「『阪和興業はいらない』と言われれば、すぐに変えられてしまうという危機感があった」─阪和興業前会長で相談役の古川弘成氏はこう語る。鉄鋼商社・阪和興業は機動力のある営業で定評がある。そこには創業者のDNAに加え、それを引き継ぎ発展させた、古川氏の先を見据えた打ち手があった。今、それを継承しているのが社長の中川洋一氏。中川氏は「日々改革」と話す。財閥系でもメーカー系でもなく、独立系で戦後を生き抜いてきた阪和興業の戦略と、その土台にある経営哲学を探る。
キーワードは「そこか」 即納・小口・加工の戦略で
─ 環境激変期ですが、中川さんは社長就任から2年間、様々な改革を行ってきましたね。
中川 改革は、古川(弘成・相談役)の時から常にやっていることです。日々改革ですから、改めて何かをやったというよりは毎日変化の中にあります。
ただ、環境問題や日本の少子化問題など、社会の大きな流れには変わらない部分があります。それに対して種を蒔いてきたのが古川時代で、出た芽に水をやり、育てて花を咲かせ、さらに次の種を蒔くのが私たちの役目になります。
─ 古川さんはどういう時代認識で改革を進めましたか。
古川 当時、会社の中で相当議論をしました。その前提は日本の鉄鋼業の成長が止まり、縮小していくというものでした。今、実際その通りの動きになっています。人口減少による国内鉄鋼需要の減少と中国の台頭です。
当社は商社の中でも中国関連のウエイトが高く、大手鉄鋼メーカーの宝鋼集団ともステンレス事業を手掛けています。
今や、中国の鉄鋼業は量で日本を凌駕しました。特に汎用品については、その傾向が顕著です。日本は高級品に強みがあることは確かですが、汎用品があってこその高級品です。その前提でどう手を打つかを常に考えてきました。そうして議論をし、手を打って、中川(洋一・社長)に引き継ぎました。
─ 日本国内ではどのように事業を進めてきましたか。
古川 国内では中堅・中小企業の顧客層を切り開くことで、事業基盤の強化、市場拡大を目指しました。その時のフレーズが「そ(即納)・こ(小口)・か(加工)」戦略です。つまり、お客様のかゆいところに手が届く商社になろうということです。
そのための機能を果たせる会社のM&A(企業の合併・買収)を行い、連結子会社も増やしてきたのです。国内は「相対的」に伸びようという考えでした。言葉ではかっこいいですが、つまりは他社のシェアを奪うということです。
─ 競争は熾烈だった?
古川 撤退気味の同業者もありましたから、そうした状況も察知しながら手を打ってきました。結果、独立系商社で残っているのは、当社と岡谷鋼機さんくらいでしょうか。岡谷鋼機さんは300年以上の歴史がある会社ですから、戦後生まれの独立系は実質当社しかいないかもしれません。
─ 厳しい環境下を生き抜いてきたということですね。
中川 まさに汗水を流して地道に取り組み、事業に付加価値を付けていった結果だと思っています。これは当社のDNAです。右から左に商品を流すだけの薄口銭の大量商いは我々でなくてもできます。我々はそうした仕事ではなく、事業に付加価値を付けながら深掘りをしていったという歴史があります。
古川 当社は財閥系でもメーカー系でもなく戦後を生き抜いてきた、ある意味では成り上がりの商社です。系列がない分、中小の取引、汗を流す取引に力を入れ、足で稼いできました。
─ 創業者・北二郎さんの時代から、「人」の力で稼ぐことを意識してきた?
