「表参道をもう一度歩行者天国を─」そう語るのはファッションのジム会長の八木原保氏。八木原氏は戦後表参道が住宅地のころ、埼玉県行田市から上京し、18歳で原宿を拠点にニットのアパレル企業を創立。原宿で初めてのファッション関連の会社を起業。しかしファッションのまちとして発展を遂げた今、土地が坪1億円以上と高騰。現在は海外のスーパーブランドでなければ参入が難しいという現状。日本の才能あるデザイナーが表参道で活躍できる場づくりを行いたいという八木原氏の考えとは─。
60年前の原宿は住宅地
─ 八木原さんは約60年原宿を拠点として活動されてきましたが、今の思いはいかがですか。
八木原 渋谷区全体をどうするか? という命題があって、ファッションと観光の街にしようということでこれまでやってきました。日本の若者だけではなく世界から多くの人が訪ねてくる街になって嬉しいです。
─ 青雲の志を抱いて八木原さんは文字通り原宿にやってきたんですね。皆成功を求めて東京に上京してきたから活力がありましたよね。
八木原 ええ。私が原宿に来たのは1965年(昭和40年)です。18歳で埼玉県行田市から上京しました。
原宿がなぜここまで伸びたかというと、家賃が安くて非常に若者にチャンスがあって、サクセスストーリーが描きやすい場所だったからです。当たれば原宿から流行がすぐ広まっていきましたし、そういう夢がたくさんある地域でした。それが原宿を育てた大きな原動力なんです。
─ そのころ原宿はどんな街でしたか。
八木原 渋谷と新宿の間に挟まれた完全に住宅地だったんですよ。今の竹下通りにタヌキがいたくらい静かなところでした(笑)。ここからどこかに通勤するという場所でした。
昭和45年くらいから表参道には歩行者天国がありました。原宿・表参道で歌って踊れるというので、若者が集まるようになったという、独自の雰囲気がありました。
そこで竹の子族もそうだし、原宿の〝KAWAII(かわいい)〟というのが生まれてきたり、お姫様ルックだとかね。そういうさまざまなジャンルの人たちがあそこの路上からスターがたくさん出てきたんです。
それが他の街と違ったファッション、そういう多様な文化をつくり出してきた、生み出してきたんですね。日本の文化の奥深いところとファッションが融合したという独自の場所でした。
─ ファッションはその国の精神風土を表しますよね。
八木原 ええ。そこに若者のスパイスが入ってきたから、他の街にないようなものが生まれてきたんですね。
もともと代々木公園にアメリカ軍のワシントンハイツがあったんです。あそこの将校さんたちが、アメリカ文化を原宿にばらまいていたんですね。
キデイランドとかオリエンタルバザーというのは完全にアメリカ軍の人たちが母国に帰る時に使うお土産の店だったんです。日本は戦争に負けて、アメリカにものすごく憧れている時代でした。
日本は着物文化だからトレーナーとかヨットパーカーとかああいうものがなかったのですが、そういうものが一挙に入ってきた。その代表がジーンズ、VANの石津謙介です。
─ オリンピックの翌年がちょうど日本全体が変わる頃で原宿界隈も変わる頃でしたね。
八木原 はい。1965年、原宿にアパレルで出店したのは私が初めてでした。その頃、戦争に負けた日本はアメリカ人の着ているものが全部目新しくて、欲しくてしようがないという感じでした。
原宿はこの50年の間に世界から注目される、発信力のある街になりました。日本に旅行で来たりとか企業が日本に新ブランドを出す時は、まず表参道や原宿に出したいというふうになりましたよね。
同じ新規出店でも原宿出店だとニュースが3倍くらい出るくらい注目度が高いエリアになっっています。
─ 昼間から表参道は人通りがとても多いですよね。
八木原 表参道は今、銀座と並んで土地が坪1億円以上です。いい場所は1億2、3千万くらい。
だから今は海外のスーパーブランドでなかったら出店できないですよね。そういう場所でわたしはずっと商売をやってきたという感じですね。
─ ここ1年で原宿で商売をやっていてよかったと思うことは何ですか。
八木原 やはり時代の先取りができるということですね。
5年前に、東京クリエイティブサロンという東京から世界に向けてファッションを発信する場所づくりをやっています。
東京都が主催で、私は原宿の代表です。日本橋は三井不動産、丸の内が三菱地所、銀座は松屋、羽田は日本空港ビルデング、赤坂と六本木がTBSホールディングス、渋谷が東急。東急会長の野本弘文さんが今全体の幹事役をやっているんですね。
─ 3月14日~24日の2週間、表参道中心で丸の内、日本橋で同時でイベントをやったのがこれですよね。
八木原 はい。これは日本を元気にします。会長はオンワードホールディングス元会長の廣内武さん。副会長は三越伊勢丹ホールディングス元社長の大西洋さん。
わたしは原宿を違うかたちで、『未来を考える会』というのをずっとやっているんです。わたしが会長になって地域の有力者を集めて、長谷部健・渋谷区長とも協力しながらやっています。
─ 具体的にはどういうことをいま考えているんですか。
八木原 警察と相談して原宿の街に歩行者天国を誘導できないかなと思っています。表参道をもう一回歩行者天国にできないかなと。昔は20年くらい続きましたが、いま全部禁止されているんです。
原宿は住民が住んでいるのでやはりごみの問題などがあります。警察も今、不祥事が出ると困るんじゃないですか。竹下通りなんかは、一歩間違えると韓国のイテウォンみたいに今でも群衆が集まって、何万人も来るから、事故が起きるんですよね。警察はそれを恐れているんです。
ただ私たちから見ると、今もう家賃が高くなってしまっているし、土地も高くなっているし、若い人のエネルギーをなかなか発揮できない。だからそういう場作りをしていかなければいけないなと。
