数ある進学校の中で1学年160人の中・高一貫の男子校として少人数教育を生かした主体的な授業が特徴。根津嘉一郎氏(東武鉄道初代社長)が私財を投じて1922年に開校した武蔵学園。「建学の三理想」で経済人や学者などを数多く輩出。森ビル副社長で同窓会長を務める54期の森浩生氏、53期でLIXIL社長兼CEOの瀬戸欣哉氏、同期でJT会長の岩井睦雄氏、54期のセガ社長COOの内海州史氏が”破天荒”な学生生活と共に、同校から学んだことを赤裸々に語り合った。
建学の理念に「三理想」
─ 武蔵高校は生徒の自主性を生かす自由な校風が特徴です。同窓会の会長を務める森ビル副社長の森浩生さん、武蔵高校の特徴を聞かせてください。
森 武蔵高校には建学の理念に「三理想」というものがあり、「東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物」「世界に雄飛するにたえる人物」「自ら調べ自ら考える力ある人物」と謳われています。
国際的な人間として東西文化の融合をマネージし、大所高所で物事を考えるためにも、自ら調べ自ら考える人材になりなさいと。そういった理想的な教育をする場でしたね。
そもそもわたしが武蔵高校に進学したのは兄の存在があります。兄は麻布高校に通っていたのですが、その兄から学園紛争の話を聞いており、ちょっと自分は馴染めないなと。また、開成高校も自分の性格とは合わないと感じていました。
そこで武蔵高校を見学すると、校内を川が流れ、何と緑豊かな学校だと。実際に進学して良かったのは仲間に恵まれたということです。
─ テニス部でしたね。
森 ええ。上下関係も意外と緩くて上級生とも仲良くしていました。今はもう時効ですが、昼休みになると「雀球に行こうぜ」と西武池袋線の江古田駅の駅前にあるパチンコ屋でパチンコをしに行っていました(笑)。
ただ悪いことをする人ばかりではありません。社会人になって「キャンプ・ニドム」という経営者や学者などが集まって教養を高め合う勉強会へ岩井さんと参加したのですが、何と武蔵のOBが4人もいました。
わたしと岩井さんに加え、シェイクスピアの研究をしている東京大学教授の河合祥一郎さんや上智大学教授で哲学を教えている荻野弘之さんなどです。いわゆるリベラルアーツなどに関心の高い人が多いというのも武蔵OBの特徴です。
─ LIXIL社長兼CEOの瀬戸欣哉さんは森さんの1学年上になりますね。
瀬戸 はい。わたしも兄が3学年上にいたので、武蔵のことは聞いていました。特に休みの数が違うと。わたしが地元の公立小学校に通い、兄が武蔵中学校に通っていたとき、春休みや夏休みの期間がいつも兄の方が1~2週間長いのです。おまけに休講もあり、気分が乗らないから学校に行かないと言ったりしている。それがありなら自分も行きたいなと(笑)。制服もありませんでしたからね。
森 学校で禁止されていたのは下駄だけでしたよね。
瀬戸 ええ。それで実際に進学して一番休んだのが高校2年生。おそらく3分の1以上休みました。武蔵は遅刻15回、もしくは欠課を15回、もしくは合計23回やると仮進学になりました。それを2回やると1つ落ちるのです。しかし、休みは関係なし。ですから、遅刻しそうになったら休んでしまうんです。
ただ、お金もありませんから、わたしも休んでいるときはパチンコをやったり、喫茶店で粘るか、200円くらいの映画を観に行ったりしていましたね。映画は池袋の新文芸坐や高田馬場パール座、神楽坂にあったギンレイホールなどに行きました。
変体仮名の一覧表が配られて
─ 愉快な学生生活でしたね。瀬戸さんと同学年のJT会長の岩井睦雄さんは高校からの転入組だと聞いています。
岩井 はい。武蔵高校は1学年で4クラスに分かれており、転入組が各クラスに10人ずつくらいいました。中学は新宿にある公立中学校に通い、高校受験で武蔵に進学しました。実はわたしは武蔵高校の校風などに憧れて絶対に武蔵に行きたいといったことなどはあまり考えておらず、合格した学校に進もうと思って進学したんです(笑)。
