人をいかに育てるか─。海外売上高比率が9割のコマツの場合は「修羅場を経験させる」と社長の小川啓之氏は語る。コロナをはじめ、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエル紛争など想定外のリスクが起こることが当たり前となった。その中で同社は現場・現物・現実の3現主義で成長してきた経緯がある。建機市場はCO2ゼロ時代に突入しつつある。何が電動化の最適解か分からない中で、小川氏が導き出した進路とは?
小川啓之・コマツ社長 「世界市場は欧州や中国が低迷だが米国は堅調。市場を良く見て対応していく」
建機のカーボンニュートラル
─ 海外売上高が9割を占める中で、ASEANを今後の成長市場に位置付けています。その際、建機の電動化が重要になってきますね。
小川 そうですね。我々は「ブリッジテクノロジー」と呼んでいるのですが、カーボンニュートラルに向けた新動力源やソリューションの開発が実現するまでの間の架け橋となる技術が重要になります。
具体的には「ハイブリッド」やディーゼルエンジンを発電機代わりにしてモーターを回して動かす「ディーゼルエレクトリック」などです。
ハイブリッドは、現在20㌧と30㌧クラスの油圧ショベルや、鉱山で稼働する超大型のホイールローダーなどを市場導入しています。ハイブリッドはおそらくコマツしか量産できないと思います。
ハイブリッドのキーコンポーネント(限界成分)であるキャパシタ(蓄電器)やモーターなどは内製していますので、これはコマツの強みであり、当社しか量はこなせないですね。ですから、ハイブリッドでは他社に対しても非常にアドバンテージがあるので販売を増やしていきたいと思っています。
─ これはカーボンニュートラル時代では、非常に有力な武器になりますね。
小川 もともとハイブリッドは2008年に、他社に先駆けてコマツが量産しました。ただ、そのときはまだ「ハイブリッド建機」という市場は形成されていませんでした。その理由は他社が追随してこなかったからです。
一時期、ハイブリッドに対して様々なインセンティブが出ました。例えば、公共工事でハイブリッド建機を使うとポイントが上がるといったものです。それで需要が出てきたのですが、他社が追随してこないままインセンティブが終了してしまった。
自動車の場合は、トヨタ自動車がハイブリッドを出して、他のメーカーもどんどん追随したことで、ハイブリッド自動車の市場がグローバルに形成されていったのですが、残念ながら建機ではできなかった。しかし今は建機のハイブリッドが見直される機会になっているのではないかと私は思っています。
総所有コストをいかに下げるか
─ そこは追い風ですね。
小川 ええ。ですからもっと売れるのではないかと期待しています。
すでに欧州においては、我々が販売している30㌧クラスのショベルの売り上げのうち、4割以上がハイブリッドです。また、北米でも今までハイブリッドはあまり売れなかったのですが、昨年の北米最大の建機見本市「CONEXPO」でハイブリッドを展示したところ、お客様からは非常に好評でした。
建機のカーボンニュートラルは、最終的には電動化や水素を活用した燃料電池(フューエルセル)、水素エンジンといった技術でしか達成できません。ただ、そこに至るまでの過程で、いま持っている技術を最大限生かすことは重要だと思っています。
─ これまでの技術開発が実ってきたと。
小川 実ってきたといいますか、そういったことをずっと続けてきたということです。いま展開している電動化もグローバルではどこにも市場はありません。欧州で少しずつバッテリーのミニ建機の需要が出てきた程度です。全く普及はしていません。
その一番の理由はコストです。バッテリーやモーター、インバーター(電力変換装置)だけで大体コストの半分以上ありますから一般的な機械より2~3倍高くなります。
例えば国からインセンティブが出たり、電気代が圧倒的に安い、あるいは新車から中古になるまでのオーバーホールコストなどを含めたTCO(Total Cost of Ownership=総所有コスト)が1.3倍くらいになれば、お客様は受け入れてくれる可能性がありますが、2倍では難しいと思います。
─ そのあたりの対応で各国に差はあるのですか。
小川 中国では少し電動化建機が普及し始めています。これはおそらく国がインセンティブを出し、電気代も圧倒的に安いからです。TCOで見ても、ある程度お客様が受け入れてくれるレベルになっていると思います。
ただ、中国以外の電動化建機の市場は全くありません。欧州もインセンティブが出ているのはノルウェーなどの北欧とオランダくらいです。ですからコストが最大のネックになってきますね。ただ最初に電動化のマーケットができるのは欧州だと思います。
─ なぜですか?
