SBIホールディングス・北尾吉孝氏が語る「『情の深い辣腕経営者』野村証券元社長・田淵義久さんを偲ぶ」

野村証券の元社長で、公益財団法人SBI子ども希望財団理事長を務めておられた田淵義久さんがご逝去されたのは2023年11月8日のことでした。

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 私にとって、田淵さんの存在というのは非常に大きいものでした。若手時代から、折に触れて様々な助言をしてもらったことを今でも思い出します。

 出会いは、社内の部店長会議を担当する総合企画室の勤務になった時のこと。会議中に1人だけ、何時間も立ちっぱなしの人が目に留まりました。上司である課長に「あの方はどなたですか?」と尋ねたところ、「次の次の社長になる田淵義久さんだよ」と教えてくれたのです。

 田淵さんは早くから営業の力だけでなく、指導者としても頭角を現していましたから、誰もが田淵さんがトップになることを期待し、そのことを疑いませんでした。野村証券元社長の北裏喜一郎さんなども、非常に早い段階から田淵さんに様々な経験をさせていたと思います。

 田淵さんも私に期待して下さっていました。実際に言葉として、課長時代に「君は次の次だ」と言って下さったり、私がニューヨークに赴任していた時に田淵さんがいらっしゃると「アメリカの話を聞かせて欲しい」と言われ、現地の機関投資家の動向や金融情勢などを聞かれるのが常でした。

 1997年に野村証券の「冠」を外して以降、「自分はどこの役職にも就かない」と言われていましたが、「北尾君のSBI子ども希望財団だけは引き受けよう」と言って下さり、05年に理事長に就いていただきました。

 そこから18年間、まさに1から財団の形を作り上げて下さいました。常々言われていたのは「北尾君なら強い会社を作ることができる。私が強いだけでなく尊敬される会社を作るためのお手伝いをしよう」ということです。

 世間一般が持つ田淵さんのイメージは「野村証券を利益日本一に押し上げた辣腕経営者」といったものでしょうが、私の目から見ると、田淵さんほど情の深い方はいないのではないかと思います。財団の仕事にも非常に熱心に取り組んでいただきましたし、財団の関係者は皆、田淵さんのファンでした。

 田淵さんは野村を1つのグループ、私の言葉で言えば「生態系」として捉えており、本体では田淵さんが経営を担い、優秀な人間をあえて外に出し、グループ会社の経営を任せました。ただ、その後の野村を見ていると、果たしてその判断が正しかったのかどうか。

「北尾君、社長は何でもできると思うかもしれないが、できるのは側近を選ぶことくらいだ」とトップとしての本音を漏らされたこともありました。

 私も企業のトップとして同じことを思いますし、側近を選ぶことの難しさも実感しますが、田淵さんが私にして下さったように、私も社内で「これは」という人材に様々なことを教えています。そうした人材が自ら育つことを期待しているのです。

 歴史に「もしも」はありませんが、田淵さんが社長を続けていたら、私が孫正義さんのソフトバンク(現ソフトバンクグループ)を支えることもなく、今のSBIグループもなかったかもしれません。

 その意味で日本のIT業界、インターネット金融の発展を考えれば、私が野村証券を出たことも、全ては「天命」だったのだろうとは、後に考えたことです。

 人が亡くなるのは残念なことですが、その人の思いを受け継ぎ、新しい世界を切り開くことが大事なのだと思います。