それで実際に進学してみたら、すごい学校だと。中学3年間で既に高校で勉強するようなことをやっていましたし、手書きの数学のテキストをもらったときには、授業についていくだけでも大変だなと思いましたね。「伊勢物語」を勉強するからと言われて、変体仮名の一覧表をもらったときは驚きましたね。
瀬戸 それで、後々自慢できるんですよ。美術館に行ったときに変体仮名が読めるんです。
岩井 確かにそうですね。とにかく各教科の先生が、まるで自分の趣味で授業をやっているような感じでしたね。公立中学では粛々と教科書に従って勉強していたのが、突然こういった風変わりな環境に放り込まれたという気分でしたからね。変わった学校だったけど、自由なのでとにかく面白かったですね。
トリッキーな入試問題
─ セガ社長COOの内海州史さんは森さんと同期ですね。
内海 はい。わたしは早稲田や慶應の附属中学校を考えていたのですが、それらとは違う受験日の武蔵も受験してみようかなと。宝くじを買うような感覚でしたね(笑)。
今でも覚えているのは武蔵だけ変な問題が出題されたのです。例えば、チョウチョウや魚が出てきて、これはオスかメスかどちらでしょうかと。普通に受験勉強をしただけでは解けないトリッキーな問題でした。
瀬戸 わたしのときはペーパークリップを観察せよでした。
内海 そうでしたか(笑)。でも、「何だ、これは?」という問題を見て、逆にわたしは武蔵に進みたいという思いが強くなりましたね。勉学に凝り固まっていない感覚がわたしには合っているのではないかと思いました。それで実際に進学してみたら、やはりユニークなんですよ。
それは生徒もそうですし、先生もユニーク。教材も中江兆民の「三酔人経綸問答」などがありましたからね。別に思想に偏りがあるわけでもない。でも授業を聞いていると、割と普通では考えられないような授業ばかりでした。最初はチンプンカンプンなのですが、それまで知らなかった思想などに触れたことが後になって影響を受けたのではないかと考えさせられます。
─ それが後の大成功したゲーム機「プレイステーション」や「ドリームキャスト」につながっているのかもしれないと。
内海 そうですね。瀬戸さんが言った通り、休みが多かったので、わたしもよく映画館には行きましたし、森さんと同じようにパチンコにも行きました。
─ 1970年代中盤のオイルショックの頃ですね。
瀬戸 学生時分にはオイルショックなどは、あまり関係ない話でしたね。ただ、学園紛争は盛んでしたから世の中の風潮としても、どちらかというと左翼系の思考の方がおしゃれという感じはありました。学生が権威に対して反抗的であることに大人の許容範囲も広かったと。
─ 瀬戸さんにとって一番愉快な思い出は何ですか。
瀬戸 いや、ちょっとそれをここで言ったらまずいです。
〈一同大笑い〉
瀬戸 武蔵では「記念祭」と呼ばれる文化祭があるのですが、そこで先生を池に落としてしまったことがありました(笑)。
─ その先生に怒られたりしなかったのですか。
瀬戸 ありませんでした。投げられた先生は嫌だったと思いますけど。それだけ先生が生徒に対して寛大だったんです。
内海 パチンコを打っていたら隣が先生で、勝手に玉を取られてしまったというエピソードを聞いたことがあるよ(笑)。
岩井 わたしはクラブに入っておらず、クラスの友達と昼休みや放課後はトランプをやっていました。そこでコインをかけて勝負していましたね。ただ先生も1つのことに細々と怒ることはなく、生徒に自由にやらせていた印象があります。「君たちには分別がありますよね」と。そういった信頼関係がありました。修学旅行も行き先が決まっていませんでしたよね。
瀬戸 わたしたちのときは中止になりましたよね。
