「USW(全米鉄鋼労働組合)と誠実にお話する。それが一番重要だし、それしかない」─日本製鉄社長の今井正氏はこう話す。現在、日鉄は米鉄鋼大手・USスチールの買収を進めているが労組、大統領選を争う2人の政治家から「待った」をかけられている状態。この状況を打破するためには、買収の意義を労組に理解してもらうしか道はない。さらに「技術系」社長として将来の「脱炭素」に向けても決断が迫られる。
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米大統領が「米国内で所有されるべき」と声明
「USスチールが米国で成長していくために、一番お役に立てるのは日本製鉄だという確信がある」と話すのは、日本製鉄社長の今井正氏。
今井氏は2024年4月1日、日本製鉄社長兼COO(最高執行責任者)に就任した。だが、就任早々に大きな「壁」に直面している。それが23年12月に発表した米鉄鋼大手・USスチールの買収問題。
日鉄は米国市場を「これからさらに成長が見込める市場」と見て、約140億ドル(約2兆円)と、過去最高額を投じてのM&A(企業の合併・買収)に踏み切った。
米国は自動車生産、特に電気自動車(EV)など電動化向けの高級鋼の需要が強い他、コロナ禍で一時厳しい状況に陥った住宅向け需要も底堅いと見られている。また「脱炭素」を目指す上で必要な最先端の電炉、「水素還元製鉄」を実現する上で重要な高品質な鉄鉱山を保有。
かつては世界一の鉄鋼メーカーだったUSスチールだが現在は米国3位。経営状況が悪化する中で23年8月に自社の売却等を検討すると発表、同業で米国2位のクリーブランド・クリフスが約1兆円での買収を提案していたが、これを拒否したという経緯がある。
日鉄の買収提案に対しては、USスチールの経営陣、ファンドなどの大株主は賛同。しかし、USW(全米鉄鋼労働組合)が反対姿勢を打ち出したことで、24年11月に控える米大統領を巡る思惑も絡み、事態は複雑化した。
USスチールは米国の自動車や鉄鋼の生産拠点を多く抱えるペンシルベニア州に本社がある。同州は「ラストベルト」(さびついた工業地帯)とも呼ばれ、製造業従事者の多い地域。大統領選の勝敗を左右する州とも言われている。
現大統領のジョー・バイデン氏も、共和党の大統領候補で前大統領のドナルド・トランプ氏も、USWからの支持は喉から手が出るほど欲しい。
トランプ氏は24年1月末、労働組合関係者との会談後、日鉄のUSスチール買収に言及し「私なら即座に阻止する。絶対にだ」と明確な反対を表明。
これに対しバイデン氏は当初、立場を明らかにしてこなかったが、3月14日、「米国内で所有される米国の鉄鋼企業であり続けることが重要」(U.S. Steel must stay domestically owned and operated)と買収反対を示唆する声明を出した。
大統領選の勝敗という、高度に政治が絡む中での買収という難しさ。「大統領選の選挙イヤーであることが大きく影響している。米国の政治家の方々は本質的に、雇用、USスチールが象徴的な米国企業として発展していけるかを気にしている」
そのため日鉄は3月15日、買収後にUSスチールの成長に向けて14億ドルを投資する他、この買収に起因するレイオフ及び工場閉鎖を行わないといった内容の声明を出した。これをUSWとの交渉の中でも訴えるが、4月4日現在説得に至っていない。
さらに技術の供与も行う。例えば現在、日鉄が日本国内で生産している最高級の「無方向性電磁鋼板」は電動化した自動車の性能を左右する他、多くの電機製品に使用されているが、米国内で生産できる企業は存在しない。100%買収が実現すれば、この技術をUSスチールに提供できる。
他にも、日鉄は北米で鉄鋼に関する2000件に及ぶ特許を取得しているが、USスチールやクリーブランド・クリフスなど米国内のメーカーは合わせても200件程度。この特許も活用できるようになる。
