ハミガキ・ハブラシ等のオーラルケア、洗剤などトイレタリーのリーディングカンパニーとして数々の生活用品を世に生んできたライオン。創業133年と長寿企業である同社がなぜ世界初・日本初の商品を開発することができたのか。今日まで長く存続することができた極意は何か。元社長で特別顧問の藤重貞慶氏は「明確な企業理念と経営理念を遵守してきたからだ」と答える。その上で「事業領域」「革新」「共存共栄」という3つのキーポイントを受け継いできたと話す藤重氏。その中身とは?
100年企業の3つのポイント
─ ライオンはハミガキや洗剤など一般用消費財の領域でヒット商品を数多く世に出してきました。創業133年という歴史を生き抜いてきたわけですが、藤重さんから見たライオンのDNAとは何だと思いますか。
藤重 大きく3つのポイントをあげたいと思います。
1つ目は人間の根源的なニーズに根差した「事業領域」を持っていること。2つ目は挑戦と創造の心を大切にし、「革新」を生み続けてきたこと。そして3つ目が当社と関わる全ての関係者に対する「共存共栄」です。
当社は1891年に「小林富次郎商店」として創業したのがはじまりです。当時は石鹸とマッチに使用される原料の取次販売からスタート。95年にハミガキ市場に注目をして研究を開始しました。当時、商品の商標に動物の名前をつけるのが流行っていたことからライオンと決めました。
─ なぜ動物の中でもライオンだったのでしょうか。
藤重 ライオンは百獣の王であり、牙が丈夫で純白だからです。そして96年に「獅子印ライオン歯磨」を発売しました。販売価格は3銭。現在の価格で言えば600円ほどでした。当時はうどんが1~2銭、カレーライスが5~7銭、ビール大瓶が19銭という時代でした。
小林富次郎は創業時から企業理念を「事業を通じた社会への貢献」としていました。小林はクリスチャンでもあり、慈善事業に対しても非常に熱心でした。ただ、慈善事業をするにも一個人の力では限界を感じていたのも事実です。
そこで小林は、もし全国民に慈善思想を普及できれば、慈善事業に恒久的な基礎を与えることができると考え、1900年、ハミガキの袋に1厘の慈善券を印刷して発売したのです。これはハミガキを買った消費者が空き袋を慈善団体に届け、集まった袋を慈善団体が小林富次郎商店に持っていけば、それを買い取るという慈善団体に現金を寄付する仕組みです。
─ 今のSDGsやESGに通じる公益を重んじるところからスタートしたと。
藤重 そうですね。この思想をベースに先ほどの3つのポイントを実行してきました。その中でも2つ目の「革新」という点では、当社は「商品」「情報発信」「人事政策」で、これまでにない取り組みをしてきました。
まずは商品の革新です。小林富次郎は「正直は最大の商略なり」という考え方を経営の基本とし、その基本の上に革新的な商品を提案してきました。
もともと小林商店は当初、コプラ油を東南アジアから輸入し、それを独占的に扱って巨大な利益を得ました。ただ、日本で搾油をしていたため、西洋の技術に比べるとレベルが低かったのです。
─ つまり、コプラ油の品質では欧米に劣っていたと。
藤重 はい。西洋から輸入したコプラ油に比べて品質は劣りますが、値段は安いですよと正直に言ったわけです。結果として、これがものすごく売れました。
世界で初となる食器・野菜用洗剤を開発した理由
─ 正直な商売をしたことが成功につながった事例ですね。
藤重 ええ。これを基盤に我々もいろいろなイノベーションを起こしてきました。例えばハミガキ事業では、虫歯予防のための「ライオンFクリーム」を1948年に発売しましたが、これが日本初のフッ素配合のハミガキになりました。
次に美白につながるリン酸カルシウム配合の商品「ホワイトライオン」を61年に日本初で発売し、81年には世界初となる歯垢分解酵素配合の「クリニカライオン」を発売しました。
そして82年には、こちらも世界初となる歯槽膿漏予防の「デンターTライオン」を発売しました。このように当社は現在に至るまで、常にその時代の課題を解決する世界初や日本初の商品を開発してきました。
─ 日本人は清潔感を重んじる民族と言われますが、洗剤はどういった歴史なのですか。
藤重 1920年に世界で初めて植物性油脂を原料とした洗濯石鹸を開発し、56年には世界で初めての食器・野菜用洗剤を開発しました。当時、日本では米国文化が日本にどんどん入ってきて生野菜を食べる習慣が日本人の間に流行ったのです。
しかし、当時の生野菜には回虫や寄生虫がつきやすく、それを防ぐ残留農薬の影響もあり、年間6000人以上の人が亡くなっていました。
そこで当社がこの食器・野菜用洗剤「ライポンF」を開発し、これが厚生省内日本食品協会の推奨品となり、やがて日本人の回虫保有率は30%から2%に激減しました。清潔で衛生的な生活を守ることで日本経済の発展に大きく貢献することができたと思います。ちなみに、このライポンFに続いたのが後の台所用洗剤「ママレモン」や「チャーミーグリーン」「マジカ」になります。
衣料用洗剤でも1960年代に河川の発泡問題を受けて当社が世界初となる高生分解性成分AOS配合の洗剤を発売。73年には湖沼の富栄養化問題を受けて世界初の無リン洗剤を発売しました。90年以降の環境問題に対しては、石油ベースの洗剤ではなく、ヤシ油などの植物原料の洗剤を作っていきました。
