量子コンピュータを取り巻く現状

東芝は、独自の量子インスパイアド技術(疑似量子コンピュータ)を用いた「シミュレーテッド分岐マシン(SBM=Simulated Bifurcation Machine)」の開発成果について説明会を行った。また、新たに量子インスパイアド最適化ソリューション「SQBM+」の提供を2022年3月から開始し、金融や創薬、遺伝子工学、物流、AIなどの領域で複雑化する社会課題の解決に乗り出すことにも触れた。

シミュレーテッド分岐マシンは、膨大な数の選択肢から最適なものを見つけ出す、大規模組み合わせ最適化問題を解くために用いられる技術で、製造や材料開発、交通、物流、金融、管理、創薬などの様々な分野での課題解決に貢献することが期待されている。コロナ禍においても、治療薬に最適な候補物質の選定、医療従事者の最適な勤務シフトの作成、患者の最適な搬送先の選定など、組み合わせ最適化問題の解決に対する必要性が高まっているという。

東芝 研究開発センター ナノ材料・フロンティア研究所フロンティアリサーチラボラトリー 研究主幹の後藤隼人氏は、「最先端とされる量子コンピュータでは、量子化学計算や機械学習などの万能量子計算に適したゲート式が注目を集めているが、規模が小さく、役に立つレベルに到達するにはまだ時間がかかる。それに対してアニーリング方式は、組み合わせ最適化に特化しており、D-Waveでは5000量子ビットの超伝導チップを搭載している。だが、いずれの技術も組み合わせ最適化のなかで最も難しい問題の集合である『NP完全問題』を解くのは難しいと言われている」と前置きしながら、「量子コンピュータ以外にも、レーザーを活用したコヒーレントイジングマシン(CIM)や空間光学イジングマシンといった特殊ハードウェアによる計算や、従来のデジタル計算機の技術を活用した力学系シミュレーションであるシミュレーテッド分岐マシン、シミュレーテッドCIM、Hopfield-Tank、さらにはシミュレーテッドアニーリング(SA)であるデジタルアニーリングマシン、STATICA、制限ボルツマンマシンでも組み合わせた最適化問題に対応することができる」と、現在のコンピューティング環境を説明。その上で、「『NP完全問題』を解けるマシンが存在したら、それは、量子コンピュータよりも強力な計算機になると信じられている。既存のデジタル計算機の最先端技術を活用すれば、チップの全結合が容易であるというメリットに加えて、商用化されている実績が多いため、社会実装がしやすいというメリットもある。現状では、イジングマシンでは量子コンピュータよりも、疑似量子コンピュータ技術などを用いた既存の計算機の最先端技術を活用した方が、計算が速い」と指摘した。

  • シミュレーテッド分岐マシン

    東芝 研究開発センター ナノ材料・フロンティア研究所フロンティアリサーチラボラトリー 研究主幹の後藤隼人氏

シミュレーテッドアニーリングで1年以上かかる計算を30分で解くことに成功

東芝のシミュレーテッド分岐マシンは、2016年に東芝が提案した量子分岐マシンが原点となっており、2019年には東芝がシミュレーテッド分岐アルゴリズムを提案。これをもとにした最先端量子インスパイアド技術になると位置づけている。

「2016年に、KPOネットワークを提案し、これを量子力学によって解くと量子分岐マシンとして活用できるが、現在の計算機ではシミュレートが難しく、超伝導回路実装が必要であり、スケールを実現するにも時間がかかるという課題がある。その一方で、KPOネットワークをハミルトンの運動方程式により、古典力学に従い、古典分岐マンシとして活用すれば、現在のデジタル計算機でもシミュレートが可能になり、大規模化も実現できることがわかった。これをもとに、東芝では、2019年に、最先端の古典技術を活用して、優れたイジングマシン(組み合わせ最適化専用マシン)を開発できることを発見。ここでは、古典分析マシンの運動方程式を高速シミュレーションに適した形に改変し、これがシミュレーテッド分岐マシンの基本方程式になっている。さらに、陽的シンプレクティック・オイラー法を適用し、高速アルゴリズムをシミュレーテッド分岐アルゴリズム(SB)として確立。SBは微分方程式で解くため、並列更新が可能であり、PCクラスタやGPU、FPGAといった既存の並列計算機による高速化が容易である。並列計算というコンピューティングの技術トレンドとの親和性が高いアルゴリズムともいえる。これを活用して高速で組み合わせ最適化問題を解くのが、シミュレーテッド分岐マシンになる」とした。