「USスチールの成長のために米国に投資をする、共に競争力を高めていけるということを、USWの方々と誠実にお話する。それが一番重要だし、それしかないと思っている」と今井氏。
バイデン氏の声明の中にあった「domestically owned」という言葉に対して今井氏は「我々自身、これまで長い期間にわたって米国で製鉄事業をやってきた会社」と強調。現在、米国での日本製鉄子会社では4000名近い従業員が働き、その中にはUSWに所属している人間も多くいる。
また、米国で建材用の薄板事業を手掛ける会社は、かつて倒産した米国企業を日鉄が子会社として立て直したもの。「domestically ownedと言われたが、我々は米国で根付いている鉄鋼メーカーだと見ていただきたいと思う」
現在は約2兆円で100%買収するという形で日鉄とUSスチールが合意しているが、バイデン氏の発言を受け、出資比率を引き下げるといった条件変更があるのではないかという見方も出ているが、「今回のディールは100%買収で我々が手を上げ、選ばれている。条件の変更はUSスチール経営陣が決めること」(今井氏)
出資比率が下がると、前述のような技術の提供がしづらくなり、USスチールの成長が遅れるという意味でリスクがある。
近年、世界各国で鉄鋼の「自国産化」の動きが強まる。その中で日鉄は成長市場の利益を享受するために現地企業の買収で、その市場の「インサイダー」になることを目指してきた。
例えばインドでは19年にライバルでもあるアルセロール・ミタルと共同で、現地の鉄鋼大手エッサール・スチールを7700億円で買収。現在「AM/NSインディア」として運営しているが「順調に収益を上げており、生産能力の拡大も着々と進んでいる」(今井氏)。
前述のUSスチール買収が成功すれば、成長市場で生産、収益を拡大するという戦略の実現に、大きく前進することになる。目標としているのが「粗鋼生産能力1億トン、売上高1兆円」という数字。日鉄はこれによって質と量の両立による「総合力世界一」を目指す。
中国経済の減速が鉄鋼市況の悪化招く
日鉄は19年に橋本英二氏(現会長兼CEO=最高経営責任者)が社長に就任以降、経営改革により収益の立て直しが進んだ。
鉄鋼業界を取り巻く事業環境は厳しい。とりわけ中国経済の減速で、鉄鋼需要が減少したことで価格の安い中国製品が東南アジア市場などの流れ込み、市況を悪化させている。今井氏はこの状況に対し「中国では一過性ではない構造変化が起きている」という認識を示す。
国内事情も厳しい状況には変わりない。コロナ禍からの回復、自動車業界の生産回復はあるものの、資材、物流、人件費の上昇は続いている。
この状況下、日鉄は21年から瀬戸内製鉄所呉地区(広島県)など4基の高炉休止を含む構造改革を進めてきたが、この計画を策定したのが今井氏。粗鋼生産能力を2割削減するという計画に対し、社内からは「落とし過ぎではないか」という声も上がったというが、「我々の足元の国内粗鋼生産能力は約3500万トンで、その時決めた能力を下回るレベルに留まっている」(今井氏)のが現状。
これをカバーしたのが、橋本氏が進めてきた鋼材の値上げ戦略。特に、「紐付き」と呼ばれる大口需要家との取引価格を大幅に改善したことが大きかった。
かつては、例えばトヨタ自動車などの「ビッグネーム」であれば赤字でも受注する傾向が強かったものを「採算を確保できない注文は受けない」という方針に変えた。数量・シェアについても橋本氏は「下がってもいい」とハッパをかけてきた。
この施策もあり、24年3月期の連結事業利益(在庫評価損益などを除く利益)は過去最高の8900億円を見込んでいる。
ただ、この価格改善の今後について今井氏は「これまでの経緯で、相当部分我々の主張が受け止められてきたプロセスがある。紐付き価格に対して今後、大幅な値上げは難しいと思っている」と厳しい見方を示す。