森 その後、わたしたちの代が最後でした。それまでも続けようかどうか議論されていたようですが、代々悪いことをしてしまったからなくなったのかな(笑)。
岩井 もともと皆で統率してどこかに行くという習慣がなかったんですよね。初めからグループごとに計画しましょうと。わたしは記念祭で上映する映画を制作していたので、奈良にロケしに行こうとなりました。あとは宿に戻ってトランプです。
森 高2の修学旅行は、テニスの国体試合と重なっていました。わたしは長野国体終了後に長野から1人で修学旅行先の京都に向かいました。宿泊地に着いて先生の部屋に「着きました」と報告すると、夕方6時くらいでしたが、先生たちは既にお酒を飲んでいました。すごい光景でしたね(笑)。
内海 そんな独特な環境なのに東京大学に進学する生徒が多いので本当に驚きます。
─ 160人のうち何人くらいが東大に合格したのですか。
内海 我々の代は80人くらい合格していました。医学部に進学する生徒も多かったですね。
瀬戸 わたしたちの学年が東大に進学した生徒数が一番多くて89人ほどでした。
「自調自考」の精神
─ では、話題を変えましょう。内海さんにとって今の仕事と武蔵の教育は、どのようにつながりますか。
内海 既存の枠を超えて考えるという姿勢は武蔵で学んだことかもしれません。武蔵では自ら調べて自ら考えるという「自調自考」の精神があります。学校に通っていたときは「そういう言葉が言われているな」という感覚でしたが、社会に出てみると、何となく常に頭のどこかに残っている感じがします。
どうやったらうまくいくだろうかと絵を描くといった感覚でしょうか。ゲーム業界に身を置く者の感覚かもしれませんが、勝つために戦略的な絵を描くというものは、武蔵で学んだことと通じているように感じています。
瀬戸 わたしもそう思います。武蔵の教育は基本的には自分の運命は自分で決めなさいというスタンスで、ドライバーズシート(運転席)に座りなさいという教育です。どちらかというと、一般的な日本の若者はパッセンジャーシート(助手席)に座っているところがありますよね。
内海 そうですね。わたしも学生時代にバックパッカーで世界を回りましたけど、自分の目指すところを自分で考えるという感覚はすごくありましたね。
─ 日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行した森さんは?
森 世の中の教育は正解がある問題に対して、いち早く正確に答えるものが評価されました。もちろんそれも必要ですが、そもそも何が問題かを見つける方が重要だと。特に最近はそれがビジネスの世界でも重要になってきていると思います。
その点、わたしが銀行に入行した動機は、日本を動かすのは金融だと思っていたからです。中でも興銀はカルチャーが武蔵と似ていました。自分たちで考えるという感覚です。それだけ意識の高い人たちが多かったと。
わたしは産業調査部に配属され、そこではテーマも自分で考えなければなりませんでした。先輩から「これをやりなさい」と言われるわけではありません。何か課題を見つければ、そこに関係する会社にヒアリングに行ったりしましたからね。
専売公社、住商への入社動機
─ 興銀はニュービジネス開拓に熱心でしたね。岩井さんは当時の日本専売公社への就職を選択しましたね。
岩井 ええ。わたしは変化するところに行きたいと思っていました。変化しない会社では先輩の言うことを聞かないといけない。言われた通りに行動するのは嫌だったのです。その意味では、わたしが入社する1983年の時点で既に85年の民営化が決まっていました。民営化するということは、新しい仕組みや新しい仕事ができるようになると思ったのです。
実際に入社して最初の頃は経営企画部門で、会社の中期経営計画の策定などを任されました。他にも日本たばこ産業の「JT」のマークをつくったり、その後は食品事業の立ち上げにも関与することができました。先輩にも先輩面されずに、好きなことをやらせてもらってきました。