だが、「数学的にはまだ証明されていない古典力学の断熱過程を利用して解を探索することになる。理論的な研究は、今後も継続的に行うことになる」とも述べている。

  • シミュレーテッド分岐マシン

    イジングマシンの各方式 (提供:東芝)

2019年の発表時点では、FPGAを実装したシミュレーテッド分岐マシンは、コヒーレントイジングマシン(CIM)の約10倍の高速化を達成。8個のGPUを活用したGPUクラスタ実装シミュレーテッド分岐マシンでは、CPUで実行しているシミュレーテッドアニーリングの約1000倍の高速化を実現したという。

  • シミュレーテッド分岐マシン

    FPGAやGPUを使って高速化を実現した例 (提供:東芝)

「だが、初期のシミュレーテッド分岐マシンでは、アナログエラーとポテンシャル障壁により、最適解が得られない場合があった。そこで、2021年2月に開発した第2世代シミュレーテッド分岐アルゴリズムでは、壁の導入と非線形項の削除により、アナログエラーを低減するとともに、高速に、良解に収束することができる『弾道的シミュレーテッド分岐アルゴリズム(bSB=ballistics Simulated Bifurcation)』と、離散化と疑似量子トンネル効果によって、さらなる高精度化を実現する『離散型シミュレーテッド分岐アルゴリズム(dSB=discrete Simulated Bifurcation)』によって、これらの課題を解決した。古典力学の限界を打破して、より高精度な解を獲得できた」とする。

この進化により、FPGAを実装したbSBマシンでは、2016年のCIMに比べて約120倍の高速化を実現。STATICAに比べても3~4倍の高速化を実現したという。また、FPGAを実装したdSBマシンでは、2000スピン以下の多様な問題の最適解を最速で得られたという。さらにGPUクラスタを実装したdSBマシンでは、10万スピン問題の最適解を約2分で得られたほか、100万スピンの問題では約30分で最適解に到達したという。「10万スピンの問題をSAでやると、1年2か月かかる。この計算を30分間で解くことができた」と、その実績に自信をみせた。

  • シミュレーテッド分岐マシン
  • シミュレーテッド分岐マシン
  • FPGA実装dSBマシンと他方式の性能比較 (提供:東芝)

また、「最終的には、GPUを用いるよりも、多数のFPGAをつなげた方が、より高速化できるため、それに対応した技術も新たに発表している。多数のFPGAを自律的に同期させて、高速で、大規模なマシンを実現することができる」と述べた。

FPGAを活用したオンプレミス版サービスを提供

東芝では、FPGA実装シミュレーテッド分岐マシンを活用したオンプレミス版のサービスを提供している。

東芝 研究開発センター 情報通信プラットフォーム研究所コンピュータ&ネットワークシステムラボラトリー 上席研究員の濱川洋平氏は、「FPGA実装シミュレーテッド分岐マシンは、金融取引の最適化や動画処理、複数のロボットが協調して動作する群ロボットの制御など、リアルタイムシステムでの活用を想定している。制約された時間のなかで瞬時に判断する場合には、これまでは経験則に基づく簡素な条件判別式による判断となっていたが、イジングマシンを利用することで、すべての解空間のなかから最適解を探索し、合理的な判断ができるようになり、インテリジェントなシステム構築が可能になる。これを瞬時応答最適化システムとして提供することができる」とした。

  • シミュレーテッド分岐マシン

    東芝 研究開発センター 情報通信プラットフォーム研究所コンピュータ&ネットワークシステムラボラトリー 上席研究員の濱川洋平氏

FPGA実装シミュレーテッド分岐マシンは、FPGAのなかにシミュレーテッド分岐アルゴリズムを書き込むことで、超高速、超低遅延のイジングマシンを実現しているという。

FPGA実装シミュレーテッド分岐マシンによる瞬時応答最適化システムは、2019年10月に超高速裁定取引マシンのPoCを行ったのに続き、2021年5月には、HFT等の投資戦略有効性についてダルマ・キャピタルと共同検証を開始。実用化の可能性を探っている。

その一方で多くの人が瞬時応答最適化システムのコンセプトを検証できるように、2021年3月から、汎用イジングソルバとして、「オンプレミス版SBM(シミュレーテッド分岐マシン)」の提供を開始している。

  • シミュレーテッド分岐マシン

    FPGA実装シミュレーテッド分岐マシンのこれまでの流れ (提供:東芝)

オンプレミス版SBMは、インテルのFPGA PAC D5005を使用したSBMサービスで、ユーザーは、サーバーやデスクトップに、市販のFPGAボードを装着。東芝が提供するSB専用高速処理回路イメージ、API、リファレンスデザインといったソフトウェアをインストールして利用することができる。