ただ、物流や資材のコスト、人件費の上昇など社会的コストが構造的に上がるために、これを「サプライチェーンで公平に分担する」という観点で、今後も価格改善を進める考え。
電炉、水素還元製鉄など「脱炭素」が重要課題
目の前の現実に対処する一方、将来に向けた課題解決も今井氏に課せられた重い課題。それが「脱炭素」。日本のCO2排出のうち産業界が占める割合は約4割だが、そのうち鉄鋼は15%と最も多く排出している。
国の支援も得ながら、2050年までの実現を目指す高炉での「水素還元製鉄」、それ以前の2030年までの移行期に向けては「大型電炉」による生産も検討中。場所は九州製鉄所八幡地区と瀬戸内製鉄所広畑地区だが、技術として確立できるか、巨額の投資に対して採算が合うのかという現実的な見極めをしている段階。
今井氏は「大きな判断をしなければならないタイミングが近づいている」と話す。それは「24年度から25年度にかけて、実質的にゴーサインを出さないと、2030年に間に合わない」から。
「技術系」の今井氏が社長に選ばれたことは、脱炭素が今後の重要な経営課題だという社内外への強いメッセージとなった。今井氏自身も「私が橋本の後任社長に選ばれたということは、当社として(脱炭素を)前に進めるという意志の表れだと思う。使命感を持ってやっていかなければならない」と力を込める。
厳しい環境に向かうにあたっては国内の基盤整備も重要。日鉄は24年の春闘で、ベースアップに相当する賃金改善を月3万5000円と回答。これは労働組合が要求した月3万円を上回る水準。定期昇給などを含めた賃上げ率は14.2%となった。
「賃金の改定は橋本の決断で大きく前に進んだ。国内の製鉄業で働く人を守りながら、日本のモノづくりの競争力を高めていく。自分も製鉄所出身。しっかりやっていく。人的な競争力は大事。生産労働人口が減少する時代の中で、国内の製鉄所に、引き続き優秀な現場の人材が集まってくれるかは、会社の競争力を左右するファクター」と今井氏。
社員への賃上げに連動して、協力会社への発注単価も上がる仕組みになっているため、広く還元される。これも製鉄所人材の確保の意味で大きい。
「新しいものを生み出す」新人時代に感じたやり甲斐
今井氏は1963年5月岡山県生まれ。88年東京大学大学院工学系研究科金属工学専攻修士課程修了後、新日本製鐵(現日本製鉄)入社。旧新日鐵出身者としては初の技術系社長。
大学の工学部で金属工学を専攻したが、鉄鋼メーカーに進むことを意識したのは大学院に進学する際に「鉄」の研究室を選んだ時。「専門性が生かせる産業だと考えた。当時はプラザ合意後の円高で鉄鋼業が厳しい状況だったこともあり、リーディングカンパニーを志望した」
配属されたのは名古屋製鉄所。トヨタ自動車との関係が深い製鉄所だが、今井氏が新人として初めて担当したのが、トヨタ向けの新たな高強度鋼材の量産化技術を確立するという仕事。「新しいものを世の中に生み出すというやり甲斐を感じた原体験になっている。新しい鋼材が使われた車が街を走るのを見つける度に、自分の子供を見るような気持ちになった」と振り返る。
社長交代会見の際、現会長の橋本氏は「社長というのは知力、胆力がなければ、今の時代はリーダーシップを発揮できないが、今井は私を遥かに凌ぐ知力、胆力の持ち主」、「脱炭素を進めていく力という意味では、世界中の鉄鋼メーカーのエンジニアを集めても、今井の上に来る人はいない」と評した。
その「胆力」が問われた経験として今井氏は前述の高炉休止を含む生産構造改革を挙げる。従業員や自治体など利害関係者が多く、社内にも異論がある中で、製鉄所とも直接対話を重ねるなど実現に向けて汗をかいた。
今はUSスチール買収の成否が日鉄の今後の成長を大きく左右する状況。労組を説得し、実現できるかが問われる。その後に控える「脱炭素」に向けても今井氏が背負う課題は重い。