京セラを世界的な電子・セラミック企業に育て上げた創業者稲盛和夫氏。仕事一筋に打ち込んでいた稲盛氏が京都商工会議所会頭に就任(1995年)。さらには第三次行革審、そして日米関係をさらに強化するための「日米21世紀委員会」の設立と、活躍の舞台が広がっていく。内外のトップとのやりとりで見せた、稲盛氏の人間的やりとりとは─。
財界活動開始に至るまで
─ 稲盛さんは京都商工会議所会頭もされていましたが、当時この大仕事を引き受けるか相当悩まれていましたね。
大田 この時のエピソードがあります。当時京都商工会議所会頭のワコール会長・塚本幸一さんが、稲盛さんに「そろそろ会頭を受けてほしい」と頼まれた時、稲盛さんは「会頭は自己顕示欲が強い人がやるのでしょう。私にはそういう思いはないので断ります」と言われたんです。
すると、塚本さんは「きみは私が有名になりたいと思って会頭をやっているとでも思っていたのか」と言って、次のように説得されたのです。
「わたしは本当に京都のためにやっているんだ。君も京都で起業して成功し、社名にも京都の名を使っているのだから、京都に恩返しする気はないのか」と。それを聞いて稲盛さんは「すみません。誤解していました。お受けさせていただきます」と答えて、会頭就任が決まったのです。それですぐに記者会見をしようとなって、数日後、年末ぎりぎりに会頭就任の記者会見を開きました。
─ その前に、稲盛さんは学術や芸術分野で世界的功績のあった人を顕彰する京都賞を創設され、そこでも京都の名前を使っていますよね。
大田 はい。最初の1回は幻の稲盛賞だったのですが、懇意にされていた瀬島龍三さんからのアドバイスで名称を京都賞に変更したんです。
─ 瀬島龍三は1980年代の臨調(第二次臨時行政調査会)を強く進めた方でしたね。
大田 ええ。稲盛さんは瀬島さんを本当に尊敬されていて、よく相談にもいかれていました。
─ 2人とも利他の精神で国を思っておられた方でした。
大田 そうですね。1998年年末に、瀬島さんから「日本全体が沈滞しているので、何か日本人を励ますようなイベントはできないか」と稲盛さんに相談がありました。そこで、東急エージェンシー社長の前野徹さんや、ライフストア社長の清水信次さんなどと一緒に『がんばろう日本!国民会議』を急遽開催することが決まったのです。当時の小渕恵三総理、実力者だった竹下元総理や小沢一郎さんなどのスケジュールは瀬島さんに抑えてもらいました。年末年始を挟んで1カ月ほどしか準備期間はなかったのですが、稲盛さんが「大丈夫です。大田にやらせますから任せてください」と瀬島さんに言われました。
─ 大田さんがあの『がんばろう日本!国民会議』の実務を担当したのですか。
大田 お正月休み返上で準備をしたのを覚えています。稲盛さんも「ああ言ったけれど、無理なら無理と言ってくれよ」と配慮もしてもらいました。
歴代総理も来られましたので、瀬島さんとは何回か進行など相談させていただきました。私の考えたプログラムの最後は全員で「君が代」を斉唱することになっていたのですが、瀬島さんが「もっと明るい歌で締めたい」「由紀さおりさんと親しいので彼女に『翼をください』を歌ってもらったらどうか」と言われ、瀬島さんの形式にこだわらない柔軟な発想に感銘を受けました。その通りにして当日は、大変盛り上がりました。あのような判断は瀬島さんしかできないだろうと今でも思っています。
日米21世紀委員会の運営
─ 印象的な仕事は他にありますか。
大田 1996年に始めた日米21世紀委員会の仕事も印象的でした。行革審が終わった後に稲盛さんから、「貿易摩擦のため、日米関係がぎくしゃくしている。これを民間の立場から改善できないだろうか。きみは国際的な仕事がしたいだろうから手伝ってほしい」と言われ、日米21世紀委員会の運営をすることになりました。
米国側の名誉委員長はブッシュ元大統領、日本側は宮沢元総理という錚錚たるメンバーとの3年間の活動でした。その仕事を通じで、日米の有識者の方々から本当に多くのことを学ぶことができ今でも感謝しています。
─ そのときメインで参加した人は誰でした?
大田 日本では堺屋太一さんが委員長で、副委員長が田中直毅さんでした。アメリカ側は労働長官やUSTR代表を務め共和党の大統領候補にもなったウイリアム・ブロックさんです。
両国の事務局は、米側が世界的なシンクタンクのCSIS、日本は大和総研。運営資金は京セラ、KDDI、大和証券の3社の寄付で賄われました。
稲盛さんが主導したプロジェクトで資金的にもかなり負担していましたので、運営にも責任が伴います。それで、私に「きみが責任を持って進めてくれ」と言われました。でも、その仕事だけするわけにはいかないので、大和証券に専任で事務局長になる人を出してもらうことになりました。それでその方と何回か打ち合わせをしたんですが、考えが合わなかったんです。そのことを稲盛さんに伝えると「君がそういうのであれば代えてもらうしかない」と一言言って当時の大和証券土井定包社長にまた会いにいきました。
事情を説明すると、土井さんはメンツを潰されたはずなのに、「わかりました。すぐに代わりを出します」と返事をされたのですね。この稲盛さんと土井さんのやり取りを見ていて、トップたる人物の器の大きさを感じました。
本当は、わたしは誰とでもうまくやらないといけないのに、わがままを言ってしまった。しかし、稲盛さんはそれを聞き入れ談判までしてくれた。さらに土井さんもそれを受け入れてくださった。この仕事は絶対に成功させなければと強く思いました。