  • シミュレーテッド分岐マシン

    オンプレミス版シミュレーテッド分岐マシンの概要 (提供:東芝)

「SB専用高速処理回路はミリ秒級の低レイテンシーを実現し、C/C++、Pythonといった一般的なソフトウェア技術者が使用可能なインタフェースを提供している。3行のプログラムを書くだけでSBMを動かすことができるシンプルな点も特徴だ。また、リファレンスデザインでは、動画中の複数オブジェクトをリアルタイムに追跡するマルチオブジェクトトラッキング、ユーザーが指定する訪問地点に対して、即座に最適な巡回経路を提示するインタラクティブ最短巡回経路探索、株式のポートフォリオ最適化などに利用できるストリームデータ処理型最大独立集合検出を提供。UIを含めて迅速にプロタイピングが可能であり、リアルタイム性、インタラクティブ性、ストリームデータ処理を実現できる」とした。

お茶の水女子大学の工藤研究室では、オンプレミス版SBMを活用して、イジングマシンによるクラスタリングアルゴリズムの研究を行っており、特定の地域の配達先に、特定の台数のトラックを使って効率的に配送するにはどうしたらいいかといった結果を導き出すことができるという。ここでは、イジングマシンと古典計算機の繰り返し計算によるハイブッリドアルゴリズムを開発。低レイテンシーなイジングマシンを使うことで、求解のアクセラレーションを実証したという。

量子インスパイアド最適化ソリューション「SQBM+」の提供を開始

さらに、東芝デジタルソリューションズでは、SBアルゴリズムをベースにした量子インスパイアド最適化ソリューション「SQBM+」を、2022年3月2日から提供を開始している。

  • シミュレーテッド分岐マシン

    量子インスパイアド最適化ソリューション「SQBM+」の概要 (提供:東芝)

東芝デジタルソリューションズ ICTソリューション事業部 チーフエバンジェリストの岩崎元一氏は、「本格的量子コンピュータの世界が実現する前に、量子と古典のハイブリッドによって、いますぐに使える環境が実現されている。その一角を担うのがSQBM+となる。高速、大規模、いますぐ使えるといった特徴を持つ東芝独自のイジングマシンであり、シミュレーション応用、機械学習応用、最適化応用で利用することが可能になる」とする。

  • シミュレーテッド分岐マシン

    東芝デジタルソリューションズ ICTソリューション事業部 チーフエバンジェリストの岩崎元一氏

量子コンピュータの研究から生まれた、組み合わせ最適化ソルバーであるシミュレーテッド分岐マシンに、速度、精度、規模を大幅に向上させる新たなアルゴリズムを採用。量子インスパイアドならではの拡張性と、ソフトウェアならではの柔軟性を持つという。

「イジングマシンが扱うことできる形式であるQUBO(Quadratic Unconstrained Binary Optimization)を自然に拡張できるほか、様々なハードウェアに適した形でソフトウェアを実装できる柔軟性が特徴になる」とした。

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    QUBO(Quadratic Unconstrained Binary Optimization)の概要 (提供:東芝)

これを活用することで、金融取引の最適化、産業用ロボットの動作の最適化、移動経路や送電経路の最適化、創薬のための分子設計などに応用できるという。

  • シミュレーテッド分岐マシン
  • シミュレーテッド分岐マシン
  • 東芝のシミュレーテッド分岐マシンの活用領域のイメージ (提供:東芝)

パートナーとして、グルーヴノーツやカナダのCogniFrameなど6社と連携。AWS Marketplaceでの実行モジュールの提供に加えて、今後は、マイクロソフトが公開している量子ソリューション向けフルスタックパブリッククラウドエコシステム「Azure Quantum」でのクラウドサービスの提供、クラウド環境には向かない秘匿性の高いアプリケーションや超低遅延を必要とするアプリケーション向けにオンプレミス版の提供、パートナーのアプリケーションへの組み込みやOEM提供、さらには、定式化サポートや教育などのプロフェッショナルサービスの提供を予定している。

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    SQBM+事業のアーキテクチャ (提供:東芝)

「時間をかけても大規模な計算をしたい、あるいは場所を問わないという場合には、GPUリソースが潤沢なクラウドを活用し、データを外に出せない場合や、超低遅延環境で計算したい場合には、オンプレミス版で提供する。顧客の要求に適した様々なサービス形態を用意している」としたほか、「東芝が提供するのはエンジンの部分であり、業種別パートナー、汎用パートナーが、これをソリューション化して、顧客に届けることになる。まずは、成功事例を積み重ねていくことが大切である」などとした。