し。栄枯盛衰の激しい流通業界にあって、また、横並び意識の強いわが国産業界にあって、まさにドン・キホーテ精神で我が道を行く経営戦略が奏功。今、海外市場開拓にも積極的で、シンガポール、香港、タイに加え、米カリフォルニア州などで新たな店舗開設が進む。無一文から売上高2兆円企業を創りあげた安田氏は”経営の運”を大事にし、「幸運の最大化、不運の最小化を図る」とする。逆境下で成長する安田哲学とは─。

海外進出にも注力し

円安下を生き抜く経営に

 今、円安下をどう生き抜くかが日本経済の最大課題の1つとなっている。

『ドン・キホーテ』や『MEGAドン・キホーテ』などのディスカウントストア形態で成長してきたPPIH(パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス)は海外市場にも積極的に打って出ている。

 シンガポールにアジア第1号店となる『DON DON DONKI』オーチャードセントラル店を出店したのが2017年(平成29年)。

 以後、香港、バンコクなどのアジア主要都市や米カリフォルニア州やハワイ州などに店舗を展開。現在、国内店舗619店に海外店舗104店を加えた合計723店舗を展開し、『ドン・キホーテ』の存在感を高める。

「海外は客単価が高い」と創業会長兼最高顧問・安田隆夫氏。

「米国はハワイでもカリフォルニアでも、大体1人当たりの単価が6000円とかそれ位なんですね。日本だと2600円から2700円位で、倍以上違うわけです。しかも日本のほうが品揃えも店の大きさも全部大きいんです。(コストも違ってくるし)それはやはりアメリカ人に売ったほうが得ですよ」

 もっとも、米国内の物価は高く、「為替差もありますから、国内、海外の両市場はそれぞれの戦略で対応していく」と〝郷に入らば郷に従う〟という姿勢。

 海外店、例えばシンガポールの目抜き通りにある『DON DON DONKI』の店舗は〝日本製品の良さを売る店〟としてのイメージが浸透し、大盛況。今や名物店になっている。

 同社の売上高は2兆円になり、株式時価総額は2兆4916億円強と流通大手のイオン(2兆9471億円強)とほぼ並ぶポジションにまで拡大。

 また、株式市場での評価を見ると、PER(株価収益率)は29.27倍(通常約18倍が高収益企業とされる)、PBR(株価純資産倍率)は4.53倍(1倍以上で高評価)、ROE(自己資本比率)は16.65%(8~10%以上で高評価)という数値。

「わたしたちはプライシング(値付け)が命。単なる安さだけでなく、お客様がワクワクするような商品をお届けする」という安田氏の考えが、国を問わず広く受け入れられているということであろう。

 現在、グループの海外市場での売上高は約3000億円で、全体の約15%。「半分とまでは行かなくとも、30%位にはもって行きたい。あと10年位までに実現を」という安田氏。

 円安が進行すると輸入物価は上がり、結果、商品価格も上がる。そうなると消費者の買い控えにつながることにもなり、マイナス影響を受ける。

 海外市場で一定程度の売上をあげることが出来れば、為替変動に関係なく事業活動を展開し利益を確保することができるという考え。いわば、円安状況下でもしっかり生き抜くという経営の実践である。

慶大卒業後、幾つもの試練を経て…

 1949年(昭和24年)5月、岐阜県に生まれた安田氏。父親は工業高校の技術科教師、母親は専業主婦という家庭に育つ。教育者の父親は堅物で、躾も厳しかった。「父親とは違う人生を送る」という思いを持って青春時代を過ごした。

 慶應義塾大学法学部に進学するも、周囲とソリが合わず、講義もサボるようになり、1年留年して1973年(昭和48年)に卒業。在学中、親からの仕送りが途絶え、生活費を稼ぐため、横浜で港湾労働者もやったという経験を持つ。

 大学卒業後は不動産会社に就職したが、その〝悪徳商法〟ぶりに愛想をつかし、辞めようと思った矢先に会社が先に倒産。入社10カ月後の出来事であった。

「人生において、絶対にやってはいけないことを身をもって知った」と安田氏は述懐。

 会社倒産後はしばらく、本人の弁によると、『プータロー生活』が続いた。大学時代に培った麻雀はプロ顔負けの腕前で、雀荘に通いながら、資金を蓄えた。

 さすがに、「大学を卒業したのに、何をやっているんだ」と自省し、自分に何ができるかを考えに考えた。技術もコネもない自分に残された選択肢は「モノを売る仕事」であった。

 いろいろな事を経験して得たのは、人生には試練が付き物だが、何事も悲観的になるのではなく、何とか解決先を見出そうという人生観。『悲観論ではなく、楽観論に立つ』人生観と安田氏も自認する。