─ そうですね。しかし各地域の指揮者は錚々たるメンバーですね。
八木原 はい。私たちはこのクリエイティブサロンに参加する前から、若い子たちを集めていろいろやっているんですよ。
原宿クリエイティブプロジェクトというのをつくって街を盛り上げるというのを商店会長になってずっとやっているんです。
─ これだけ色々な会長を務められて公の仕事が多いと八木原さんも大変ですね。
八木原 会長兼社長ですから本業の片手間にやっているんですよ。だから朝はもう6時から会社に来て仕事をしています。
かつてのように原宿を若手アーティストが発信できる場へ
─ ラフォーレ原宿をつくった、六本木ヒルズなど一連のヒルズをつくった森ビル元社長の森稔さんという方がいましたね。
八木原 ええ。最初のラフォーレ、ラフォーレ原宿ができたのは、昭和53年。つくった時は、ショッピングセンターとしては後発でした。あのころは、ファッションはパルコと丸井がすごく先行していたんです。だから森稔さんがそういうところには勝てないですと、わたしのところに相談に見えてね。
一緒になってインキュベイト機能というか、新人デザイナーとか新ブランドを発掘していこうと。ラフォーレ独自のファッションをつくり出して、それを出店させていくことが丸井とかパルコに勝てる大きな武器になるんじゃないかと。一緒にやってほしいので、私に社長をやってくれという話だったのです。
─ それで合弁会社をつくったと。
八木原 そうですね。30年間くらいやったんですよ。現在平成ブランドと言われている、50ブランドがそこから出ていったんですね。
ハイパー・オン・ハイパーという未来型の店をつくって、そこにお金のないデザイナーとかそういう人たちがみんな商品を置いて、そこで売れるようになったら3坪、5坪の店を出してあげましょうというやり方をしたんです。それがラフォーレの活性化になりました。
─ やっぱりファッション業界の人材づくりの意味合いがあったんですね。非常に志が高い人たちが集まったと。
八木原 そうですね。それはもうラフォーレビルの大きな活力になりましたね。業界にも大きなインパクトを与えましたし。
一番は、そのようなムーヴメントというか、やる気のあるデザイナーとかそういう人たちの場ができたということです。
─ 若いデザイナーたちの発表の場ができたと。
八木原 ええ。それが今、欠けてしまっているんですね。
今土地と家賃が高いから、そういう能力があっても、それを披露する舞台がないんです。それをわたしがつくろうと。
─ これが今回のこのプロジェクトの目的なんですね。
八木原 はい。今度、原宿に東急プラザ原宿「ハラカド」(原宿の角)という東急不動産のビルができるんですよ。4月17日オープンです。ここがデザイナーを育てる場所です。
わたしがベストドレッサーという賞を毎年主催してやっているのですが、それとあわせてベストデビュタントという新人デザイナーの発掘の場を今20年間くらいやっているんです。
そこから永山祐子さんだとかたくさん著名人が出ているんです。今度はだからハラカドにステージをつくって、ハラカドを発信の場にしようかと思って。
ですからベストデビュタントという若いデザイナーの登竜門を今年3月からハラカドに持ってきて、そこでショーもやるし、売り場も作ろうかなと思っているんですよ。
ベストドレッサーの協会がベスト・ファーザー賞というものをやるようになってから「父の日」はできたんです。これは去年でもう42回目を迎えました。ベスト・ファーザーというのはすごく人気度が高くて、もう国民的な行事になってしまいましたね。テレビ局もベストドレッサーの時は30局くらい来ますから。
グッドエイジャーというのには昨年シャトレーゼホールディングス会長の齊藤寛さんも選んだりもしています。この賞に今度、東京ガス相談役の広瀬道明さん、大和ハウス工業社長の芳井敬一さんを選びました。東急会長の野本弘文さんも毎年出席してくれますね。
超高級糸製品に特化
八木原 いまうちのニット製品ではモンゴルのカシミヤを中心としてやっているんですが、わたしはモンゴルカシミア協会の会長もやっているんです。
モンゴルという国は日本の4倍の面積があって、人口は300万人くらいしかいないんですよ。そのうち100万くらいがウランバートルという東京みたいなところに集中していてその他は全部大平原なんですね。
─ そこの糸の質は良いんですか。
八木原 はい。質がとても良いんです。15.5マイクロから16.5マイクロくらいの非常に繊細な糸ですね。
モンゴルは冬はマイナス40度から50度くらいになるから、冬寒いところで耐えたヤギが毛をいっぱいふいて、その毛を使っていますから。それをうちは年間5トンくらい使っているんです。
それとあともう一つ、シーアイランドコットンといわれるカリブ海で取れる海島綿を使っているのですが、海島綿協会の会長もやっています。これはもともと宝石みたいな糸です。
─ 高級品か質の良いものをつくるという戦略ですか。
八木原 はい。今みんな、商品や素材のことをよく知っているんです。良いものじゃないと消費者は買いません。
わたしたちは本当に超高級品の素材を使って、ハイグレードなものを富裕層に向けて売っていくという方針です。
そういうものを創業からずっと一貫してやってきているから、あまり規模を大きくしないで、自分たちがいいと思うものをやっていく戦略です。
─ だんだんと個性が問われる時代になってきましたね。
八木原 はい。よく言われる二極化ですね。富裕層か下の層かで、中間層がいなくなってきています。
そういう高級素材、シルク100%、カシミヤを中心とした需要ゾーンがかなりあるので、われわれはここのお客様を対象とした商品をこれからもつくっていこうと思います。