もう何年位前の話になるのだろう。こんな所にこんな畏れ多い話を書いて良いのかどうかも憚られるのだが、天皇陛下(今の上皇御夫妻)が突然、我が家におしのびで御来臨給(たま)わったことがある。宮内庁から不意の電話で、来週、富良野にお越しになるので夕食後、一寸お寄りしてよろしいかという電話だった。
トンデモナイ! とお断りしたが、イヤイヤかたく考えずに、普通のお友だちをお迎えする気分で、と、テキは丁寧だが中々しつこい。そんなこと急に言われたってウチは森中の一軒家であって築40年のオンボロ小屋。大体お通しすべき部屋がない。森を見るためのサンルームがあるが、そこに行くには梯子段(はしごだん)で2階へ、トッチラカした食堂を通ってお恥ずかしい楽屋を通過せねばならぬ。十数分に及ぶ押し問答の末、結局押し切られてお迎えする破目になってしまった。
わが小屋は真暗な林道の奥にあり、街灯も何もない凸凹道。一計を案じて親しいローソク屋に頼み、300本のローソクを森にばらまき、小屋の玄関から梯子段、2階の食堂、散らかしたものはそのまま片付けず、サンルームまでお通りになる路の両側にローソクを並べて、そこを通っていただくことにした。
定刻、車が到着して両陛下が車から降りられた途端、コチコチになって最敬礼をしたのはいいが、下げた頭が何故か上がらない。侍従長(じじゅうちょう)に促され漸くカクカクと首をもたげたら、そこに両陛下の笑顔があった。後の記憶は殆ど飛んでいる。人間の格とは不思議なものである。
幼少期から神と崇められた、その存在がニコニコと目の前におられるのである。とても太刀打ちできるものではない。両陛下が我が家の汚い土間に膝をつき、脱がれた靴の向きをキチンと直されるのを呆然と見ながら、ああ天皇家とは日本の作法の家元だったのだとボンヤリ見つめて感動したのが、唯一その夜の記憶の断片である。
その頃、富良野では『北の国から』のロケが行われていて、主人公の少年・純を演じていた吉岡秀隆が、まだ独身だった紀宮(のりのみや)サマから夕食に誘われ、有頂天になってすっとんできた。彼のシナリオでは紀宮サマにバラを一輪ささげ、「僕と、『ローマの休日』、しませんか」と言うつもりだったらしい。とてもそんなことはできなかったと、その晩、ションボリと僕の家に来た。
そういう出来事もあったのです、と美智子様にお話したら、美智子様と上皇様は呵々と大笑いされ、美智子様は
「まァ! 言って下さればよろしかったのに!」
と仰言った。
僕もカミさんも娘も思わずつられて大笑いしたのだが、ふとカミさんが物凄い目で僕を睨んでいるのに気づき、あわてて坐っていた足元を整した。僕は上皇陛下の前で、不遜にも大股を開いていたのだ。やはり庶民には庶民の下卑(げび)たマナーが身についてしまっているらしい。