2022年2月16日、東京大学から、「生物はどこまで賢く匂いを探索するのか?~ノイズに負けない探索戦略を紐解く新理論を構築~」というタイトルのプレスリリースが発表された。

この理論を構築したのは、東京大学 大学院情報理工学系研究科 博士課程2年の中村絢斗氏と東京大学 生産技術研究所の小林徹也准教授。

では、この理論は、どのようなものなのか、今後の未来においてどのように役立つのだろうか、今回はそんな話題について紹介したいと思う。

生物のノイズ下での匂い源探索行動の最適制御理論とは?

生物は、匂い物質の分子を嗅覚で感知して、その情報に基づいて、適切に生物自身の運動を制御することで、匂いの発生源である餌などを効率的に探索することができる。

そして現在までに、国内外では、さまざまな生物の匂いの探索に関する研究が行われているという。

生物ごとに探索に使える能力が異なるため、生物に応じたものになっており、例えば、匂い探索の研究ではハエや蛾などの昆虫によるフェロモンの探索、細胞性粘菌などのアメーバ状の細胞が化学物質の濃度の変化を感じるメカニズムの解明などがあるという。

他にも、匂いの探索に首振り運動ができる生き物、例えば、線虫や犬、そしてわれわれ人間は移動せずに、頭などを動かすことで匂いの方向を感知するが、その探索メカニズムを探るものがある。

今回発表された中村氏と小林准教授の研究は、生物が匂いの源を探索する際にとるべき最適な行動制御の原理を、生物自体が持つ揺らぎやノイズ、非線形な振る舞いを考慮した上で扱える理論として構築したものだ。

具体的には、確率最適制御理論の一種である「部分観測制御」に「Kullback-Leibler制御」を組み合わせることで、ノイズや非線形性を考慮した上で探索行動の最適性を扱う理論を構築することに成功。

そして、大腸菌の嗅覚・運動系にこの理論を適用して、大腸菌の嗅覚系と運動系の実験的知見と良く対応することも確認できたという。

ちなみに、部分観測制御とKullback-Leibler制御については、詳しい用語解説が東大が発表したプレスリリースにあるのでそちらをご覧いただきたい。

  • 大腸菌による匂い探知と運動制御のイメージ図

    大腸菌による匂い探知と運動制御のイメージ図(出典:東京大学)

この研究のここがすごい!

この新しい理論を構築するにあたって、時間がかかった部分、そして、研究としてのブレイクスルーになった部分を中村氏と小林准教授に伺った。

中村氏は、膨大な生物系・生物物理系の論文を調査・解析。そして、あることに気が付いたという。

それは、理論的に最適とされる匂いの感知の方法(数式として理論的に得られる)が、実際の大腸菌の匂い感知の分子機構を物理化学的にモデル化した方程式と一致することだ。

指導教官の小林徹也准教授は、理論的に求めた式と、実際の現象(大腸菌の匂い感知)の生物物理的な解析から見出された式がここまで一致するとは想定していなかったと、とても驚いたという。これが1つ目のブレイクスルーとなった部分だ。

もう1つは、最適な感知と最適な制御を結びつける理論を新しく構築したことだ。人が構築したロボットなど物理的な機構がよくわかっているシステムの制御理論は非常に発展している。

しかし、生物のようなシステムは非線形性が大きくまた、大きなノイズもシステムに内在しているため、制御理論を構築することは、とても難しいという。

そこで、中村氏は、非線形性を扱える部分観測確率最適制御の枠組みに、Kullback-Leibler制御の概念を活用して解消できることを発見したのだ。この辺りの理論は、数学としても非常に込み入っていて、実際の結果を得るまでに中村氏がこの分野を深く研究したことで結果を得ることにつながったのだ。

中村絢斗氏と小林徹也准教授が考える未来像とは?

この理論は、大腸菌のシステムが非常に効率的に設計されていることを示し、理論の応用可能性を示すことができたが、では、この大腸菌以外のもう少し高等生物である昆虫やさらには哺乳類に適用するとなれば、どのようになるのだろうか。

中村氏と小林准教授によれば、もっと複雑な運動制御、複雑な匂い感知機構を持つような場合に対してこの理論を拡張していけるという。

しかし課題もあるという。それは複雑な状況を想定してゆくと、理論的に得られる最適な感知の仕方や行動制御がすぐに複雑になりすぎて生物が持ちうる現実的な分子・神経メカニズムでまかなうことができなくなるからだ。制御や感知を実現するシステムに制限・制約があることも考慮した理論の拡張なども現在進めているという。

そして、もう少し先の未来像もお伺いできた。それは、生命現象定量的に記述・制御・予測するための方法論を構築するとともに、生命現象の背後に隠れている定量的かつ普遍的な法則を明らかにすること、それが目指している未来だという。

その具体的かつ個別なゴールとしては、「数億の細胞からなる我々の複雑な体が、どうやって1つの受精卵からうまく発生できるのか?」や「生体はどうやって複雑な世界やお互いを認知・記憶・学習できているのか?」、「最も原始的な生物はどんなものがありえるのか、そもそも生命が誕生できたのはなぜか?」などの生物学の基本的な問いに答えることだという。

また、工学的な視点のお話も伺えた。我々や生物が世界を感知する方法として視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の五感がある。

それぞれ、光情報(視覚)、音波情報(聴覚)、力・圧力の情報(触覚)、化学情報(嗅覚・味覚)の処理に対応しているが、一方で嗅覚や味覚の化学情報は、そもそもその受容体が発見されたのがほんの20~30年程度前で、工学的にも多様な化学物質を感知するシステムもその性能は不十分だという。

逆にいうとこのような分野がこれからのブレイクスルーを生み出す、そう考えておられるのだ。

いかがだっただろうか。今回、すごい研究成果のお話を伺うことができた。

驚くのは、この研究成果だけではない。この新しい理論を構築したのは、東京大学博士課程2年生だということだ。

この理論を構築した中村氏は、今後の展開について、さまざまなことを検討されている。 例えば、なるべく効率的に探索するために生物がどのような戦略をとっているのか、という問題を扱えるようにコンピュータで解くために使われる近似の理論なども参考にしつつ発展させたり、多くの生物が共に存在する場合、群れの仲間や天敵の状態といった周りの生物に関する情報が不完全にしかわからない状況での戦略を検討したりなどだ。

また、進化の観点で多様な環境に適応した種がそれぞれどのように特徴を変化させているか、あるいは保存しているか、といった複数種類の間を比較したりと、多様な種から特徴を取り出したり比較するためのデータ解析技術も身につけることで、議論の幅を広げていきたいという。

筆者も博士の学位を有しているが当時の自分と照らしても驚くことばかりだ。このような若き素晴らしい才能を純粋にすごい、羨ましいと感じるのはわたしだけだろうか。