大阪府高槻市は6月12日、「戦国の三大梟雄」などと呼ばれる武将で、織田信長に反旗を翻し、そして信長が欲していたという「平蜘蛛茶釜」と共に自らの城で自爆して自害したなどという逸話などで知られる戦国武将「松永久秀(松永弾正の名でも知られる)」の書状が発見され、調査の結果、これまで知られていなかった新発見の史料であることが判明したことを発表した。
松永久秀は、畿内や阿波国(現在の徳島県)などに居を構えていた戦国武将の三好長慶の家臣として等角を表し、後に重臣となる。しかし、織田信長との戦いで降伏し、臣従する謀反、最期は信長が欲していたという茶器「平蜘蛛釜(古天明平蜘蛛)」と共に自爆したという派手な逸話が残されている(自爆は後年の創作で、居城の信貴山城で焼死、もしくは切腹が史実とされる)。松永久秀は生年不詳で、出身地も詳しくはわかっていないが、高槻市内の東五百住の出身とする説がある。
今回発見された書状は、東京の個人宅で見つかったもので、現在は高槻市立しろあと歴史館に寄託されている。調査の結果、三好長慶が芥川城主となる直前に出された新出史料であることが判明したという。書状は、三好長慶の重臣時代の松永久秀が、天文22(1553)年7月30日、長慶に味方をする室町幕府の幕臣・伊勢貞助らに宛てたものである。書状が送られる前年、対立関係にあった三好長慶と室町幕府将軍・足利義輝は和睦していたが、この書状が出される直前、義輝は長慶と敵対する細川晴元と手を組む姿勢を明確にした。そして、文書が出された翌月には、長慶は義輝を京都から追い落とし、芥川城(高槻市大字原)へ入城と伝えられる。
久秀は書状の中で、書状が出される前日、将軍義輝が長慶と敵対する細川晴元方の武将に酒を下賜し、義輝が晴元と手を組む姿勢が示されたという出来事について言及している。なお、義輝が晴元方の武将に酒を下賜したという事実は当時の公家の日記にも記されており、これまでも知られていることだったという。今回発見された書状では、久秀がそのことに対して「大したことはない」との強い姿勢を見せていることがわかるとする。
また、久秀は書状の中で、主に三好方の各地の勢力の様子を伝えると共に、伊勢貞助らに京都の様子を立ち聞きして伝えるよう依頼している。同書状は、三好方の動向を知ることができると共に、畿内の緊迫した政治状況の一端をうかがえる大変貴重な史料だという。
同書状が寄託された高槻市立しろあと歴史館では、三好長慶の居城で国指定史跡の芥川城と三好氏について紹介する常設展示「芥川城と三好一族」を6月15日からスタートする予定。それに合わせて、同日から7月15日まで、同書状を期間限定で実物展示するとしている(それ以降は複製品が展示される予定)。
書状に関連する歴史的事実
- 天文17年(1548):三好長慶が主君・細川晴元および晴元の側近・三好宗三に対して挙兵
- 天文18年(1549):江口の戦い(大阪市東淀川区)で長慶が勝利し、宗三は敗死、晴元は将軍足利義輝らを伴って近江(滋賀県)に逃れる
- 天文21年(1552):義輝と長慶が和睦。晴元は出家して若狭(福井県)へ
- 天文22年(1553)3月:義輝が長慶と対立し、霊山城(京都府東山区)に入城(義輝と長慶の対立が表面化)
同年7月28日:晴元方の武将が義輝の側近に迎えられる
- 同年7月29日:晴元方の武将が義輝より酒を下賜される(義輝が晴元と正式に手を組み、長慶に敵対する姿勢を明確にする)
- 同年7月30日:今回の書状が出される
- 同年8月1~5日:兵を起こした長慶が圧勝し、義輝・晴元は近江へと落ち延びる
- 同年8月25日:芥川城に籠る晴元方の芥川孫十郎を破り、長慶が芥川城に入城