─ 新領域の開拓を手掛けたということですね。瀬戸さんは住友商事を経て、工具のインターネット販売会社を立ち上げましたね。
瀬戸 はい。先ほど申し上げた通り、自分でドライバーズシートに座ると決めてMonotaRO(モノタロウ)という会社を設立し、今ではLIXILで面白い仕事をさせてもらっています。新しいことでも恐れずに済んだのは武蔵でのバックボーンがあるからだと思います。
わたしの住商に入社する動機は少し不純でした。武蔵の中高6年間で男子校、大学の4年間も男子しかいないクラスだったのです。ですから10年間、男子校だったと。一方で住商は女子の比率が高かった(笑)。
ただ、最初に配属された鉄鋼の仕事は楽しかったですね。鋼管や鋼塊棒鋼、鋼板などがある中で、わたしは線材というワイヤを担当しました。ここで良かったのは商売の単位が小さかったということです。単位が小さいから貿易なども全て任せてもらえたのです。楽しかったです。
森 MonotaROは社内ベンチャーで出発しましたよね。
瀬戸 そうです。ただ、住商はお金を最初はあまり出さなかったのです。1997年にアジア通貨危機が起こり、鉄鋼の仕事が一気になくなりました。そこで当時出てきたインターネットに着目してインターネットの仕事をやりたいと申し出て、ビジネスプランを会社に提出したのです。
しかし、それはあまり商社に関係ないといった具合になりまして。それで出資者を探しに米国に渡り、グレンジャーという工業用間接資材の販売を行う会社から出資を仰いだのです。すると、住商も出資してくれることになり、その後は三井物産などからも出資してもらいました。
─ 瀬戸さんのような人は武蔵には多いのですか。
森 いや、瀬戸さんのような人は少ないですね(笑)。武蔵は他人を押しのけて自分だけが上に上がろうとする人は少ない。
内海 そうですよね。自分の趣味で鉄道が好きだったり、天文が好きな人が多かったですね。宇宙関係の道を進む人も多くてJAXA(宇宙航空研究開発機構)の職員が何人かいますね。
岩井 学者は多いですよね。
瀬戸 小惑星探査機「はやぶさ」のイオンエンジンを開発したJAXA理事の國中均さんも武蔵のOBですからね。
─ OBも多士済々ですね。そんな武蔵高校を運営する根津育英会の創立者・根津嘉一郎さんの存在をどう捉えますか。
森 お会いしたことはありませんが、同窓会長になって現理事長の根津公一さん(創立者の孫)から知ったことは、渋沢栄一さんが明治維新の頃に海外を視察しに行った際、根津嘉一郎さんも随行し、将来の日本の姿を自考されたということでした。帰国して鉄道事業から始まり、様々な事業をコングロマリット化しました。当時の世代の人たちのパワーはすごいと思います。
そして、事業をゼロから立ち上げるという馬力だけではなく、先見の明もあって文化や人づくりという視点に立って根津美術館や根津育英会なども立ち上げた。目先の利益よりも、大所高所の視点に立って社会に還元するという思想があった実業家なのではないかと思いますね。
瀬戸 懐の深さを感じますよね。事業を精一杯頑張るのはもちろんですが、相手を飲み込んだりするようなことはしないと。自分で全てをコントロールするのではなく、相手の意思を尊重して相手に自由にやらせてくれる。そういう思想が武蔵の校風にも生きているように感じます。
内海 自分たちが経営する立場になって思うのは、会社にはミッションやビジョンがありますが、「自ら調べ自ら考える」を教育理念のトップに掲げていることはすごいと思います。そこから海外ともつながるという広い視野も持っている。当時はそれほどではありませんでしたが、今になって考えるとすごいです。
瀬戸 東西文化の融合についても当時、本気で考えていた人は少なかったのではないでしょうか。根津美術館に行くとそれを感じます。そして武蔵の生徒は基本的には歴史的な書物は全て原典で読まされるのです。
