2022年夏、90歳の天寿を全うした京セラ創業者稲盛和夫氏。エレクトロニクス産業が立ち上がる1959年(昭和34年)に27歳で創業し、セラミックパッケージなどを開発。電子部品など素材革命を推進。1985年の通信自由化の際は第二電電(現KDDI)を創業して情報通信産業に参入。さらに78歳のときに経営破綻した日本航空の再生を任され、3年で見事に成功。常に現場に身を置き現場との交流を進めた経済人であった。側近から見た稲盛氏の実像とは─。
京セラでの稲盛氏との出会い
─ 大田さんは長年京セラで稲盛和夫さんの近くで仕事をされていました。まず稲盛さんとの出会いから話してくれませんか。
大田 はい。京セラ入社後、海外営業に配属され、入社3年目から、欧米に年の3分の1程出張していました。すると、商談をする相手にMBAを持っている人が多いんですね。それで、わたしも関心を持つようになりました。丁度そのころ、京セラでも海外留学制度が始まったので応募して、最終的には稲盛さんの面接を受け、留学生候補となったんです。
受験勉強は大変でしたが、シカゴ大学など幾つかの大学に合格でき、結局、世界の中心であるワシントンに行きたいと思い、ジョージ・ワシントン大学のビジネススクールに入学しました。勉強には苦労しましたが、首席で卒業できました。その頃は、日米貿易摩擦が激化していて、米国は通商法スーパー301条を適用するのではないかとの話題になっていました。適用されると米国との協議がないと貿易ができないという懸念がありました。
当時のモスバガー商務長官が私に会いたいとの連絡が突然ありましてね。お会いすると、「適用しない」と言明されました。政府の重大な決定を留学生の私に最初に伝えるのは異例だと日経新聞に写真入りで掲載され、びっくりしました。
─ そのときの稲盛さんの反応はどうでしたか。
大田 ええ。帰国したらすぐに稲盛さんに呼ばれ『立派な成績で卒業してくれて素晴らしい。何かあれば、いつでも相談にきなさい』と言われました。
─ それはいつ頃ですか。
大田 1990年でした。その少し前に伊藤謙介さんが社長になられたので、まずは伊藤さんのサポートをしなさい。そのために経営企画室をつくるから、そこで頑張ってほしいと。
─ その後の稲盛さんとの接点は?
大田 時折、秘書室に呼ばれて「頑張っているか」とか「ビジネススクールを出たのだから何か事業をしたいのだろう。何でも言って来いよ」と声をかけていただきました。
─ 大田さんは稲盛さんと同郷ですよね。
大田 そうなんですが、最初稲盛さんは知らなかったようで、ある時「君はどこの出身だ」と聞かれ、「鹿児島でしかも同じ薬師町で実家は歩いて7〜8分のところです」と答えると驚かれて、少し故郷談義をしたのですが、最後に「でも俺は、鹿児島人はあまり評価してない。熱しやすく冷めやすいからだ。だから幹部には鹿児島県人はほとんどいない。俺は学閥も県人閥も嫌いなので、同郷だからと言って特別扱いしないぞ」と言われましてね。
─ 稲盛さんの鹿児島県人うんぬんは初めて聞く言葉ですね。
大田 あくまでも公平・公正に扱うと。
─ 大田さんはその後、稲盛さんの秘書になるのですね。
大田 そうです。その翌年の1991年(平成3年)に稲盛さんが政府の第3次行政改革審議会(行革審)の「世界の中の日本部会」部会長に抜擢された時、急遽呼び出され特命秘書になりました。
すると驚いたことに、その前の臨調会長の土光敏夫さんや会長代理の瀬島龍三さん等の秘書の方々が集まって、秘書の心得をレクチャーしてくれたんです。本当にありがたかったですね。
行革審では、稲盛さん自身も他のメンバーより若く、その秘書である私は、稲盛さんよりさらに22歳も若いんですね。秘書同士で連絡を取り合うことも多いのですが、他社の秘書は役員クラスで私より一回りも年長の方もいました。そこで、私では「若すぎる」と言い出す人もいたのですが、稲盛さんは「構わない」と言っておられました。また、若い私を「私の副官です」と紹介することもありましたね。
─ 大田さんは、稲盛さんが国の改革に関わっていくのをどんな気持ちでみていましたか。
大田 稲盛さんは国士になられたと思いました。最初は分からないことも多いので、一生懸命勉強し、国のカタチというか国の姿はこうあるべきだというご自分の意見、見識を持たれるようになったと思います。
また、部会は、日本を代表する有識者の集まりで、年長者の方も沢山おられました。その運営でも苦労され沢山学ばれたのではないでしょうか。そこで印象に残っているのは副部会長の富士通会長山本卓眞さんです。京セラよりずっと大きな企業のトップであり、年長でありながら、稲盛さんをいつも支えておられました。
─ 山本卓眞さんも国の行く末を非常に気にかけておられた経済リーダーでしたね。
大田 はい。そういう人の意見や考えをまとめ上げるというので、ご苦労をされていました。そのために懇親会や勉強会を開催していたのですが、その時も、君も出なさいというだけでなく『大田君、君はどう思う?』と皆の前で意見を聞かれ一人前の扱いをしてもらっていると感激しましたね。それでもっと勉強しようとモチベーションも上がりました。今思えば、稲盛さんは、人をその気にさせる天才なんですね。