古川 創業者の北二郎、名出良作兄弟は人を大事にし、教育に力を入れてきました。例えば、設立10周年のまだ会社が大きくない時期に「阪和育英会」を設立しています。
向学心旺盛で優秀な学生が経済的な理由で進学を断念することがないよう、奨学金を出すことで就学を助け、社会に有為な人材を育成しようとの主旨でした。今も毎年、給付型の国内奨学金と海外留学奨学金を出しています。
人を大事にして育てていこうというのが北二郎の教え、そして汗を流す商売をすべきというのが、弟である名出良作の哲学でした。
インドネシア事業が経営の柱に成長
─ 国内は基盤強化で、成長を海外に求めたわけですか。
古川 そうです。国内市場は縮小する見通しの上で、その分、海外で伸びようと。当時、東南アジアにおいては、各商社が主に日系メーカー向けに加工事業を行っていました。そこで我々はより地場・地域のユーザーに食い込むために製造業、メーカーの顔も持たなければいけないと考えました。
国内では戦前からの流れで鉄鋼などは指定商社制が残っています。しかし海外には、そのような仕組みはなく、ユーザーはメーカーから直に商品を買えます。その市場で戦うためには自らメーカーにならなければいけないと。そうしなければ、阪和興業の存在価値を認めてもらえないという危機感がありました。
そこで14年にインドネシア・スラウェシ島で中国の民間企業である青山実業集団が主導していたニッケル銑鉄、ステンレス精錬・圧延事業への一部出資、参画を決めました。
中川 青山実業は現在、世界一のステンレスメーカーとなっています。スラウェシ島でニッケルが採れるということで、鉱山開発から工場や港も建設するという形で一貫事業にすることで圧倒的な競争力を持った事業になりました。やはり原材料を押さえることが非常に重要だということです。
青山実業はインドネシアだけで400万トン以上のステンレスを生産しています。日本メーカーの生産量を全て合計したものよりも多い。我々はこの事業に出資をし、商社機能を生かして原料調達から製品販売まで関わっています。
─ 日本は中国との関係をどうしていくかが課題ですが、現在は経済がつないでいる形ですね。
古川 青山実業は民間企業ですし、インドネシアでの事業ですから直接的な影響は少ないですが、青山実業自身もそのあたりは考えながら事業展開をしています。
中川 青山実業と一緒にステンレス事業を手掛けていたことで、同社が提携している中国の鉄鋼メーカー・徳龍鋼鉄のインドネシア子会社である高炉一貫メーカー・徳信鋼鉄の事業にも参画できました。
─ 青山実業との関係が生きた形ですね。
中川 この事業はそれだけにとどまりません。この地で採れるニッケル鉱石はコバルトの含有量が予想以上に多いことがわかりました。このニッケル、コバルトは電気自動車(EV)の電池製造における正極材に使われるということで、その精錬事業に当社も出資しています。
この「QMBニューエナジーマテリアルズ」は、青山実業の他、中国最大のリサイクル企業であるGEM、世界最大の車載用2次電池(蓄電可能な電池)メーカーである中国のCATL、韓国の正極材メーカーであるエコプロと共同で手掛けています。
─ 引き潮満ち潮はありますが、世界の大きな流れはEV化に向かっており、重要な事業になりますね。
中川 そう思っています。アメリカはIRA(インフレ抑制法、過度なインフレを抑制すると同時にエネルギー安全保障と気候変動対策を進めるための法律)があり、中国企業にとっては微妙な状況になっているというのが現状です。
ただ、欧州向け、日本向けに関しては今、インドネシアがEV関連事業の一大拠点となっており、中国系を中心に様々な企業が進出を進めています。
やはりニッケル鉱山の存在は大きい。ニッケルの用途は大きく分けるとステンレスと電池ですが、圧倒的にステンレスの需要が多いんです。品位が低いニッケルはステンレス、高いものは電池材料に使用されます。
この品位の高いニッケルはこれまではロシアを中心に採掘されていました。それを青山実業が4年ほど前に、品位の低いニッケルから、正極材の材料にも使える品位のニッケルマットを製造する技術を開発したのです。これによってインドネシアは、正極材原料の一大拠点となりました。
青山実業は、ステンレスと電池の需要を見ながら、同じラインで生産調整できることも競争力の源泉となっています。
古川 当社はインドネシアでメーカーとしての顔も持つことになりましたから、アジアの様々な鉄鋼メーカーからのコンタクトが増え、ビジネスも順調に伸びています。インドネシアの現地法人では250人ほどのグループ社員が働いています。
─ インドネシアの事業は大きな柱に成長しているということですね。アメリカやインドといった鉄鋼市場が大きい国での展開をどう考えますか。
中川 アメリカ、インドは人口が増えており、鉄鋼需要の増加も見込まれています。そして中国勢が出ていかない市場であることも大きいですね。中国勢が進出するとコモディティ化して、価格競争力で市場を制圧されてしまいますが、両市場はそういう状況にはありません。
ただ、残念ながら当社はアメリカには出遅れている感があります。昔から総合商社が手掛けている市場であることも要因です。インドに関しては様々なトライをしていますが、ビジネス慣習も含め奥が深い。現在は事務所を3カ所置いて、輸出基地として活用しています。
頑張る社員を評価 女性、外国人の登用も
─ 阪和興業では人材育成をどのように進めていますか。
中川 社員教育においては「HKBS」(Hanwa Business School)という企業内大学を立ち上げて3年目になります。ネット上に自前でつくった講座を揃えて、社員が24時間、いつでもどこでも学ぶことができる、仮想空間における大学のようなプログラムになっています。
阪和興業の歴史、DNAを教える講座から始まって、会計や財務・経営学的なもの、新たなビジネスモデルを考えるものなど独自の授業を進めています。
受講者は多いですし、今後は人事制度の中で、このHKBSの履修実績を、昇進・昇格の基準にも活用していきます。頑張る社員に応える制度にしていこうと。
他にも、社員のMBA(経営学修士)取得のための大学派遣をしています。コロナ禍をきっかけに海外には行かせていませんが、やる気のある人間を役員が面接し、国内のMBAに毎年5、6人を送り出しています。
─ 日本の産業界でも女性活躍の必要性が言われていますが、阪和興業の取り組みは?
