ジム会長兼社長・八木原保「原宿は日本の文化とファッションが融合した結果、様々な文化が生み出されました」

「この50年の間にこんなに変わってしまった都市というのは世界中を見ても多分ないと思います」とジム会長兼社長の八木原保氏。18歳で上京し、1965年(昭和40年)に原宿でアパレル企業を出店。原宿という土地が静かな住宅地から、世界から注目される発信力のある街に進化を遂げた。59年間、原宿の地で商売を続けてきた八木原氏に進化の軌跡を聞いた。

朝の原宿の散歩から一日が始まる

 ─ 八木原さんは経営者を59年間やってこられていますが、その健康の秘訣は何ですか。

 八木原 朝は3時50分くらいに起きて、4時くらいから散歩をしています。自宅近くの表参道を歩いて明治神宮まで回って。夏は明治神宮は朝5時にオープンするんです。その隣に大きな代々木公園があってNHKの方からそちらまで一回り回って、トータル1時間半くらい毎日歩いています。

 以前は2万歩でしたが、今年に入ってからは1万7千歩くらいですね。これをもう30年くらい続けています。

 ─ そのあと食事ですか。

 八木原 食事は帰ってすぐなので6時ちょっと前からしています。この生活で体は悪いところは全くありません。薬も飲んでいませんから。

 ─ すごいですね。ご両親も体が強くて長生きの家系ですか。

 八木原 そうかも分からないですね。わたしは6人兄弟の5男坊です。兄弟で3人勲章をもらっていますよ。

 ─ 長男とどのくらいの年の差ですか。

 八木原 一番上とは20歳くらい離れています。兄貴は大正元年生まれくらいでした。

 あのころ農家は裕福で、わたしもその家に生まれて食べるものだけはいっぱいあったので不自由ない生活でした。

今の原宿ができるまで

 ─ 今回は、原宿の街をつくられた八木原さんの発想を聞かせてもらいたいです。

 八木原 はい。まず原宿に来た時に、アパレル業界でわたしは丁稚小僧をやっていました。

 日本のファッションは、西は大阪の船場、東京は東日本橋と茅場町、馬喰町がファッションの中心だったんです。

 私はそこで丁稚小僧をやっていたものですから、ものすごい量のお金とものが動いていたところで働いていました。でも、もともと埼玉の農家の生まれなので、もっと緑や自然が豊かな場所にすごく憧れがあったのです。

 それで東京全体を見渡してみた時に、原宿には明治神宮、代々木公園、表参道があって、東京にこんなところがあるのかとすっかり魅了されてしまいましてね。

 ─ それまで住んでいたのは、職場付近の東日本橋の方だったんですか。

 八木原 ええ。浅草橋の方でした。

 ─ あの地域には東京スタイルなどアパレル会社が何社かありましたよね。

 八木原 はい。東京スタイルは2014年にTSIホールディングスに吸収合併されましたが。TSIの前身、サンエー・インターナショナル創業者の三宅正彦社長は傑物です。わたしは彼とは親友です。あの時、三宅さんが東京スタイルを飲み込んだ形になりました。すごい男ですよ。

 ─ 八木原さんもこういう栄枯盛衰の中を生き抜いてこられたわけですよね。そういう中を生き抜く人たちというのはどんな人だと思いますか。

 八木原 やはり打たれ強いというか、ただ者ではないですよね。

 ─ ファッション業界は浮き沈みが激しい業界ですね。

 八木原 はい。生き残るということで言えばかなり難しいです。わたしが上京してきた頃も、東京は地方から出てきている人ばかりでした。

 最近は2世3世が増えましたが、われわれのころはみんな田舎者の集まりですよね(笑)。そこで揉まれてみな強くなってきたのだと思います。

 みんな富山や新潟など地方から出てきて一旗揚げようと、そういう根性のある人がリーダーになっていたのだというような気がします。

 1965年(昭和40年)にわたしが原宿に来たころ、原宿という街がなぜ伸びたかというと、家賃が安くて若者に非常にチャンスがあって、一発当たったらすぐ拡大していってというように、サクセスストーリーが描きやすかったのです。そういう夢のある地域だったし、そういう夢を持たせるところが原宿を育てた大きな原動力だと思います。

 ─ そのころから原宿はファッション関連企業が集まる場所だったと。

 八木原 いえ、全くそうではありませんでした。

 原宿駅の竹下口は当時お召し列車の出発地でとても静かな地域でした。でも私たちが来た時には、少しにぎやかになって歩行者天国というのが流行りましたよね。昭和45年くらいから20年間くらい続いて、歩行者天国の表参道は独自の雰囲気でした。若者が自由にそこで歌って踊れるというので、若い人が集まるようになりました。