29歳で『泥棒市場』を開店

 1978年(昭和53年)、安田氏は東京・西荻窪にドン・キホーテの原型となるディスカウントストア『泥棒市場』をオープン。29歳の時である。

 たった18坪(約60平方メートル)の店であったが、安ければ何でも売れるわけではなく、文字通り、孤軍奮闘の日々が続いた。

 この時に、現在のドンキの真骨頂とされる『圧縮陳列』、『手書きPOP洪水』、『深夜営業』といった手法を編み出す。

 売り場が小さいから、商品を天井まで積み上げ、隙間なく棚に陳列したり、商品を説明する手書きPOPで、お客に分かりやすい売り場を演出した。

 時は、第2次石油ショックが起きた年(1978年)で、第1次石油ショック(1973年)に続き物価が高騰している折、日本経済はそれまでの高度成長から安定成長へと移り変わろうとしていた。

 消費者の間には、価格が安くて値打ちがある物を求める空気が強まり、流通業の常識からハミ出した商法で『泥棒市場』は人気を得た。

 その後、安田氏は『泥棒市場』から問屋業に転じ、現金卸売の『リーダー』を設立。ディスカウントストア向け問屋として、年商50億円をあげ、関東でトップクラスの規模の問屋に成長した。

 しかし、現金問屋の成長には限度があると分かり、安田氏は再び小売業で勝負しようと決意する。

『驚安の殿堂』で成長

『驚安の殿堂』─。『ドン・キホーテ』第1号店が東京・府中市にオープンしたのは1989年、安田氏が39歳の時。

 1989年といえば、『昭和』から『平成』の世に移り変わる時。経済全体の流れで見れば、翌90年に株式市場の暴落が起き、翌々91年には不動産価格の下落が始まった。いわゆるバブル経済の崩壊である。それから日本は〝失われた30年〟といわれる長い低迷期に入る。

 しかし、ドン・キホーテはこの開業時から今日(2023年6月期)まで、34期連続で増収増益決算を続けている。

 同社は2013年に商号をドン・キホーテからドンキホーテホールディングスに、さらに2019年にパン・パシフィック・インターナショナルホールディングス=PPIHに変更。安田氏は現在、同社の創業会長兼最高顧問を務める。

 日本経済全体が〝失われた30年〟で低迷し、賃金が上がらず、個人消費も冷え込む中でもドン・キホーテは成長し続けた。

 この間、かつて小売業日本一であった旧ダイエーは経営に行き詰まり、最終的にイオンに吸収された。

 ほかにも、例えば西武百貨店はセブン&アイ・ホールディングスの傘下に入り、先般、米投資ファンドの傘下に入るという経緯をたどっている。

 このように〝失われた30年〟の間に小売業は、整理淘汰、再編が相次ぐ。

 ドン・キホーテ(現PPIH)は総合スーパーのユニーを完全子会社化(2019年)。長崎屋を傘下に入れ(2007年)、宮崎市の老舗百貨店・橘百貨店などをM&A(合併・買収)するなどして、成長してきている。

 しかし、企業経営は順調一筋には行かないし、紆余曲折が伴うもの。

 ドン・キホーテも例外ではなく、『深夜営業』をめぐり、地域住民との摩擦が生じ、出店反対運動が起こった(1999年)。また、2004年には連続放火事件が起き、同年12月には浦和花月店が放火され、従業員3人が犠牲となる惨事もあった。

 そうした試練に向き合い、その中をどう生き抜くかという命題を背負いながらの成長。2024年6月期も売上高2兆円を突破し、営業利益は1350億円となり、中期経営計画を1年前倒しで達成する見通し。

〝売上高2兆円〟は多くの小売業関係者にとって、1つの大きな目標。PPIHは日本の小売業の売上高で、セブン&アイ・ホールディングス、イオン、『ユニクロ』ブランドのファーストリテイリングに次ぐ4位に付けている。

 同社がここまで成長することができた要因とは何か?

店名は奇異でも経営は「堅実に」

 堅実に生きる─。無一文から売上高2兆円起業を創り上げた安田氏だが、自身も開業当初は深夜までよく働いた。

 本社拠点は現在渋谷に置いているが、その前は目黒区青葉台、さらにその前は江戸川区葛西にあった。約20年前のことである。

「わたしも葛西にいた頃は、深夜の2時とか3時まで仕事をしていましたからね。その時のドライバー兼ボディーガードが今も一緒ですけれども、あの頃の話をすると、毎日2時とか3時で、帰りにラーメン食って帰ったよなと(笑)」

 働き方については、「もう滅茶苦茶ですよ」と語りながら、安田氏は次のように総括する。

「そうした時期があったから、今のドンキがあると。われわれは特許があるとか、すごく圧倒的な技術があるとか、そういう会社ではないですからね。お客様のために働くしかなかった」

 様々な試練に遭いながらも、設定した目標をどんどんクリアし、35年間連続の増収増益達成(見通し)ということ。それはまさに、世の中にインパクトを与え続ける〝小売人生〟そのものである。

 29歳の時にオープンしたディスカウントストア。お客は『泥棒市場』という店名に驚いた。

「何しろ、お金も知名度も何も無い時代でしたからね」と安田氏は、「ドンキになってからも、もう放火事件にしろ、いろいろな事がありましてね。あれよあれよといろいろな事が起きたし、ドンキはですね、名前からしても一番怪しげじゃないですか(笑)」

 いつ何が起きるか分からない会社という風にドンキは周囲から見られてきた。

「ええ、もしドン・キホーテ航空という航空会社があったら、それに乗りたくないでしょ。わたしも乗りたくないです。だけど、ドン・キホーテ航空は34期連続の増収増益で、最も安全で、最も堅実な会社でやってきたんです」

 経営の基本軸は『堅実』にあると総括する安田氏。

販売メイトが自由に自燃・自走する仕組みを!