中川 コロナ前に優秀な女性社員がスペインでMBAを取得しましたが、帰国後は管理職として活躍してくれています。
また、株主総会で株主のご承認が得られることを前提に、女性の社外取締役を2名に増員する予定になっています。
社内から女性役員はまだ出ていませんが、古川の社長時代から、意識的に優秀な女性社員を育ててきています。今年初めて、女性総合職が子会社の社長に就任するなど、時間をかけて育ててきた人材が活躍しています。
─ 多様性の観点で外国人社員はどう活躍していますか。
中川 例えば上海の現地法人で採用した中国人の女性社員は非常に優秀だったので、現在は本社で課長になっています。
また、日本で採用した中国人社員をASEAN(東南アジア諸国連合)駐在、韓国人社員を韓国駐在に送り出しています。
先日も、海外拠点から「中国人の駐在員が欲しい」という声がありました。ASEANには華僑が多く、事業を伸ばそうという時に中国語ができることはアドバンテージになります。彼らはハングリー精神も強い。
─ 日本人社員も刺激を受けるのではないですか。
中川 ええ。当社の日本人の若手は、世間一般よりは元気で生きがいい人間が多いと思っています。彼らをもっと評価してあげたい。悪しき平等ではなく、メリハリをつけて、優秀で頑張っている人間を評価しようという制度に変えていっています。
人材登用、異動に関しても「人材会議」という、執行役員以上が全員出席する会議で侃々諤々議論をして決めています。
この会議は古川が始めたものですが、それ以前はどうしても人事はブラックボックスの中で決まっている面がありました。好き嫌いが入りますし、優秀な社員は自分のところに置いておきたがりますから、その社員が多様なキャリアを積むことなく、1つの部署にとどまってしまうことがあったのです。
それを「人材会議」で議論をして決めることにすると、今度は優秀な社員を囲い込むのはいかがなものか?という声も出てきます。その意味では公明正大に人事を決めています。
─ この会議を始めたことで、経営はどう変わりましたか。
中川 例えば、会社の戦略としてASEANで事業を伸ばそうと思えば、会社全体のコンセンサスとして、現地に優秀な人材を送らなければ、となります。そうすると、自分の部署で抱えていた優秀な人材を出そうという意識が役員に出てきます。
限られた人材ですから、経営戦略と同様に、どこに重点を置くかをまず議論をするわけです。その会社の経営戦略と、人事戦略が合致する形で、今、当社は動いています。
─ 伸びている人材はどういうタイプですか。
中川 当社は、新入社員の採用の際に一定の基準を持っています。先ほどお話したように、阪和興業のDNAがありますから、常に好奇心と向上心を持った、少し尖った人材を求めています。その個性を認めて伸ばしていく。無難な人間は当社にはいないんです(笑)。
今、日本の若者が内向きで、海外に行きたくないといった人も増えていると言われますが、やはり当社に来る人間は海外志望も含め、やる気があります。
─ 中川さんは社長就任2年で嬉しかったことは何ですか。
中川 苦しかったこともたくさんありますが、嬉しかったのは、古川の時に蒔いた種を社員1人ひとりが理解して、ベクトルを1つにして頑張ってくれていることです。やはり社員あっての会社ですから、社員が頑張ってくれているのが一番嬉しいですね。
特に商社は「人」が命です。当社は社員同士の風通しもよく、派閥も学閥もありません。尖った人間はいますが、いろいろな意見が出てくる方が会社として健全ですし、そうした中で同じベクトルに向かうことができているのは大きいですね。
そして会社が伸びている証拠は人材の採用に表れます。当社は採用数も多く、ありがたいことに多くの学生が志望してくれています。
修羅場を経験して思うこと
─ 会社の成長を、若い世代が実感していると。
中川 当社が「汗をかく仕事」に力を入れてきたことが数字として表れた出来事もありました。