小川 気候変動への意識が高いからです。それから比較的技術的なハードルが低いのはミニ建機で、このミニ建機の大きな市場は北米と欧州になるからです。ですから、まずは欧州でミニ建機の電動化の市場ができるのではないかと思っています。
それからもう1つ市場ができるとすれば大型の鉱山のあるエリアです。特にメジャーと呼ばれるブラジルのⅤaleや英豪系リオ・ティント、豪英系BHPなどは既にマイニングオペレーション(採掘作業)のカーボンニュートラルやCO2ゼロをステークホルダーにコミットしていますからね。
その意味では、鉱山のオペレーションでCO2を排出する超大型のダンプトラックのカーボンニュートラル化は必須であり、そこはある程度、コストも容認してもらえるのではないかと思います。ただ、そこの技術的なハードルはまだまだ高いです。
超大型のダンプトラックをバッテリーだけで動かすのは、なかなか難しい。出力は大体1000キロワット以上必要になりますからね。そこで我々としてはバッテリーだけではなく、水素燃料電池や水素エンジンといった領域の研究開発を進めていく必要があると思っています。
1つの動力源に絞らずに、全方位的にカーボンニュートラルに向けた技術の研究開発を進めていくという考え方ですね。
想定外のリスクとどう対峙?
─ 何が電動化の主流になるかは分かりませんからね。
小川 はい。機種やサイズ、使用環境ごとにカーボンニュートラルに向けてのアプローチが違うと思います。ミニ建機はバッテリーの出力が低いので、ハードルはそんなに高くありません。ミニ建機が使われるのは都市土木ですから充電インフラのハードルも高くない。
一方で、サイズが大きな機種になってくると、インフラ面も含めて技術的なハードルがものすごく高くなります。我々の機械は地形的に孤立した山の中などで使われますから、どこで給電するのか、どこで水素を供給するのかといったインフラ整備の問題が必ずつきまといます。それが充実しないことには市場は形成されず、まだまだ時間がかかるように思います。
─ 多面的な知恵が要求されるわけですが、小川さんが社長に就任して5年になりますが、経営で最も注力したものとは。
小川 コロナ、ロシアによるウクライナ侵攻、中東問題など、想定できないことが起きました。このようなパンデミックや地政学的リスクなどの想定外のリスクに対しては、フレキシブルに迅速に対応することが非常に重要で、その場面ごとにいかに早く判断し、実践するか、対策を打っていくかが大事です。
─ そういったスピード感のある人材をどのように育成していきますか。
小川 コマツの場合は「修羅場」を経験することです。困難な場を経験させることが非常に重要です。そういった修羅場を経験した人たちがキャリアを積み、レベルアップすることがコマツの今までのやり方だと思います。経験や実践から得る「経験知」「実践知」に勝るものはありません。
私たちの価値観を行動様式で表現した「コマツウェイ」もそこを大事にしていると思います。もともとコマツはTQM(トータル クオリティ マネジメント・総合的品質管理)で成長してきた会社です。言い換えれば現場・現物・現実の3現主義で成長してきた会社でもあります。
─ 小川さんは「リーダーに三理あり」という言葉を使っています。科学的に考える「合理」、バランス感覚が求められる「道理」、メンツを立てて個人的な判断をする「情理」ですね。
小川 合理、道理、情理のバランスをうまく取ることが大事です。どれが良い、悪いという話ではありません。そのバランスがとれていることで適切な判断ができると思っています。
中小企業を経営していた父
─ 国内外で合理化と増強計画の双方を経験しましたが、この経験は生きていますか。
小川 ええ。先ほど申し上げた経験知や実践知を積むことができましたからね。
私はいつも新入社員に言っているのですが、一番大事なのは専門技術力だと。自分のバックグラウンドになる専門技術がないといけないと思うのです。私の場合は生産技術でしたが、それは何でもいい。
経理でもマーケティングでもいい。何でもいいから、しっかりしたバックグラウンドを持ちながら、いろいろな経験を積んでいくことによって、人は成長していくのだと思います。特に海外ではそれが経験できます。
海外に行くと、1人では何もできないことが良く分かります。現地の人とうまくコミュニケーションを取りながら、しかも多文化需要力と言っていますが、現地の文化をリスペクトする、人をリスペクトすることが非常に重要になります。
私も入社5年目くらいに米テキサス州にある協力企業に技術指導で4カ月ほど行ったのですが、現場の人はメキシコ人。ヒスパニックしかいませんでした。ですから、英語も通じません。コマツの工場はイリノイ州にあり、近くには誰も知り合いもいない。しかし、そこで思ったことは、図面を通してならば会話ができると。ここでの経験は大きかったですね。
─ 小川さんのお父さんは中小企業の経営者でしたね。
小川 はい。大阪で工業商社を経営していました。ただ、バブルが弾けた後の03年に経営が厳しくなり、父は会社そのものを売却したのです。そのときは社員からも結構なバッシングを受けたようです。03年は私が米国に赴任する時期と重なっていましてね。私はもともと家業を継ぐ気もなく、家業を継ぐはずの私のいとこも亡くなってしまったのです。それで父は会社の売却を余儀なくされたのです。
─ 苦渋の決断ですね。
小川 ただ従業員にとってみれば、裏切り行為のように思われたと後から聞きました。借金を返済して従業員の雇用を守るために私財をすべて売り払ったりしたようです。あまり父は自分のことを話さなかったので、後から母親などからそういった話を聞きました。そんな父の姿が自分には多少なりとも影響しているような気がします。
(了)