森 どうしてこれほど細かいことを勉強しなければならないのかと思いましたね。歴史の授業も全然進みませんでした(笑)。
内海 そうでしたね(笑)。
─ 岩井さんは根津嘉一郎さんの存在をどう捉えますか。
岩井 皆さんがおっしゃったように、わたしも学校をつくっていることがすごいと思います。事業で稼いだお金をどう社会に還元するか。もちろん、美術館などの文化面での還元もあるでしょうけれども、根津嘉一郎さんは学業にも取り組んだ。米国のハーバード大学も牧師の寄付によって設立されていますから、それと同じような感じですね。
─ それでいて校風が実にユニークな学校ですね。
内海 わたしのいとこが運動会を見学しに来たのですが驚いていましたよ。組み分けが上半身裸組と体操着を着ている組で分かれていたからです(笑)。体育の時間もいい加減でした。
瀬戸 体育祭は自由参加で参加せずとも良かったですからね。
─ それは先生にも許容度があるということですね。
瀬戸 そうですね。当時は子どものやんちゃに対して大人が許すという許容度は社会全体でも大きかった気がします。
岩井 我々の時代は〝水爆弾〟が学校の伝統でしたよね。
森 ありましたね。中学1年の新入生が入学すると中庭に集合するのですが、そのときに校舎の上から上級生が水風船をどんどん投げてくるんですよ。
内海 今にして思えば完全にハラスメントですよね(笑)。
森 やられた学年は2年生になると、今度は自分たちが1年生に向かって投げるんですよ。
瀬戸 わたしは兄から水爆弾のことは聞いていたので「そろそろくるな」と用心していました。でも渡り廊下で両側のドアを閉められて集中砲火を受けた連中は可哀そうだったな。
今の若者は力強い!
─ 昔話が尽きませんが、そろそろしめたいと思います。皆さんから今の若者に対するメッセージをお願いします。
内海 わたしは「自ら調べ自ら考える」は金言だと思っています。今後、世の中がどうなっていくか判らず判断に迷ったときに、他人から教えてもらえる答えはなかなかないと思うのです。ですから、物事を様々な側面から捉えられる柔軟性と、瀬戸さんのような馬力、逞しさがあれば、自分の人生がより豊かになるのではないかと思います。
瀬戸 よく今後の日本をどうするかといった話があったりしますが、基本的にそれを真剣に考えても仕方がないと思うのです。何もできませんから。そうであるならば、個としての自分がまず周りで何ができるかということから考えなくてはなりません。そのときに自分でドライバーズシートに座る覚悟を持つことが大切だと思います。自分で自分の運命を決めるという覚悟は必要ではないでしょうか。
岩井 やはり自分の好きなことを徹底的に突き詰めて欲しいと思います。武蔵では先生も自分の好きなことをやっていました。もちろん、生徒も自分の好きなことに興味関心を持って、それを楽しみながら徹底的に突き詰めている人ばかりでした。いわゆるオタクのような人が東京大学の権威になっていたりするのです。若い人たちには是非ともそういった道を進んで行って欲しいと思いますね。
森 同窓会の会長として今の中学生と高校生の卒業式の挨拶を聞く機会がありました。今の生徒たちは本当に素晴らしい。武蔵も素晴らしい教育をしているなと思っています。ある映画好きの生徒は体育祭や記念祭で上映した映画を自分で撮影していました。力強い若者たちが育ってきていると感じました。
彼らも大学受験など社会のスクリーニングにかけられる局面を迎えることになりますが、そういったこととは関係なく、岩井さんがおっしゃったように自分の道をどんどん突き詰めて欲しいと思いました。そうすることで、日本がどんどん良くなるのではないかと。日本の将来は明るいと思っています。
─ 本日は笑いの絶えない楽しくて熱い学生時代の話を聞かせていただきました。誠にありがとうございました。