 そこで竹の子族もそうだし、原宿の〝KAWAII(かわいい)〟という言葉が生まれてきたり、お姫様ルックやさまざまなジャンルのスターたちが、表参道の路上から生まれてきました。

 それが他の街と違ったファッションというか、そういう多様な文化を生み出してきました。

 ─ 明治神宮や表参道の存在がファッション文化形成には非常にプラスだったと。

 八木原 ええ。非常に最高な環境ではなかったでしょうか。やはり日本の文化とファッションが融合した土地だったと思います。

 ─ ファッションというものはその国や地域の精神風土を表しますよね。

 八木原 ええ。原宿はそこに若者のスパイスが入ってきたから、他の街にないようなものが生まれてきたんですね。

 ─ 青山通りは第一回東京オリンピック(1964年=昭和39年)の開催された後に大きな道になりました。

 八木原 そうです。当時、赤坂から渋谷まで車では1時間くらいかかるくらい道が混んでいました。そこに都電が通っていて、しかも1車線しかなかったので、車での交通は都内で最大の難所でした。

 昭和39年にあんなに広い道になってからはすいすい車で行けるようにがらっと雰囲気が変わってしまいました。

 ─ その翌年の昭和40年に八木原さんは原宿に来たわけですね。あの頃は戦後20年がたち、日本全体も原宿界隈もちょうど変わるころでしたね。

 八木原 そこでアパレルで出店したのは私が初めてでした。

 当初原宿で事務所や店を出すときに50平米以上は許可にならないくらい、土地の規制が厳しかったのです。住宅地専用地域でしたから。

 明治神宮と表参道と東郷神社と代々木公園という、もともと緑があって、そこで歩行者天国が生まれた。代々木公園にはワシントンハイツがあって、米軍がいて、欧米の食べ物やファッションがもろに伝わってくるという感じでした。

 ─ 銀座の三越にオープンしたマクドナルド第一号店は確か昭和46年でしたよね。

 原宿にはその前からハンバーガー店はありましたか。

 八木原 いえ、なかったですね。日本人はそういうアメリカ文化に憧れている人が多かったですね。あんなに広大な国によく戦争を仕掛けたなと。とにかくアメリカ人の着ているものが全部目新しくて、欲しくてしようがないという感じでした。

 ─ 終戦時は八木原さんは5歳ですよね。戦争の時に住んでいた埼玉県行田市は、空襲を受けたんですか。

 八木原 受けました。戦時中は皆食べ物がなくて、東京からみんなお金をいっぱい持ってうちの方の農家に買いに来ていたのをとてもよく覚えています。

 ─ 自分の家は農家だからお米がいっぱいありましたか。

 八木原 そうです。街中からやってくる人たちは、さつまいもでも何でも、葉っぱでさえも買っていくような状況でした。ですから子ども心に「農家は最高だな」と思っていました。そういった農家が豊かな時代が少しずつ終わっていき、ちょうど変わり目の頃にわたしは東京に出てきました。

 ─ 八木原さんが上京してきたのは高卒だから18歳の時ですね。

 八木原 ええ。昭和33年です。

 ─ まだ戦後まもなくで、街中もそれほど整備されていなかったですよね。

 八木原 そうです。もちろん行田から東京まで来ると5、6時間くらいかかりました。家から熊谷駅に出るまでが大変でしたからね。

 ─ 埼玉から東京まで来るのに5時間かかったんですね。

 八木原 ええ。私たちにとって、あのころ東京へ行くのは今で言えば外国に行くような感じでした。それが今だと車で行けば1時間半か2時間くらいで東京に行けるというのは、当時からしたら信じられないことですよ。

原宿は急激な変化を遂げた街

 八木原 原宿という街だけを見たとき、この50年の間に、こんなに変わってしまった都市というのは世界中を見ても多分ないと思うんですよ。原宿はこの50年の間に、世界から注目される、発信力のある街へ大進化を遂げました。

 旅行で日本に来日したり、海外企業が新ブランドを出す時は、まず表参道とか原宿に出したいというふうになってしまいました。同じ出店をしても表参道というだけでニュースが3倍くらい出ますよね。それだけ注目度が高いエリアになってしまったのです。ですから原宿は常に流行の最先端であり、時代の先取りができる場所です。

 今、東京都知事の小池百合子さんがやっている東京クリエイティブサロン(TCS)というものがあります。

 これは、イタリア・ミラノサローネというのが町ぐるみでやっている、世界的に専門家が集まるような有名なファッション展示会のようなものがあるのですが、その日本版を目指したものです。

 5年前にできて、日本橋は三井不動産、丸の内が三菱地所、銀座は全銀座会、羽田は日本空港ビルデングと羽田未来総合研究所、赤坂と六本木が、TBSホールディングス、原宿の代表をわたしたちといったかたちで、その地域の代表企業がいろいろなイベントを開催しています。