─ 経営企画室と特命秘書の仕事の案配はどうしたんですか。
大田 半々位ですね。週に1回は稲盛さんと一緒に東京へ行き、行革審の会議に出席するのですが、その前後には中央省庁の人たちからレクチャーを受けるんですね。稲盛さんは忙しいので、私が代わりに受けることもよくあったのですが、各省庁の事務次官以下幹部の人たちが若い私を見て驚いていましたね(笑)。
─ 大田さんはその時何歳でしたか。
大田 38歳になった頃です。相手もやりにくかったと思います。『世界の中の日本部会』なので、外務省が一番多くて、あと当時の運輸省、大蔵省の人たちでした。
─ そういう人たちと接して、どう思いましたか。
大田 優秀な方々ばかりで、さらさらと何でも説明できる人たちだなと。また自分達が日本を背負っているという自負も持っておられました。
しかし、改革をしようというのに対しては、現状がいかに素晴らしいか、いかにいい仕組みかを上手に説明されるんですね。事例もデータも交えるものですから、「なるほど」とすぐに納得してしまうこともありました。稲盛さんも、何を聞いても完璧、誰の答えも完璧だから、何が正しいかわからないなと苦笑されてましたね。
ですが、稲盛さんは、常にあるべき姿を目指すべきだとの信念がありましたので、官僚との激しい議論も続きました。
─ 例えば、変革という点ではどういうことがありましたか。
大田 身近なところでは、パスポートや運転免許の期間延長、車検の簡素化などです。特に運転免許証の期間延長は苦労をしました。
─ 教習所などもいろいろな手数料問題などがあって収入に響いてきますからね。
大田 よくご存じですね。一つのことを変えようとすると、それに多くの問題が複雑に絡み合っていることが分かり、国の制度を変えるということは大変だなと痛感しました。
稲盛さんとも相談して、落とし所を探りました。その時、以前、私の家内が運転免許証はちょっと大きくて財布に入らないと言っているのを思い出しましてね。サイズをクレジットカードと同じようにすれば、利便性も高まると思い、期間延長を少し妥協し、このことを提案しました。
─ みんな文句があるのに黙っていたわけですね。それを大田さんの提案で変えたと。
大田 ええ。行革は3年間でしたが、稲盛さんは初めて国の構造を学び、思うところが沢山あったようです。よく話されていたのは、「行革こそ、政治家の仕事ではないか。政治家がやろうとすればすぐにできるはずだ」「それを行革のように民間の委員に任せるのはおかしい」ということです。それができないのは、戦後自民党政権が続き立法と行政が一体化しているからではないか、政権交代がなくてはいけないと。
─ 行革への抜擢は当時三菱化成社長で、第6代日経連会長であり、第三次行革審会長の鈴木永二さんの推薦でしたね。わたしは鈴木さんから稲盛さんを部会長に抜擢したいが、どのような人物か、どう思うかと話を受けたことがありました。
その時に『わが祖国 禹博士の運命の種』《日韓混血で日本で生まれ育った禹博士(1898年~1959年)が東大農学部卒業後、母国韓国から農業政策のために呼ばれ農業発展に仕えた歴史的人物の一生を描いた小説》という書籍を渡して、ここに書かれている通りの人だと伝えました。稲盛さんの奥様はその禹長春博士の娘さんなんですよね。
朝子婦人との結婚
大田 そうですね。兎博士のことはあまり知らなかったですが、30年ほど前、初めて稲盛さんと一緒に韓国出張に行ったとき、空港に着くと、記者がたくさん集まっているのですね。びっくりすると当日のテレビニュースでも翌日の新聞でも「禹博士の娘婿が来たる」と大きく報道されました。禹博士は韓国農業の父と呼ばれ教科書に載るくらい有名だったんですね。そのことを初めて知り、驚きました。
その後、また、韓国に一緒に行く時に、『家内の墓参りに一緒に行ってくれるか』と言われ、お参りさせていただきました。小さな山の頂にある立派なお墓でした。因みに、鹿児島にある稲盛家のお墓にも稲盛さんに誘われ、お参りさせていただいたこともあります。
─ 以前、稲盛さんに奥さんと結婚した理由を質問したら、『いや、そこはもうただ一緒になっただけよ』とだけ言われたので、国同士の関係や出身など、全然そういうことは気にしないで結婚したのだなと。
大田 結婚については実は面白いエピソードがあるんです。稲盛さんは、独身時代、仕事に没頭するあまり、昼食を抜かすことも多かったようです。すると、ある頃から毎日弁当が机の上に置いてあって、同僚の朝子さん(その後の奥様)が作ってくれていると思い食べていた。それが縁で結婚したんだと。でも朝子夫人に聞いたら、『違う違う。うちの母に、昼ご飯も食べない若い人がいると言ったら、弁当を一つ作るも二つ作るも一緒だからと私に持たせたので、机の上に置いていたのを勘違いしただけよ』と笑って。
─ 大いなる誤解だった。 大田 稲盛さんは「ただより高いものはない」と言っていましたね(笑)。