 顧客最優先主義を基本軸に据える─。顧客が面白がり、興味を持つ商品を揃え、陳列に工夫を重ね、その魅力をアピールするということ。顧客と最も身近に接するのは販売メイト(販売担当者)である。「顧客最優先主義はメイト最優先主義でもあるんですよ」と安田氏。

 売上高2兆円企業をつくり上げるのは非常に難しいと思われがちだが、「実はこれが一番簡単なんですよ。それはメイトが勝手に自燃・自走する仕組みづくりができたからです」と語る。

 自燃・自走のシステム─。お客がドンキの店舗に行けば面白いと思うような店舗運営をメイト自らが考え、それを実行する仕組みである。

 販売の最前線にいるメイトを大事にする経営。「はい、現場で一生懸命やっていただけるのはメイトさんです。メイトさんに頑張ってもらわないとできないから、社員はメイトさんをすごく大事にする。もうとにかく、メイトさんがやりやすいように一生懸命サポートすると。メイトさんのほうが偉いかもしれません。メイトさんのほうが偉いみたいな会社は、日本の小売店はもちろん、世界の小売店でもないと思います」

 そして、北海道から沖縄までの100人強の支社長たちが競い合い、その結果を定期的に番付にするという制度もある。相撲になぞらえて、大関、関脇、幕内、十両、幕下とランキングされる仕組みである。

「番付で下位の20%が幕下に落ちるんです。降格するということは、新しい人が昇格して、その20%に入る。それは、わたしが決めるのでもなく、誰が決めるのでもない。彼ら自身が集まり、その代表が集まって、予算の配分を決めたりするんです」

 立地的に恵まれた店、そうではない店と諸条件があるが、「その店なりの数値目標があって、それをどうクリアできたかという成績が番付表に載っています」と安田氏。

個運を集団運にしていく

 こうした仕組みづくりについて、安田氏は、「個運を集団運に持っていく経営」と強調する。

 安田氏が開業当初の自分と、今の自分とを比べて語る。

「かつて俺が、俺がと人一倍、我が強かったんです、僕は。開業当初は、俺の言う事を聞けとばかりに、お前たちは文句を言うなという姿勢でやっていた。それを途中で止めたんです」

 その結果、どうなったのか?

「売上は増えるし、経営の中身が全く違ってきました。その変化をお客様はよく見ているんです。ヤル気に満ちてメイトが店の雰囲気をつくっている店と、上から言われた仕事だと思って、諦めムードでやっている店とでは、どことなく違う雰囲気が流れてくるんですよ」

 現場に任せる経営─。

「的確な指示もある程度必要ですよ。ただ、どちらが必要かと言えば、お願いと感謝です。それで、その気にさせる力のほうが大事」と安田氏は語り、次のように続ける。

「任せる以上は、結果のチェックは絶対不可欠です。結果が上がった人に明確な評価をすることは不可欠だし、結果の上がらなかった人も、その結果を残念ながら共有して、何とか今度リベンジしましょうよという思いを持つことが必要ですよね。だから、任せるんだけども、結果の共有はすると」

 プロセスコントロールはしないが、結果は共有する─という経営と現場の関係。

 今は瀬戸際にある。賃金と物価の問題、事業価値も関係して、企業経営にとって、製品価格の決定、つまり値付けが重要な課題となっている。この値付け問題についてはどう考えるべきなのか。

「値付けは、最終的にはお客様が安いと感じていただける最も高い値段を考えること。それが値付けですね」

 値付けは本当に難しい問題。

 それを踏まえた上で、安田氏は、「当社は究極の値付けを追求してきました。ただ安いだけでは会社の利益は出ないし、社員の給料も上げられないじゃないですか。お客様に、最も安いと思っていただける最高の値段を追求していきます」と強調。

 流通業の栄枯盛衰は実に激しい。「幸運の最大化、不運の最小化。これが運をよくする全てだと。危機管理の要点も、幸運の最大化なんです」と安田氏。

「幸運が最大化できれば、危機が来た時も、その蓄えで不運を最小化できます。不運自体を最小化するという局所的な議論ではなくて、幸運の最大化こそ不運を最小化できると。それが真の危機管理だと思います」

 運を引き付ける営みは今後も続く。