22年3月期から、会計基準が変更されました。従来、お客様から受け取る対価の総額を収益として認識していましたが、当社の役割が取引の間に入る「代理人」に該当する取引については、お客様との取引額から、商品の仕入先との取引額を控除した金額で収益を認識する方法に変わったのです。
多くの商社では、この収益認識基準の変更で、売上高が4割ほど落ちましたが、当社は2割弱しか落ちませんでした。これは代理人取引の割合が少なく、汗水を流して、自分達で付加価値を付けたり、適切なリスクを取りながら商売してきた結果だと思います。
─ やはり阪和興業にはしっかりとした基本哲学があったということですね。
古川 創業者の北二郎、そして弟の名出良作という2人のDNAだと思います。例外だったのがバブル期の「財テク」です。
─ 阪和興業はバブル経済期、「財テク」企業の代表格と言われ、一時は総合商社を上回る利益を上げていましたが、バブル崩壊で逆回転し、巨額の負債を抱えましたね。
中川 私は財テクの少し前、86年の入社です。85年にプラザ合意(ドル高是正のため、85年9月にG5=先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議で発表された為替レートの安定化に関する合意)があり、その後金利が引き下げられて、バブルが来たわけですから。
─ 中川さんは入社後、どの部署に配属されたんですか。
中川 1年ほど営業を担当し、財務に異動しました。87年から為替のディーリングなどを手掛け、91年からは債券投資の担当となり、アメリカに赴任しました。
古川 当時の社長の北茂が、財テクを進めるために社内から優秀な人間を集めたのですが、中川はその中の1人でした。
─ 91年にはバブルが崩壊し、阪和興業も94年以降、厳しい状態になっていきます。古川さんは当時、どの部門にいたんですか。
古川 大阪で貿易の仕事をした後、香港に赴任していました。阪和興業の業績がおかしくなる前、社長の北茂が大阪に来た際、私はみんなの前で手を挙げて「今の会社のやり方はおかしい」と言ったんです。それで、香港に「疎開」した形です(笑)。
ただ、その経験は後につながりました。93年に赴任しましたが、その前年に鄧小平の「南巡講話」(鄧小平が92年初頭に湖北省・広東省・上海など同国南部地域を視察した際、各地で改革開放の加速を呼びかけた)があったのです。
日本からは「嵐は収まったから帰ってきなさい」と言われたのですが、断って帰りませんでした。そうして私の同期が役員になる中、私も役員にしようという話もありましたが「こんな面白い仕事はない」と言って香港に留まりました。
南巡講話以降、改革開放が進む中で、深圳や東莞が成長する様を目の当たりにしましたし、同じことが上海にも起きるだろうと考えました。その時期に中国で仕事をしていましたから、本当に面白かった。人生、肩書よりやりがいだと感じましたね。
その後、中国が市場として成長しましたから、私が中国市場を知っているということは、社長に選ばれた要因の1つかもしれないなと感じます。
同じようなことは中川にも言えると思います。当社では指名委員会で次期社長が推薦されますが、中川はアメリカを知っていますし、先程お話した青山実業とのインドネシア事業も担当していました。こうした経験は社長に選ばれた要因の1つではないかと思います。管理畑で日本しか知らなければなれなかったかもしれない。人はやはり、苦労も含めていろいろな経験をしなければなりませんし、そういう苦労をした人を社長に選ばなければならないと思います。
中川 修羅場から逃げずに立ち向かうという姿勢が大事だと私自身も心得ています。
古川 やはり阪和興業のDNA、北二郎の人を大事にする経営と海外志向、名出良作の汗をかき、足で稼ぐというDNAは、これからも引き継いでいって欲しいと思います。
阪和興業はインドネシア・スラウェシ島で世界最大のステンレスメーカーである青山実業集団、中国最大のリサイクル企業であるGEM、世界最大の車載用2次電池メーカーである中国のCATL、韓国の正極材メーカーであるエコプロと共同で電気自動車の2次電池材料を製造する「QMBニューエナジーマテリアルズ」を展開している