─ 社会課題の解決に資する商品づくりを続けてきたと。
藤重 そうです。次に情報発信の革新ですが、明治後期に児童のむし歯の保有率が96%という時期がありました。しかも非常に重度の虫歯の保有率が多かったのです。我々の諸先輩は「このままではむし歯によって日本が滅んでしまう」という強烈な危機感を抱き、口腔保健活動を始めます。それが1913年の「ライオン講演会」でした。
この講演会では、いかに口腔内を清潔にすることが全身の健康のために良いかということを様々な講師を呼んで講演していただいたのです。
この講演会は1913年から20年間で、のべ10万回以上、約5700万人の方々に聴講していただいています。当時の日本の総人口は5130万人ですから、この活動がいかに徹底したものかが分かります。この活動は現在も続いています。
「通天閣」での初の企業広告
─ この口腔衛生が健康づくりに寄与することは、今ではよく知られたところです。
藤重 ええ。この考え方が今日の当社のベースにあるということです。この地道な取り組みやフッ素配合ハミガキの普及もあって、12歳児のむし歯経験歯数は1984年の4.75本から2021年には0.63本と激減しました。子どもたちのむし歯予防にも貢献することができていると思っています。
そしてむし歯が少ないということは、日本人の長寿社会を支えていることにもつながります。ですから、ここでも清潔で衛生的な生活をサポートすることによって日本の経済発展を支えてきたということが言えるのではないかと。
─ ライオンと言えばCMでも印象的なものが多いですね。情報発信は、どういう視点から力を入れてきたのですか。
藤重 はい。PR活動も当社の革新的な情報発信を代表する事例です。創業者の哲学として「植物は常に肥料を要す。肥料が無ければ育成せず、ついには枯死する。この肥料は即ち広告である。広告は商品の肥料である」があります。当社は広告することを大事にしてきました。
例えば日本初のコマーシャルソングを作ったのは当社です。1898年当時は歯みがき習慣がなく、ハミガキの値段も高い。しかし、歯みがきがいかに大事かを伝えたいということで、楽隊を編成して全国くまなく歩いて伝えていったのです。その際、現物サンプルも配っていきました。
─ それで小売店ルートを開拓したということですか?
藤重 ええ。すごいエネルギーですよね(笑)。1920年には大阪の通天閣の企業広告を当社が出しました。当時の広告料は年間1万8000円。今の価格で約5400万円です。
34年には後楽園球場に当社商品名付きのスコアボードを無償で提供し、これが大きな広告効果になりました。37~40年のプロ野球「ライオン軍」でも初の企業スポンサーになりました。66年にスポンサーとしてビートルズを日本に呼んだのが当社でした。
その後、テレビ番組「8時だよ、全員集合!」「ライオンのいただきます~ライオンのごきげんよう」など皆さんに馴染のあるスポンサーを務めました。
─ PR活動でも創業者の思いを受け継いできたのですね。3つ目の人事政策ですが。
藤重 小林富次郎には「従業員は協同者」という考え方が原点にあります。そこで小林は1901年に「小林夜学校」を開校しました。工場で働く男女の若い従業員に対し、将来に必要な料理・裁縫・習字などを教えていたのです。そして勉強時間にも給料を払っていました。
他にも06年には労働条件の明確化を行い、月給制、8時間勤務、純利益の50%を従業員に還元することを明らかにしていましたし、11年には日曜日の全休制、46年にはライオン健保施設として結核病棟を設置、61年にはライオンで働く従業員の家族の健康診断を始めました。
エンゲージメントの醸成と現場力の強さ
─ 最近では経営と現場の間のエンゲージメントという言葉が使われますが、会社への忠誠心の醸成はどう考えますか。
藤重 エンゲージメントは、積極的に企業の使命や社会課題を自分事として受け止めて実際に仕事をするということになります。エンゲージメントは自由ではありますが、目標は皆で同じものを共有しましょうと。
副業や転職などが盛んになり、様々な企業との接点を持つことで、従業員の皆さんはライオンという会社への理解が深まり、ライオンというのは世の中に役立っている会社ではないかと改めて分かるわけです。その意味では、こういった新たな働き方は当社にとってプラスになっていると思いますね。
─ 昨今、ものづくりの企業において現場力が落ちているケースが多いですね。
藤重 非常に心配です。一方で機械化はどんどん進んでいる。要は、生産ラインが見えていない人が増えているわけです。そもそも現場を経験していない人が増えているわけですからね。
AIやDXは中央コントロール型です。遠隔手術の例で言えば、医師が東京にいても長野の病院で手術ができるようになっています。しかし、仮に電源が止まってしまうことも起こり得る。その場合には、その手術をしっかりと理解した医師が現場にいなければ手術はできません。
いざとなった場合には、そこにいる人たちの現場力が重要になります。日本はこの現場力が他国と比べてもまだ強い。いざとなったら現場の自分たちで解決できる。私はそれこそが日本の一番の強みだと思っています。企業は現場力で持っています。現場力の強い企業は栄えるのです。