戦国時代に勝ち上がった武将たちはいずれも闘いを有利に導く手段として情報を活用した。いかに早く正確な情報を大量に仕入れ、それを戦略に落とし込むか。偽情報によって相手を攪乱することに腐心し、物理的な戦いをおこなう前に、できるだけ戦況を有利な方向に導くために情報戦を用いた。
現代でもそれは変わらない。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとハマスとの戦いにおいても、物理攻撃とともにサイバー攻撃や情報戦が繰り広げられている。本稿では、「大坂の陣」において戦国武将がかつて取った戦略をサイバーセキュリティの視点から検証する。
●セキュリティ×歴史シリーズ
天下分け目の関ヶ原の戦いから学ぶセキュリティ対策の教訓
関ケ原の戦い、内部不正で破れた西軍と平時の備えと人を押さえて勝った東軍
城攻めの種類とサイバー攻撃
城攻めには複数の戦法があり、そのいずれも現代のサイバー攻撃になぞらえることができる。大軍で城を攻める「力攻め」はDDoS攻撃といえるし、城を水浸しにして兵糧を腐らせ、籠城を終わらせようとする「水攻め」はランサムウェア攻撃やワイパーマルウェア攻撃といえる。
また、城の周囲の米を買い占め、兵糧の補給力を断つ「兵糧攻め」はサプライチェーン攻撃に近い。「奇襲」はゼロデイ攻撃といえるし、「調略」は内部脅威といえる。そして、今回のテーマとなる「欺瞞」はだましのテクニックによって戦いを有利に持っていく戦法で、サイバー攻撃では情報戦に該当すると考えられる。
力攻め以外は知能戦といえる。戦国時代に名を馳せた武将たちは、知能戦や知能戦との合わせ技で戦わずして勝利する手段を選んでいることがわかる。現代は、力攻めをすると同時に戦況を優位にするためのサイバー攻撃を行う「ハイブリッド戦」が行われているが、その考え方は戦国時代からあったといえる。
第六のドメイン「認知」とは
孫子の兵法には、「城を攻めるはもっとも下策」と記されている。そもそも、城はさまざまな工夫を凝らし、守りに特化して待ち構えるために作られている。孫子は、そこを攻めることは時間がかかり、多大な犠牲を払う最悪な策であると教えている。この考え方はハッカーも同じで、多層防御により強固に守られた本丸となる企業や組織を狙うことは時間も手間もかかる。
そこでハッカーは、防御の薄いところを攻めてくる。例えば、防御ネットワーク内のシステムではなくBYOD端末や在宅勤務中の従業員を狙ったり、本丸となる組織のサプライチェーンの末端組織を狙ったり、あるいは会社のメールではなく個人メールを経由した攻撃を行ったりする。防御の薄いところを踏み台にして、本丸に攻め込んでいく。
ハイブリッド戦の観点では、戦い方のドメインにも変化が起きている。従来は陸・海・空だった戦争のドメインに宇宙が加わり、さらにサイバーも戦場の一つとして追加された。最近では第六のドメインとして「認知」が注目を集めている。認知ドメインには認知戦、心理戦、情報戦などがあり、サイバーと合わせた影響工作として行われる。
サイバー戦と情報戦、つまりサイバードメインと認知ドメインの攻撃を一緒に用いることで、相手の認知を変化させることができる。具体的には、相手側の行動を遅らせたり、間違った判断をさせたりする。サイバーの観点では新しい攻撃手法と考えがちだが、実は戦国時代から行われていた。それを大坂の陣を例に見ていこう。
大坂の陣とは
大坂の陣はご存じのように、江戸幕府(徳川家)と豊臣家の間で行われた合戦のこと。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、江戸幕府の征夷大将軍となり、天下の覇権を握ったように見える。一方で、豊臣家は徳川家の主君筋であったため、豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼が成人後に天下を収めるものと信じられていた。その豊臣家を徳川幕府が滅ぼした戦いである。
豊臣秀頼というと、色白の美青年として描かれることが多い。しかし、調べてみると豊臣秀頼は身長197cm、体重161kgと非常に大柄だったということが、家康の臣下の礼の際に記録されている。また、祖父である浅井長政、母である淀殿から受け継がれた体格の良さ、そして幼少の頃から栄養に富んだ食生活を送り、武士として成長したことからも、体格が良いという信憑性は高いと考えられる。
関ヶ原の戦いのときは8歳だった豊臣秀頼も、臣下の礼では19歳に成長しており、そのとき70歳だった徳川家康が脅威に感じたことは想像に難くない。また、豊臣家は関ヶ原の戦いの後もパワーを維持していた。そもそも豊臣家は徳川家の主家であり、徳川家は豊臣政権の五大老のトップに過ぎなかった。
さらに、豊臣家は朝廷の関白の地位にあり、朝廷の命令を武士に与える権限を持っていた。朝廷とのつながりは、家康が将軍になっても超えられない家柄であった。経済力についても、豊臣家は摂津、河内、和泉の3カ国を持ち、特に堺の港は国内外との交通・交易の要衝でもあったため、港の使用料だけでも相当な税収となっていた。
経済覇権と政治覇権、朝廷とのつながり、家柄など、豊臣家は多くの面で徳川家をしのいでおり、徳川家康はそこに感じていた脅威が臣下の礼で確信に変わったと考えられる。なんとしても豊臣家をつぶす必要があると考えたことであろう。